ダンボールの空箱の蓋を何気なく開いて
中を覗いたとたんだった。
立派な刺繍のガウンを纏った大きな蛾が
鼻先を襲うように飛び出してきて叫んだ。
「何の様だ! 勝手に光を入れやがって!」
慌てて蓋を閉めた。驚いた。なんと人間語を話すとは!
しかも大きい。二、三百万、いや二、三千万
いやいや、二、三億円には売れるに違いない。
もう一度、そうろと蓋を開けてみる。
箱の底の暗がりに、しかし蛾の姿はない。
蓋の裏にもいない。奇体な話だ。
箱を逆さにして、底を叩いても地面に落ちてはこない。
「怖がるこたないよ。俺は悪い人間じゃない。そんな暗い所で
燻ぶってるより、もっと好い暮らしをさせてやろうじゃないか。
どうだい、総ガラス張りマンションの3LDK、5LDK、
いや10LDKだって、お望みしだいだ。どうだい、話にのらないか。」
「そんなものはいらない。」
首筋から声が返った。背筋が凍る。フリーズとは、これか!
首の後ろの蛾は続けた。
「それより、このダンボール箱の中を覗いてみないか。」
「中を? 空じゃないか。」
「元通りに蓋をして、角に小さな孔を明けて覗くのだ。
孔は瞳より大きく明けてはいけない。外の光には害がある。」
言われた通りに、箱の少し傷んだ角に
小指を差し込んで孔を明けた。
「昔の覗きカラクリというやつだな。」
蓋をふさいだ箱の中は、明るかった。
明るいというより、むしろ輝いていた。
王宮の広間のようだ。ステンドグラスの広い天蓋、
アマラントの絨毯を敷き詰めた床。
と、思わず息を呑んだ。
あの、あの蛾が、いや、あの怪しげな蛾の羽根の
色柄そのままのガウンを纏った王のような尊大な人物が
玉座といった巨大な椅子に身を凭せているではないか。
改めてこの大きな部屋を見回すと、
シャンデリアのクリスタルグラスも、壁の模様も、
絨毯の織り込みの図柄も、すべてあの蛾自身の
シャンパーニュ色の羽根の模様そっくりそのままだ。
「何も驚くことはない。これはみな私の体、私の鱗粉。
孫悟空は引き抜いた自分の体の毛を一吹きして
立ちどころに自分のクローンを作り上げるが、
私は自分自身を身に纏って生まれたのだ。」
「ど、どういう魂胆だ、いったい!」
「きみ達人間は、山や森が美しいと手をかざして眺め、
夕焼けが見事と嘆息して目を細める。だが、もともと
森は森として生き、夕焼けは夕焼けとして
空と地表を赤く染めるだけの話。もっと言うなら、
自分がいない自分の部屋や、人っ子一人いない
美術館の真夜中の展示を想像してjみるがいい。
人間の視線を欠いた空間は、まさに墓穴と同じだ。
無表情に向かい合う壁と壁、天井と床、そして
ただ並んだだけの絵画や椅子、テーブル、時計のリズム、
あれほど親しみ、懐かしみ、共感し、生きる証としたものが
まるで負けカードのキングやクイーン、ジャックの
冷淡さであらぬ方を見つめている。そうではないか。
私のクローン達はその点で、私を裏切らない。
まさしく私の分身、私の生命の一部、私だけの
肉の風景を微密に作り上げてくれる。
きみ達人間は、あの原子雲をただ恐れてみせるだけで、
あの壮大なキノコの力に充ちたユーモアを認めたがらない。
人間が、生き物すべてが、いや、ものみなすべてが
地表から消え去った空間に浮かぶ、あれほど見事な造形を!」
ホログラムのように不可解で呪詛めいた蛾の言葉は終わらない。
箱から目を話すやいなや、ダンボールを孔から引き裂いた。
腹を開かれた箱の内側に、蛾の姿はなかった。
~詩誌すぼあ[Ⅰ]1996.6