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村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

生活文化テーマに(5)

2007年02月22日 | Weblog
絵画はもとよりアンティーク家具からペルシャじゅうたん、さらには著名人の私物にいたるまで、欧米ではなにかとオークションが盛んで、長い伝統をもつ。

しかし、道昌が絵画のオークションに興味を抱いた頃の日本ではまだ一般人が気軽に参加する段階にはなく、参加者のほとんどが画商達であり、当然のことながら、競り価格は低水準に抑えられていた。

それなりの勉強をした上で、道昌はオークションに参加していく。初のオークションでミレーの素描「カテルの答」を取得、それをキッカケとして、ミレーのパステル、デッサン、ドローイングなどを集中してコレクトしていくが、「ミレーの油彩画のある美術館」として、村内美術館が知られるようになるまでには、なお多くの月日を必要とする。

その後、道昌の関心はバルビゾン派の中でも、ロマンティックな作品から印象派の作品へ幅を広げ、機が熟する様に、ほんの数年のうちにミレーの代表的作品やコロー、クールベなどの大作を次から次へ手に入れることになる。

ミレーの「鏡の前のアントワネット・エベール」、「ミレー夫人の肖像」、クールベの「フラジェの樫の木」「ボート遊び」、コローの「ヴィル・ダヴレーのカバスュ邸」---など。中でもミレーの「鏡の前のアントワネット・エベール」は昭和六十一年の海外オークションで、米国ヒューストン美術館と最後まで競い合うことになる。

生活文化テーマに(6)

2007年02月21日 | Weblog
ちなみに「鏡の前のアントワネット・エベール」は購入直後、最後まで競り合った米国・ヒューストン美術館から貸し出し依頼があり、一年近く道昌の手元を離れる。

その後、クールベ、コローなどの作品を購入、村内美術館はバルビゾン派の美術館として次第に知名度を高めていく。

昭和六十三年にはモネ、ドガ、ボナール、ヴュイヤール、カサットなどの印象派作品を十二点、いっ気に購入する機会に出会う。

米国の収集家が、所有している印象派作品十二点を「できれば、より多くの人に鑑賞してもらえる美術館に売却したい」という条件のもとに売りに出したものであった。まとめ買いの有利性はあったとはいえ、金額はおいそれと右から左に動かせるものではなく、さすがの道昌も、その決断によほどの勇気を要した。

しかし、この時の購入作品で、ほぼ今日の村内美術館の基本的なコレクションは整い、同館は同年五月に東京都教育委員会から博物館相当施設の認可を受けることになる。

平成七年三月、本店アネックス館に村内美術館は移設された。施設内容は世界のどの美術館と比較しても遜色のない一流のものだ。

そのオープン披露に招かれた人の多くが、その施設と展示作品を見て、道昌の商法に相通じた剛毅を感じ取るとともに、その一方で、道昌が巻き込まれたある世界的な事件を思い起こしたのではないだろうか。

生活文化テーマに(7)

2007年02月20日 | Weblog
昭和六十二年の十月道昌は自らが企画提案した「ヨーロッパ美術・歴史探訪の旅」のツアー旅行でローマ、フィレンツェ、ヴェニス、パリなどを巡行していた。旅も終わりに近く、パリ郊外のエスクリモント城に宿泊、ディナーを楽しんでいる席に、東京・本社から道昌に電話が入った。

「社長、実は国際的な犯罪シンジケートの手で盗まれたコローの名画数点が、いつの間にか日本に入り込んだとのことです。当美術館が保有している”夕暮れ”が、どうやらそのうちの一点のようなんですが・・・・・・」。

「まさか」と思いつつ二十六日帰国してみると、コロー名画盗難事件、しかもそれらの数点が日本に持ち込まれていることが、一般紙に大々的に取り上げられていた。”夕暮れ”もそのうちの一点であることが記事中にあった。

道昌は躊躇することなく、疑惑のコロー作品のうちの一点″夕暮れ″が自らの手元にあることを警察に連絡、その作品は証拠物件として押仮される。

十月二十八日、読売新聞は朝刊で「盗難のコロー作品”夕暮れ”見つかる」の見出しのもとに、大きなスペースを割いて報道。他紙も追随するとともに、他の盗難作品と合わせて、週刊誌も興味本位の記事を続々と取り上げはじめた。

道昌は突如、大事件の当事者の一人として、マスコミ報道合戦の渦中に放り込まれることになった。

そんな騒ぎに追われるある日、フランス駐日大使館から道昌に「事情を聞きたいので、来てもらえないか」という連絡が入る。

生活文化テーマに(8)

2007年02月19日 | Weblog
問題の作品が、道昌の手元に置かれるようになったキッカケは、全くひょんなことからであった。

村内ギャラリーの常客がある日、「コローの作品が欲しい」と言ってきた。そこで社員が都内のある有力画廊と相談、″夕暮れ″を借り受け、その客に見せたところ「イメージが暗すぎる」と断られた。

そこでしばしの間ということで、村内美術館の入り口に展示。それが道昌の目に止まり、画廊との価格交渉の末、村内美術館の所有となったものだ。

そのコロー作品が事件に巻き込まれるやいなや、道昌は事の重大さを認識、国際的な事件に活躍し、その名を知られた田中耕造弁護士に一切を相談。

「あなたは善意の第三者であり、しかも所有権があなたに移転して二年を経過しており、法的には全く問題がない。堂々としていていいですよ」とのアドバイスを背にして、道昌はフランス大使館からの呼び出しに応じた。

ところが、道昌に応対した一等書記官の姿勢は、最初から高圧的で横柄そのものであった。

「日本人にコローの名作など理解できるはずがない。盗品なんだから四の五をいわず、とにかくフランスヘ戻せ」という相手の非礼な態度に、さすがの道昌も怒り、その一等書記官の胸ぐらをつかみ、もう一方の固く握りしめたこぶしを思わず振りおろす寸前、部屋の険悪なムードを察知してか、公使が入ってきた。

さすがにその公使は礼をわきまえた人で、道昌の言い分を聞き、一等書記官の非礼を率直にわびた。

生活文化テーマに(9)

2007年02月18日 | Weblog
道昌は絵画収集の過程で「名画は運命を背負う」という思いを強く抱く様になる。

作者の絵に対する思い入れはもとより、名画であればあるほど、多くのコレクターの手を経る。作者の、コレクターの喜怒哀楽が絵に乗り移り、絵自体が運命を持ちはじめる。

コローの″夕暮れもまさにそうであった。フランス大使館に呼ばれた道昌は、今度は外務省に呼ばれる。法務省の担当者も立ち会う。結局、外務省を仲介にフランス大使館と話し合い、犯罪捜査協力のためという名目で、″夕暮れ″を六カ月の約束でフランス政府に貸し出すことになった。

ところが約束の期日になっても、フランス政府はその絵を戻そうとしない。道昌は、田中弁護士の協力のもとにフランス側に絵の返還を強く求めた。

八カ月も過ぎ去ろうかというある日、フランス大使館から道昌のもとに「預かっている絵を返す」という連絡が入る。

道昌自ら問題の絵を受け取りにフランス大使館へ赴く。ホッとした思いで八王子本店に帰ってきた道昌を、なんと一般紙、テレビ局を含めた報道陣が二十社以上も待ち構えており、一斉にフラッシュが閃く。そうした報道陣の喧噪の中で、改めて道昌は巻き込まれた事件の大きさをかみしめる。

フランス側から問題の絵が道昌に返却されることをスクープとしてつかんだ毎日新聞は八月二十六日の朝刊で「コローの名画″夕暮れ″所有者に帰る」の大見出しで報道。道昌が思わぬ報道陣のフラッシュ攻めに会ったのは、その日の午後のことであった。

生活文化テーマに(10)

2007年02月17日 | Weblog
コローの″夕暮れ″作品で、道昌は善意の第三者とはいえ、たっぷりと不快な気分を味わう。しかし、道昌は常に毅然とした態度をとり続け、マスコミに対しても、購入先画廊の名前すら口に出すことはなかった。

もとより、その画廊も盗難事件とは無縁で、道昌と同様、善意の人ではあったが、筋を通す道昌の姿勢に、画廊主はただただ敬服するだけであった。

″夕暮れ″をフランス政府から返還してもらった道昌は、翌月の昭和六十三年九月から村内美術館でコロー展を開催する。″夕暮れ″が展示されたことはいうまでもないが、結局、この作品は道昌の英断で翌年三月に日本を離れることになる。

フランス・パリのルーブル美術館に付設工事中であったガラスのピラミッドが間もなく完成、三月にミッテラン大統傾が参加してオープニングセレモニーが開かれる予定を知った道昌は、田中弁護士に相談する。

「先生、例のコロー作品は一八五五年のパリ万博に出品されたもので、パリの人々にとっては記念すべき作品だと思います。ガラスのピラミッド完成を磯に、″夕暮れ″をフランスに寄贈しようと思うのですが・・・・・・」

事件を通し道昌の剛毅な性格を知る田中弁護士ではあったが、さすがにその話には驚いた。

「村内さんがそうしたいというなら、それが一番いいでしょう」

田中弁護士はそう答え、具体的な手続きをアドバイスするが、購入時の金額で五千万円前後はしたであろう作品を、ポーンと寄贈しようという男の晴々とした顔に、思わず見入るのであった。

生活文化テーマに(11)

2007年02月16日 | Weblog
道昌はコローの″夕暮れ″をフランス政府に寄贈する旨、フランス大使館に伝えた。

フランス大使館はもとより、本国政府も道昌の申し出に驚き、かつ大変に喜んだ。

″夕暮れ″はフランス大使館から平成元年三月初旬に本国へ送付されるが、日ならずしてフランス政府から一通の書状が道昌のもとに送られてきた。

その書状は「ルーブル美術館・ガラスのピラミッド完成を祝して、四月四日、オープニングセレモニーを開催するが、そのセレモニーに道昌夫妻を招待したい」という内容を主旨とする招待状であった。

往復の飛行機、ホテルはすべてフランス政府の手配によるもので道昌夫妻はナショナルフラッグのエールフランス機でパリに向かった。

フランス大使館とは″夕暮れ″を挟んで不快な交渉を行った道昌ではあったが、寄贈という思いもよらない道昌の英断に、フランス政府は夫妻を最高の礼で迎える。

フランス各界の名士七百人余が参加した大パーティー、道昌夫妻にはルーブル美術館館長と同席のメーンテーブルが用意されるとともに、ルーブル美術館は道昌に日本人初の特別名誉会員の称号を贈呈するなど、まさに歓待であった。

その後、ルーブル美術館は隣接していた大蔵省の建物を吸収増築。その際、コローの作品群のために三部屋が割かれ、″夕暮れ″は最高の場所に常設展示される。

その作品には「東京の村内美術館のご厚意により、これを展示する」との説明が貼付されている。

仕入れ先ありて(1)

2007年02月15日 | Weblog
仕入れ先企業をメンバーに構成されている村内会の第三十九回総会がこのほど開催され、カリモク家具販売の加藤知成社長が新会長に就任した。四代目会長である。

第一回目の村内会総会は昭和三十三年に開催され、初代会長に吉田タンス店の吉田信太郎氏が就任。十三期二十六年間会長を務めた後、昭和五十九年、潟沼稔・カタヌマ社長に第二代目の任を譲る。潟沼会長二期四年後の昭和六十三年、第三代目会長に松岡英一・松創社長が就任。そして、今年、策四代目の新会長就任となる。

第二代目以降の会長は、いずれも業界にその名を知られた人物だが、初代会長の吉田信太郎氏を知る人は少ない。埼玉県川越市で桐タンスを製作していた人物で、村内ファニチャーアクセスの前身、村内木工所時代の仕入れ先第一号企業の親方経営者であった。

村内木工所時代のある日、道昌はお客さんから桐タンスの注文を受けた。自社に桐タンスを作る技術がなく、道昌は仕入れ先を深し歩くことになる。八王子から中央線で国分寺に出、そこから西武線を乗り継いで所沢、川越とあてもなく歩く。川越駅近くの神棚屋に飛び込み「この辺で桐タンスを作っているところはありませんか」---困惑し切った顔で尋ねる若い道昌に、その神棚屋のオヤジさんは「この道をちょっと行ったところの横丁にある吉田さんを訪ねてみたら」と拍子抜けするほどに、いとも簡単に目的の桐タンス屋を紹介してくれた。

早速、そのタンス屋を訪ねてみると、仕舞屋風の店内に木地出しのタンスが二、三棹置いてあった。

仕入れ先ありて(2)

2007年02月14日 | Weblog
お客さんから「桐タンスが欲しい」との注文を受けた道昌は、川越の桐タンス屋をようやくの思いで探し出した。応対に出たのは村内会の初代会長を務めた吉田信太郎の父の伊三郎であった。

若い道昌の話をうなずきながら聞いていた、伊三郎は「長男も次男も戦争から無事に帰ってきたところで、ボチボチと桐タンスづくりの再開を考えていた」と語り、裏の工場に案内してくれた。

ウヅクリ、ヤシャガケなど専門的な説明をていねいに教えてくれる伊三郎。村内木工所では聞きなれない言葉に、道昌は耳を傾ける。総桐、四方桐、三方桐で値段に差があることも初めて知った。仕上げを残すだけの製品を注文、「一週閤後に取りにきてくれ」との伊三郎の言葉通り、道昌は村内木工所の工場長をしていた従兄と二人で注文の桐タンスを受け取りに行く。

自家用トラックなどない時代であった。早暁、二人はリヤカーに荷づくり用の毛布を積み、弁当持参で出かけた。八王子から多摩川を渡り、狭山から川越の道はざっと三十キロメートルを超えていた。

帰途、狭山丘陵に差しかかるころには日も暮れかかっていたが、その日のうちに注文主の昭島まで配達、帰宅は夜半であった。

この時の桐タンスが村内木工所にとって初めての仕入れ販売商品であった。

父の萬助も道昌も、この時の縁を大切にし、村内会が設立された昭和三十三年、代替わりしていた伊三郎の息子、吉田信太郎に初代会長就任を乞う。

仕入れ先ありて(3)

2007年02月13日 | Weblog
村内会初代会長の吉田信太郎氏は、昭和五十九年に潟紹稔・カタヌマ社長にその任を譲るが、当持、同業他社の多くが、仕入れ先との親睦会会長を、ネームバリューのある企業のトップに委嘱していたことと比較すると、村内の仕入れ先に対する姿勢がうかがわれる。

村内という企業にとって、商品を買ってくれるお客さまと、その商品を納入してくれる仕入れ先は大小を問わず同格であり、どちらも大切な″お客さま″なのであろう。

といって、村内がただ付き合いの長さや古さだけを大切にしているわけではない。

平成七年三月の八王子本店増床リニューアルオープンに当たっては「既存の仕入れ先、既存の取り扱い商品を全面的に見直し、よりお客さまのニーズに合った商品構成を図ろう」という道昌の考え方のもとに、商品部バイヤーが全国に散った。

とりわけマスマーチヤングイジングの中でこれまで網目からふるい落としてこざるをえなかった中小メーカーの高品質、高感性の商品発掘に力が入れられた。ユーザーニーズの個性化、多様化の進展に対応、セグメントマーケットの把握を意識した動きでもあった。

また、今年三月の厚木店オープンの際には、商品発掘の視野を世界に拡大、若いバイヤーの判断のもとに、欧米からクオリティーとプライスのバランスのとれた商品を多数導入するなど、仕入れ→売り場→お客さまの流れを淀ませないような思い切った仕入れ政策が、時に応じてとられる。「村内の売り場は常に変化し、いつ行っても新鮮さがある」という対外評価の源がそこにある。