今日のニュースで、「またか…」と感じると同時に、嫌~な気持ちになりました。それは、秋田県の児童殺人事件で近所に住む女性から事情聴取を行っているというニュースです。
もちろん事件は痛ましいものであるし、その前の女児の事件との関連も注目されるし、何より近所に住む小さなお子さんを持つ方々の心配は大変な事だと察しします。ですから、私もこの事件が一刻も早く解決する事を願っています。
しかし、私が気になるのは、任意の事情聴取の段階でマスコミ各社が大々的に報道している事なのです。万一、この女性が無実だった場合の事はまるで頭にないという状態ですよね。マスコミの毎回のこのやり方に疑問を感じると同時に、不快感とマスコミの横暴さを感じるのです。
おそらく今回の報道は警察発表に基づいて行われている事だと思います。そこでこの女性が無実だった場合、マスコミは「警察発表が間違っていたから…」と言って責任を逃れられると思っているのでしょう。
しかし、マスコミは松本サリン事件の河野義行さんの事を完全に忘れているのでしょうか。結局は完全な無罪であり、実は被害者のひとりであったのに、連日の犯人同然の報道。そしてそれに続く一家への全国からの心ないバッシング。その原因はマスコミの先走りにあったといって間違いないでしょう。
今回のケース、事情聴取を受けている女性がもし無罪だった場合、多分この女性は従来のままに従来の場所で生活する事はできないでしょう。今後は、「“あの”女性」と呼ばれ続ける事になり、地域社会に溶けこむ事は簡単ではないでしょう。その危険性をマスコミ内のどれだけの人間が考えているのでしょうか?
マスコミは“国民の知る権利”という事を盾に反論するでしょう。もちろんマスコミが国民の利益になる事実を知っているのに、それを報道しない事は大きな問題だと思います。ところが今回の報道はそれに当てはまるでしょうか? 地域に住む子どもを持つ親にとって、犯人特定と逮捕はとても有益な情報でしょう。
ところがそれは対象者が“真犯人”だった場合に限ると思うのです。確かに裁判が結審するまでそれは分らないでしょうし、それは現実的ではないでしょう。しかし今回のようなケースは、せめて“容疑者”になるまで報道を待つ事はできないのでしょうか?
ただでさえ今回のような事件の場合、犯人宅への全国からのバッシングがあることはマスコミの人間は誰でも知っているはずです。さらに、警察発表が間違っているという経験も多くのマスコミはしているはずです。それでいながら任意の事情聴取の段階で、今回のような報道をするという姿勢はとっても心配になってしまうのです。
それとも、各社とも独自の取材で犯人特定に至っているのでしょうか? そうでなければ今回のような報道は、中世の“魔女狩り”のように思えてしまうのです。さらにいえば、今回の報道より優先されるべき“国民の知る権利”に応える報道は、他にいくらでもあると思うのです。
もちろん事件は痛ましいものであるし、その前の女児の事件との関連も注目されるし、何より近所に住む小さなお子さんを持つ方々の心配は大変な事だと察しします。ですから、私もこの事件が一刻も早く解決する事を願っています。
しかし、私が気になるのは、任意の事情聴取の段階でマスコミ各社が大々的に報道している事なのです。万一、この女性が無実だった場合の事はまるで頭にないという状態ですよね。マスコミの毎回のこのやり方に疑問を感じると同時に、不快感とマスコミの横暴さを感じるのです。
おそらく今回の報道は警察発表に基づいて行われている事だと思います。そこでこの女性が無実だった場合、マスコミは「警察発表が間違っていたから…」と言って責任を逃れられると思っているのでしょう。
しかし、マスコミは松本サリン事件の河野義行さんの事を完全に忘れているのでしょうか。結局は完全な無罪であり、実は被害者のひとりであったのに、連日の犯人同然の報道。そしてそれに続く一家への全国からの心ないバッシング。その原因はマスコミの先走りにあったといって間違いないでしょう。
今回のケース、事情聴取を受けている女性がもし無罪だった場合、多分この女性は従来のままに従来の場所で生活する事はできないでしょう。今後は、「“あの”女性」と呼ばれ続ける事になり、地域社会に溶けこむ事は簡単ではないでしょう。その危険性をマスコミ内のどれだけの人間が考えているのでしょうか?
マスコミは“国民の知る権利”という事を盾に反論するでしょう。もちろんマスコミが国民の利益になる事実を知っているのに、それを報道しない事は大きな問題だと思います。ところが今回の報道はそれに当てはまるでしょうか? 地域に住む子どもを持つ親にとって、犯人特定と逮捕はとても有益な情報でしょう。
ところがそれは対象者が“真犯人”だった場合に限ると思うのです。確かに裁判が結審するまでそれは分らないでしょうし、それは現実的ではないでしょう。しかし今回のようなケースは、せめて“容疑者”になるまで報道を待つ事はできないのでしょうか?
ただでさえ今回のような事件の場合、犯人宅への全国からのバッシングがあることはマスコミの人間は誰でも知っているはずです。さらに、警察発表が間違っているという経験も多くのマスコミはしているはずです。それでいながら任意の事情聴取の段階で、今回のような報道をするという姿勢はとっても心配になってしまうのです。
それとも、各社とも独自の取材で犯人特定に至っているのでしょうか? そうでなければ今回のような報道は、中世の“魔女狩り”のように思えてしまうのです。さらにいえば、今回の報道より優先されるべき“国民の知る権利”に応える報道は、他にいくらでもあると思うのです。
言葉を正確には記述できませんが、「報道は、警察でも検察でも裁判官でもない・・・。」
というようなことを言っていました。
まさしく、今回の秋田の事件に対するマスコミの動きに対して物申している様に感じられました。
報道とは何かについて、報道各社が考えなければならない時に来ている!と思います。
今週末2大事件(村上F、秋田)の逮捕時期、や先般のライブドア事件の時期を考えると、報道内容の良し悪し云々などより、既に報道管制どころか、マスコミは「何か大きな力に誘導され、利用されているだけの存在」と思えてしまうのですが。
警察発表と村上氏のお言葉をありがたく垂れ流して、それに対して推測の域を出ない下らんコメントをつけているだけですもの。
「村上氏の裏にありそうな大きな何か?」に証拠を突きつけて報道してくれるところはないのかしら?
なにか秋田の事件が、当て馬というか目眩ましに使われているようで、豪憲君がかわいそうで・・・
ただ、今回の秋田の件は微妙な問題があると思うのです。
まず、個別の報道内容や姿勢について語らないといけないと思いますし、憶測の部分が多いので、一般論といえる自信がないからです。
第一に、多くのマスコミは容疑者の女性の二面性をすでに取材していたようですよね。葬儀での悲しむ姿と、マスコミに突っかかるような姿。そして、後者の素材を彼女が容疑者になって初めて放送することになったと思うのです。この点、すべての報道を観ていないので、私の憶測です。
そこには、報道機関内での“自主規制”があったと考えられるのです。「この素材を流したらヤバイぞ!」という判断があったと思うのです。
第二に、ふと今日、書店に並んでいる「フライデー」を見たら、容疑者の女性の過去の職歴が見出しになっているのです。おそらく彼女の過去の職業は、今回の事件に関係がないと思うのですが、これはマスコミ報道の行き過ぎの部分であると思うのです。
それで、村上氏のニュースに関して思うことは、「村上氏が一番まともに賢く行動している」と見えたのです。私の観たテレビのニュースでは、おそらくすべての番組で村上氏に対する判断をゲストや市民のインタビューに委ねているように感じました。つまり、感情的に村上氏が許せないのか、法に触れたのがいけないのか、ファンドをやる人間は企業情報を収集する以上、インサイダーと紙一重のはずです。その法整備の不備を訴えるのか、それとも村上氏が言うように儲けすぎるから頭に来るのか。それを局としては語らずにゲストやインタビューのVTRに語らせていただけだったようです。まあ、一種の責任回避ですね。
そこで、wanさんのご意見ですが、民放のテレビドラマの台詞をもって現代の報道の在り方を問うのもおかしな話ではありますが、
>「報道は、警察でも検察でも裁判官でもない・・・。」
というのは、よくいう“マスコミは第四の権力”という事だと思います。その姿勢が現在の報道機関に欠けているということはこのブログで何度も書いてきています。つまり、それは自明の事でしょう。しかし、それを秋田の事件の報道に当てはめてどうすればいいのかというのは、私にはよく見えてきません。
あえて言うなら、「マスコミは第四の権力をもっと指向しろ。そのためには秋田の事件の報道はストレートニュースで充分だ。そんなことより、もっと追及・報道しなければならない大きな問題があるだろう」というのだと分かるのですが…。
少なくとも現時点ではマスコミの論調は、警察でも検察でも裁判官でもないように感じられます。多分に“野次馬”という部分はありますが。
そして、51さんの仰る
>「何か大きな力に誘導され、利用されているだけの存在」と思えてしまうのです
という“大きな力”というのが、報道番組の中でも“分刻みの視聴率”になっているのではないかと思います。つまり、51さんの琴線に引っかかる報道内容が実は視聴率が右上がりだったりしているのではないかと想像されます。
つまり、民放はフジテレビを皮切りに上場してしまい、企業として最優先されるのは視聴者ではなく株主様になってしまったのです。そこではあえて業績を下げる(視聴率を下げる)ような事はできなくなってしまったのでしよう。そんな流れは報道の聖域性(?)をも取り込み、数字の取れる項目が優先される事になっていると思います。
そこには“失敗しない人材”が求められ、村上氏のように責任を自らにかぶせて社会正義のためにチャレンジするという報道マンは求められていないでしょう。
さらにテレビ局は免許事業です。テレビ局が一番恐れるのが免許停止で、NHKのチャンネル削減などという話は多チャンネル化を目論む民放にとっても他人事ではないはずです。
私の考えでは、以上の理由でテレビ局は構造的に縛られているようになってしまったと思っています。そこで、秋田の事件の場合はマスコミは捜査機関ではないという論理で、視聴者に予見をもたらす素材の放送を自粛したのは理解できます。ところが巨悪に対して自粛(無自覚の自粛も含む)が行われてしまっては、第四の権力として期待することはできないでしょう。また、自粛するべきネタをつかむ気概のあるような人間は、あえてマスメディアを目指さないのではないでしょうか。
結局、国民は新たなメディアの登場を願うしかないのでしょう。