美術と本と映画好き...
徒然と(美術と本と映画好き...)




先週から日経の日曜日の美術欄(美の美)で『画家の言葉』とい
う特集が始まりました。先週、今週とセザンヌが取り上げられ
ています。

先週の書き出しはこんな感じ、

> アンリ・マチスは「画家は舌を切るべきだ」といった。画家
> に言葉はいらない、という。しかし、幸か不幸か、古来、画
> 家はさまざまな含蓄に富む言葉を残してきた。

マティスは、外部からの批評に腹をたてて、創作のプロセスを
見せたことがあります。昨年のマティス展では、そのプロセス
を写真や映像で見せていましたが、引用されたマティスの言葉
からは、本当はああいった記録は残したくなかったのかもしれ
ない、という気もします。

絵描きも人間だから、終始、一貫性を保つ事は難しいでしょう。
その時々で矛盾するようなことを考えたり、言ったり、書き残
したりすることが、往々にしてあるでしょう。

だから、芸術家の言葉はとても面白いけれど、あまりとらわれ
すぎると、かえって曇った眼で作品に接することになりそうで
怖いと思います。特に私はすぐに人の意見に振り回されてしま
うので...

連載自体、読み物としては面白そうなので、そんなことに注意
しながら読んでいこうと思います。


作品と言葉という切り口では、舟越桂の作品集(森へ行く日)の
中で、小説家の大岡玲が面白い事を書いていました。

> 19世紀の西欧は、美術に限らず全ての表現ジャンルで概念や
> イデオロギーが尊ばれたと言える。
中略
> 概念に奉仕する事によって成立するこうした美術は、当然の
> 成り行きとして言葉との親和性が強い。

その一例としてあげられているのがマルセル・デュシャン
の作品群であり、

> 「泉」という題をつける行為は、明らかに造形的というより
> 思想的文学的なものだ。

とまとめています。

デュシャンの作品についてはなるほどと思いました。

ただ、この文章の中では印象派もひとつの『イズム』として扱
われています。区分でいうと印象派に入れられるセザンヌにつ
いては、そういった『イズム』からは自由になろうとしていた
画家だと思うので、あまり同意できません。

では、私はどのように考えるのか?

自分なりの美術の見方が確立できればいいなと思いつつ、それ
を実現し、言葉にしていくのはとても困難な作業なのだろうと
思います。こうして書き込みを続けていく中で、そういった地
点に少しでも近づければいいなと思います。


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