本朝徒然噺

着物・古典芸能・京都・東京下町・タイガース好きの雑話 ※当ブログに掲載の記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

栄光のナニワ歴史展

2005年09月29日 | つれづれ
「渋谷繁昌亭」に行く前に、東急百貨店本店へ寄りました。
「大・大阪博覧会」の一貫として開催された「栄光のナニワ歴史展」を見るためです。

東急百貨店本店へ着くと、すっかり「大阪モード」になっていました。
デパートの前には、大阪名物をあしらった大きなオブジェが。

渋谷・東急百貨店本店の入口に飾られたオブジェ

店内に入ると、各階エスカレーター横に、パネルが展示されていました。
ワッハ上方(なんばグランド花月の前にある演芸資料館)で「殿堂入り」とされている芸人さんたちの紹介パネルです。
見てみると、「殿堂入り」というだけあって錚々(そうそう)たる顔ぶれ。
古い順に紹介すると……

初代桂春団治
↑初代桂春団治師匠。お芝居や歌でも取り上げられ、あまりにも有名ですので、詳細はあえて説明しませんが、「浪花恋しぐれ」という歌の中に出てくる師匠と言えば、たいていの方はわかるでしょう。

砂川捨丸・中村春代
↑砂川捨丸・中村春代師匠。このころのマンザイは、鼓を片手に歌を歌う「万歳(まんざい)」の流れを汲むものでした。

横山エンタツ・花菱アチャコ
↑横山エンタツ・花菱アチャコ師匠。「エンタツ・アチャコ」の名前は、このお二人をリアルタイムで見たことのない人でも、一度や二度は聞いたことがあるでしょう。私も、リアルタイムで見たことはもちろんありませんが、幼いころから「エンタツ・アチャコ」の名前はよく知っていました(私だけ……?)このお二人は、それまでの「万歳」のスタイルを変え、今日のような「漫才(いわゆる「しゃべくり漫才」のこと)」の形を最初に完成させたのです。

6代目笑福亭松鶴
↑6代目笑福亭松鶴師匠。笑福亭鶴瓶師匠や笑福亭鶴光師匠の師匠です。

夢路いとし・喜味こいし
↑夢路いとし・喜味こいし師匠。兄弟漫才の大御所でしたが、一昨年、いとし師匠が亡くなりました。このお二人の漫才をリアルタイムで見ることができたのは、幸せなことです。

横山やすし・西川きよし
↑横山やすし・西川きよし師匠。現在20代以上の人で、このお二人を知らない人はおそらくいないでしょう。「漫才ブーム」の頂点をきわめたコンビです。このお二人の漫才は「爆笑漫才」と評されました。破天荒なやすし師匠と、真面目なきよし師匠のキャラクターが好対照で、キャラクターのまったく異なる二人が、とても楽しそうに、息の合った漫才をする姿が印象的でした。真面目キャラのきよし師匠が漫才では「ボケ」、破天荒キャラのやすし師匠が「ツッコミ」の役割を果たしていたのも面白いです。

ほかにも、5代目笑福亭松鶴師匠、中田ダイマル・ラケット師匠、2代目桂枝雀師匠など、たくさんの芸人さんのパネルがありました。
パネル写真を見ながら催事場へ上がると、グッズ売り場が設置されていました。
阪神タイガースグッズや「ビリケンさん」グッズなどさまざまな「大阪グッズ」のほか、大阪に関連する雑誌や書籍などが、所狭しと並んでいました。
なかにはこんなものも……。

タイガーススーツ
↑タイガーススーツ。ユニフォームのタテジマをあしらったものです。ネクタイもありました。

今では大阪=阪神タイガースというイメージがすっかり定着していますが、以前は大阪にはいろいろな球団がありました。昨シーズンまであった近鉄バファローズのほか、南海ホークス、阪急ブレーブスなど……。
閑話休題。

催事場フロア内に設営された「栄光のナニワ歴史展」会場に入ってみると、まず初めに、道頓堀の歴史について解説されていました。

道頓堀は、今は「くいだおれ、飲み屋さん、映画館、NGK(なんばグランド花月)」というイメージが強いかもしれませんが、江戸時代から戦前までは、数々の芝居小屋や寄席が立ち並ぶ、日本有数の興行街でした。詳細は、大阪観光コンベンション協会による大阪観光案内のサイト大阪の文化のページにも解説がありますので、ぜひごらんください。
芝居小屋や寄席の多くが戦災で焼失し、戦後はそのほとんどが映画館として復興されたため、道頓堀はすっかり様変わりしてしまったのです。
それでも、劇場なら大阪松竹座や新歌舞伎座、演芸場ならNGK(なんばグランド花月)が現在はありますし、数年前まであった演芸場「浪花座」がなくなってからは「B1角座」に演芸場もオープンしています。さらに、来年には上方落語協会による落語定席「天満天神繁昌亭」がオープンする予定です。「芝居や寄席の街」としての道頓堀が徐々に復活してくれることを願ってやみません。


「栄光のナニワ歴史展」会場内には、松竹新喜劇に関する展示もありました。

松竹新喜劇のポスター
↑藤山寛美時代の松竹新喜劇のポスター(レプリカ)

現在では、「新喜劇=吉本」というイメージが強いかもしれませんが、大阪における新喜劇の始まりは、松竹新喜劇なのです。
歌舞伎役者から出た曽我廼家五郎・十郎によって始められ、藤山寛美の時代に全盛期を迎えました。
藤山寛美さんの舞台を収録したDVDが近く発売されるらしく、その映像の一部が会場内で流れていました。どの作品も、喜劇ではあるけれどきっちりとした狂言(芝居)で、ただ単にギャグを連発するようなものではありません。

私が子どものころ、テレビで吉本新喜劇と松竹新喜劇が放映されていたのですが(関東では放映されていなかったかもしれませんが……)、当時の私は吉本新喜劇を好んで見ていました。まだ、間寛平や坂田利夫が新喜劇で活躍していたころです。
一方、両親や祖母は、どちらかというと松竹新喜劇を好んで見ていました。吉本新喜劇もよく見ていましたが、祖母などは、芝居によっては「あんなんドタバタや」と評していることもありました。

それでもまだ当時は、吉本新喜劇も結構ちゃんとした台本が作られていました。
しかし、今の吉本新喜劇は、はっきり言っていただけません。「芸人」とはおよそ呼べないようなタレントまがいの若手が、下世話なギャグを連発しているだけでは、「喜劇」とは言えません。
そしてそれが「大阪の笑い」だと勘違いされているとしたら、ゆゆしき問題です。

まだかろうじてよかったころの吉本新喜劇でさえ、時折「あんなんドタバタや」と言っていた祖母が、今の吉本新喜劇を見たら一体何と言うだろう……と思います。「ナニワの笑い」を担う一翼として、吉本興業にももう少しがんばってもらいたいものです。

子どもだったころの私は、松竹新喜劇を内心退屈だなあと思っていたのですが、今になってみると、その良さがわかります。藤山寛美さんも亡くなり、新喜劇が様変わりしてしまった今となってはもう遅いのかもしれませんが……。


話を元に戻して……。
会場内には、「ビリケンさん」もやってきていました。

ビリケンさん
↑ビリケンさん

「ビリケンさん」は、通天閣の中に安置されている「福の神」ですが、史上初めて通天閣を出て、「大・大阪博覧会」のために東京へやって来られたのだそうです。
ビリケンさんも「いっぺん東京見物でもしてみよか~」と思ったのでしょうか。

何と言っても「福の神」ですから、あだやおろそかには扱えません。
東急百貨店の意向により、ビリケンさんの移動には、飛行機(しかもスーパーシート)とリムジンが使われたそうです。
移動の様子を記録した写真も貼られていましたが、スーパーシートに座ったビリケンさんは、とってもゴキゲンそうに見えました。「富士山がよう見えたで~」とおっしゃっていたそうです(笑)。

ビリケンさんの移動

「東京の人の願いもかなえるで~」と張り切っているビリケンさんの周りには、たくさんの人が集まっていました。
願いをこめながらビリケンさんの足の裏をなでると、願いをかなえてもらえると言われているのです。
長年にわたってなでられてきたせいか、ビリケンさんの足の裏は、結構すりへっていました。

ビリケンさんの足の裏

普段ビリケンさんがいらっしゃる通天閣の中の様子が、ライブカメラで会場内にうつし出されていました。渋谷の会場の様子も、ライブカメラで通天閣にうつし出されていたそうです。
東京からは、通天閣に忠犬ハチ公(レプリカ)が出向いて、ビリケンさんとともに東西交流に貢献していました。



最新の画像もっと見る