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咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

廃止された県道大宮志木線 (2)

2015年10月25日 | 日記
昨年9月、私はJR武蔵野線西浦和駅から東武東上線志木駅までこのようなルートで歩いた。
志木市役所前を通過して志木駅に向かう途中、本町1丁目信号交差点志木町道路元標を見た。
志木駅方面に進んで振り返った

本題ブログ(1)で私は大正9年認定埼玉県道67号大宮志木線の起点および終点は道路元標だと思うと書いた。
起点の大宮は道路元標が残っていないので、その場所を推定したのだが、終点の北足立郡志木町については道路元標が現存している。

明治38年出版『埼玉県地理案内』所載の志木町略図を見る。
国際日本文化研究センターサイトから所蔵地図の東京西北部(大正8年)を見る。
赤で示した道は志木町略図のこの道(赤)だと思う。
現在地図のこの道(赤)だと思う。赤の交差点に道路元標はある。
志木町略図の御嶽山と浅間神社は現在地図の御嶽神社と敷島神社だと思う。
敷島神社については、首都圏の寺社情報サイト猫の足あと敷島神社の由緒に “ 明治四十年に無格社の浅間神社に、字市場の村社の村山稲荷神社・星野稲荷神社と無格社の水神社の三社を合祀し、社名を敷島神社と改めて成立した ” との記述がある。

志木町略図を見ると、南北方向の道路に玉川上水が流れ、交差点には橋が架かっていたようである。
ウィキペディア玉川上水には “ 1722年(享保7年)以降の新田開発によって多くの分水(用水路)が開削されて武蔵野の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献した(代表例、野火止用水、千川上水) ” との記述がある。
志木町略図の玉川上水は野火止用水だと思う。

『埼玉県地理案内』に志木町はこのように案内されている。玉川上水については “ 町の中央をよぎり、筧により新河岸川を貫き、近傍の水田を灌漑す ” とある。
志木町略図には新河岸川に架かる百間筧が描かれている。

国際日本文化研究センターサイトから所蔵地図の東都近郊圖 全(弘化元年)を見る。新座郡に志木という地名はなく引又町がある。
ウィキペディア新編武蔵風土記稿で新座郡(目次)を見ると引又という地名はないのだか、新編武蔵風土記稿の館村を見ると、小名に引又町がある。水利として伊呂波樋についての解説と挿入図がある。
「志木まるごと博物館河童のつづら」サイトの志木のシンボル「いろは樋」を拝見すると、「いろは樋」は「百間樋」とも呼ばれていた。

新編武蔵風土記稿で新河岸川対岸の宗岡村(入間郡河越領)を見ると、用水の項で伊呂波樋について解説されている。

さて、大正9年認定埼玉県道67号大宮志木線であるが、本題ブログ(1)で起点と思われるところから羽根倉までのルートについて、昭和4年頃の地図にこのよう推定した
羽根倉から終点(北足立郡志木町)まではこのようなルートだったと思う。

羽根倉橋の歴史についてウィキペディアにはこのように記述されている。
時系列地形図閲覧ソフト今昔マップ3昭和24年地図の羽根倉橋を見る。昭和42年地図で見る。
ウィキペディアによれば今までの橋の下流側に木造冠水橋が架かっている。
昭和51年地図の羽根倉橋は昭和48年架け替えの永久橋だと思う。

昭和22年の空中写真で羽根倉橋を見る。昭和13年架設の橋だと思う。
昭和39年の空中写真で羽根倉橋を見る。昭和29年架け替えの橋だと思う。

平成12年浦和市立郷土博物館発行『記憶の中の風景 -写された20世紀の浦和-』所載の羽根倉橋。上の写真は左に旧羽根倉橋が見えるので志木側から浦和側を撮影したものと思う。
ウィキペディア羽根倉橋に挿入の木造の羽根倉橋(1962年)は、平成5年浦和市発行『図説 浦和のあゆみ』の羽根倉橋と同じ写真である。
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