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咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

旧与野市にあった工場

2016年03月27日 | 日記
さいたま市が誕生してまもなく15年であるが、さいたま市が誕生したことで消滅した与野市は昭和33年7月15日誕生した。その日に発行された与野市制だより(号外)を見る。新市の名称について、はじめは「埼玉市」の名称希望が多かった。
二面を見る。「産業」のくだりでは、当時与野市に存在していた会社や工場が例示されている。
① 松本産業
② ライファン工業
③ 三輪精機
④ 田中計器工業
⑤ 日本エタニットパイプ
⑥ 日本ピストンリング
⑦ 古谷製菓
⑧ 金剛製作所
⑨ 野口興業
私は、最後の野口興業という会社は知らないのだが、その他の会社、工場があった場所は大体わかる。
今日は、それら(①~⑧)の会社工場跡は現在どのようになっているかをみてみたい。

昭和52年の地図を見ると⑥⑦⑧が表示されている。
その地図で大宮駅南側の範囲を見ると④が表示されている。

与野市史所載の昭和9年の与野町案内図を見ると、エタニットパイプ工場と松本工場が表示されている。⑤と①だと思う。

③の三輪精機は2014年7月のヤフー地図に表示されている。

②のライファン工業については、平成14年発行『与野商工会議所創立50周年記念誌』に、昭和51年11月の出来事として “ ライファン工業敷地内に西友ストアー誘致計画発表 ” との記述がある。
ライファン工業HPから沿革を見ると、“ 1981年(昭和56年) 埼玉県与野市(現さいたま市)の工場跡地にライファンビル完成。(株)西友ストア(現西友)へ賃貸。 ” との記述がある。
同HPのこの写真に見える工場は現在の西友(2010年7月撮影)のところだと思う。
平成5年発行『レンズがとらえた昔の与野』所載の昭和33年の与野駅前通りと17号国道交差点の筋向かいに見える工場だと思う。
与野市制だより挿入写真

この地図に与野市誕生当時存在していた工場(①~⑧)の大体の位置を示すとこのようになるのではないだろうか。
① 与野ハウス
② 西友
③ 島忠ホームズ
④ パークシティ
⑤ 淑徳与野高校
⑥ イオンモール与野
⑦ 彩の国さいたま芸術劇場
⑧ コープ野村クローバー・シティ与野
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8 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (房総びと)
2019-02-21 00:23:26
古い資料を丹念に示して構成された内容は素晴らしい。埼玉を離れたが65年暮らした与野への愛着は大きい。偶然検索した工場名でここへ。
与野市制だよりを感慨を持って読みました。埼玉市構想はその後の3市合併で何度も持ち出された記憶で、与野が埼玉市を希望したとは。新編武蔵風土記にあったと思いますが、余った野原に由来する与野町の名は、さいたま市与野区を作る運動が起きたが国のごり押しで中央区は政令指定都市に必ずと言われたそうで与野市民は憤慨しています。歴史ある地名は残すべき
1934年の与野町の図は始めて見るものです。与野駅前のかにやは料亭だったと聞いたが広大な雑木林に家があって虫取りの子供が集まった。福原沼は農園だったとは気がついていないが西側の川に福原橋があるので何らかの貢献があったのでしょう。今や全キュウリに導入されている落合節成り遺伝子を戦火から守った落合園が地図に無いのは不思議ですが存在したはずだなあ
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落合節成 (咲いた万歩)
2019-02-21 07:43:51
おはようございます。
過大な評価をいただきありがとうございます。
「落合節成」のことは初めて知りました。与野の誇りですね。
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戦時下の話 (かおる)
2020-11-11 23:45:34
 はじめまして!昔のことを良くお調べになられて、感心いたしました。興味深く拝読しました。
わたしからも、以下はご参考までに。
 昨年逝去した母が、戦時中に動員で松本産業で働いていたそうです。兵隊さんの落下傘のひもづくり。たびたび爆撃にあったり、機械に巻き込まれて死にそうになったり。帰路に与野駅のホームで電車を待つ間、機銃掃射から逃れて、当時線路の脇に一面に生えていた、ひまという真っ赤な花畑に逃げ込んだら、とがった茎が痛かった。という話を、何度も聞きました。
 松本産業はちなみに、昭和40年代にはもう建物はなく、跡地は石垣で囲まれて中は見えませんでした。そこがどういう場所だったか、学校で知る人がいなくて皆に驚かれました。今となっては遠い昔話でした。
失礼しました。
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松本産業 (咲いた万歩)
2020-11-12 07:17:48
おはようございます。
大変貴重なお話しを伺うことができました。ありがとうございます。
昭和4年ごろの上落合の地図には松本ひも工場とありまして、「落下傘のひもづくり」は納得できました。
『松本産業七十五年史』に、昭和20年3月10日の東京空襲で東京本社が焼失、一時期本社を与野工場に移したことが書かれておりましたが、与野にも戦時中空襲があったことは知りませんでした。
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戦時下の話その2 (かおる)
2020-11-13 23:13:41
 お返事をありがとうございました!昔の地図や松本産業のこと、良くお調べになっておられ感心いたしました。いろいろ、とても勉強になります。
会社、まだあるのですか、びっくりしました!
 軍需工場はどこでも、米軍機の標的になっていたそうです。毎日さぞ怖かったことでしょう。駅のホームの人影も、目立ちますから。。北浦和駅の踏切近くの民家に焼夷弾が落ちたという話もありました。何故?
軍司令部が浦和にあったそうで、そこを狙っていたのかもしれません。昔のこと、母にもっとよく聞いておけばと反省しています。
 また、古い話で失礼しました。
 
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北浦和駅付近の空襲 (咲いた万歩)
2020-11-14 06:05:33
おはようございます。
戦時中の出来事をいろいろ教えていただきありがとうございます。
松本産業が今もあるのかどうかはわかりません。
北浦和駅付近の空襲についてですが、ウィキペディア「浦和高等学校(旧制)」に、昭和20年5月の空襲で講堂と本館を焼失したことが書かれております。この空襲の場合は、そこに軍の糧秣が保管されていたので標的になったのではないかということです。
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⑨ 野口興業 (WAOX)
2022-07-21 08:35:45
いつも興味深く拝見させていただいております。
文章だけでなく写真や古い資料等を探して添付され非常に解かりやすく楽しく読ませていただいております。
ふと私の地元さいたま市中央区(旧与野市)の記事が目についたのでコメントさせていただきます。

>最後の野口興業という会社は知らない
⑨ 野口興業は現在、中央区本町西3丁目にあるコスモ与野ガーデンシティ壱番館、弐番館の所にありました。詳しい業務内容は分かりませんが大きなロール紙から包装紙、紙袋などを製造していたように記憶しています。私の近所でも袋の糊付け当の内職をしている家庭もありました。

余談ですがコメント欄で空襲の話が出ていますが数十年前あるスナックのママさん(昭和9年生まれ)の話をふと思い出しました。そのママさんの実家は与野駅西口近くにあったそうです。空襲警報が鳴るとすぐ与野駅を超えて逃げたそうです。そこには当時、捕虜収容所が有ってその周りには爆弾が落ちてこなかったそうです。爆弾ではなく戦闘機が低空飛行でチョコレートやお菓子をばらまいていったそうです。それを欲しさに子供たちは我先に収容所の周りに集まって空を見上げていたそうです。
捕虜収容所の場所はママさんの話だと現在の日産海上火災保険ビル付近だと思います。ただその近辺に捕虜収容所があったとの記録は色々探しましたが出てきませんでした。あるいは近隣の工場で労役につかせるために臨時に開設されたので正式の収容所となっていなかったのかも知れません。そのママさんもだいぶ前に亡くなってしまったので確認しようがありません。いずれにしてもそこに捕虜収容所があったとすればそれを米軍が把握していたことになります。
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疑問解消 (咲いた万歩)
2022-07-21 19:19:49
こんばんは。
野口興業さんのことよくわかりました。永遠の疑問と思っておりましたが解消されてよかったです。
また捕虜収容所のお話しは大変興味深いです。
いろいろご教示いただきありがとうございます。
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