つるや連合(盧武鉉前大統領の遺業を記憶する勝手連)

通常時:李明博の国策捜査を批判する座間市民会議

【提言】seguiさんには正しい歴史認識が必要だ

2007-08-30 19:56:33 | Rough Tone=Andante=”削除”人A氏
異端の左派が集うスレ
http://yy31.kakiko.com/test/read.cgi/x51pace/1158779844/



129 :無名の共和国人民 :06/09/26 05:37:36


☆(略)

 ここの参加者はそんなのずっと否定してるはずだが、ここで同一視するよう仕向けてるのはウヨだろ。
現在の左翼で、暴力行為を肯定しているところはごくわずかだ。で、ウヨを放置して、過去を総括しな
いから批判されるだのと、左派全般を批判しているのがあんただ。
 日本の左翼でソ連追従した連中なんて、
代々木・反代々木問わず昔からほとんどいないにもかかわらず、

現在の左翼に責任をとらせようとするあなたはウヨと同じで有害だ。

☆(略)





☆この部分を原稿化したときにはさらっとスルーしてしまいましたが、
「日本共産党の研究」「中核vs革マル」の愛読者である私には見逃せない妄言であることに
いまさらながら気づきました。

日本の左翼と言えば今も昔も「日本共産党」が元祖であり本家ですが、
「日本共産党」の成立と育成にソ連(コミンテルン)が大いに寄与したことは公然の事実です。

日本共産党


日本共産党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

☆(略)

[編集] 戦前非合法時代
同党は1922年、コミンテルンの日本支部として創立された。
当時は治安警察法、治安維持法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。

「綱領草案」(1923年)、「27年テーゼ」(1927年)、
「32年テーゼ」(1932年)
(いずれも、ソ連に本部があるコミンテルンからの直接指令)という3つの綱領的文書を経て、
日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、寄生的地主制と財閥による独占資本主義という3つのブロックの結合だと規定。
ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。
「32年テーゼ」では、民主主義革命の主要任務を、絶対主義的天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制として、
「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者、農民の政府のための人民革命」を中心スローガンとした(同テーゼ)。
この思考はソビエト成立以前のツァーリによるロシアの絶対支配と日本の皇室制度を混同しており、
一部のインテリや学生には支持を得たが広範な大衆にはなかなか浸透していかなかった経緯がある。

☆(略)

他方で27年テーゼ時代には、コミンテルンの方針の影響を受け、社会民主主義との闘争の強調や、
ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用し、労働組合運動などに影響が生まれた。
「東京市電争議における幹部暗殺計画・車庫放火事件」や「川崎メーデー武装蜂起事件」を敢行。
コミンテルンからの資金が枯渇すると、資金強奪計画を練り、「赤色ギャング団」を結成。
「川崎第百銀行大森支店襲撃事件」を敢行し、「中国銀行岡山本店襲撃計画」など、不法事案を引き起こした。
なお、これら一連の事件は、特高警察が送り込んで幹部になったスパイが単独で計画し、党員を動員したと言われている。
党はくり返し政府から弾圧を受け、堺らは解党を唱え1924年にいったん解党を申し合わせ、翌年再建。
さらに1928年の三・一五事件や1929年の四・一六事件で治安維持法に基づく一斉検挙を受けた。
主要幹部はことごとく投獄され、佐野学らは転向するなど壊滅的打撃を受けた。
残されたメンバーの中で党内のスパイを一掃する運動が盛んになった。
1933年には、宮本顕治党中央委員(当時)らがスパイを取調べている最中にその人物が死んでしまい(死亡原因は諸説有り)、
遺体の処理に困った党員によりアジトの地下を掘って遺体を遺棄してしまうというスパイ査問事件が起こった。
特高の検挙やスパイ疑惑などにより党内の動揺はいよいよ激しくなり、
ついに1935年、党中央委員会が解体され、戦前における統一的な党活動はここで頓挫した。

ただし、地下や海外などでの少数の党員による活動が行なわれていたことは有名である(例:中国に渡った野坂参三らによる反戦活動など)。


[編集] 分裂と武装闘争路線
しかし1950年に、占領軍によるレッドパージと共産党国際情報局(コミンフォルム)からの干渉が重なり、
党は徳田ら主流派(所感派)、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、
福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。

書記長の徳田ら(当時の党の主流派)は、強引な方法で党の中央委員の再編を強行し、
後に「軍事方針」と呼ばれる武装闘争路線を策定した。
ちょうどこのころ、朝鮮半島で北朝鮮軍による武力南進(朝鮮戦争)が勃発し、
アジアの共産化を理想としていたスターリンや革命直後の中国の毛沢東などは、
当時日本共産党の野坂参三が提唱していた占領下でも民主的変革は可能だとする平和革命論の誤りと、
武装闘争の指示を暗に打診してきたとされている。朝鮮戦争で武力南進してきた北朝鮮の支援と、
米軍の温床地帯であった日本の後方攪乱とをコミンフォルムが打診したと一部専門家は見ている。
1951年10月の第5回全国協議会(5全協)では、「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな方針「日本共産党の当面の要求」「武装行動綱領」を採択し
、「山村工作隊」「中核自衛隊」などの武装組織を建設し、武器製造法を記載した「栄養分析法」等を発刊。全国各地で火焔瓶闘争や騒擾事件などを引き起こし、治安を乱した。
1952年、政府はこれら武装闘争を取り締まるためとして、破壊活動防止法(破防法)を制定した。
日本共産党は同法の調査対象団体に指定された。

☆(略)

徳田を中心とした所感派の主導した武装闘争路線は到底、国民の支持を得られた出来事ではなく、
それと同時に離党者を生む不幸な結果となった。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、
著しい党勢の衰退を招くことになっていった。

☆(略)

1955年、現実を無視した武装闘争路線は破綻し、党の再統一と改革を模索せざるをえなくなった。
後に共産党の公式見解上ではこのことを契機に自分自身の力によって中ソなどの大国の干渉を払拭して
自主独立の路線を確立するに至ったとされている。
しかし一部専門家の間では真相はそうではないという指摘もある。それは朝鮮戦争の膠着・休戦状態や、
1953年のサンフランシスコ講和条約締結など流れの中で、既にコミンフォルムの打診した武装闘争路線は必要性を失い、
かえって邪魔な存在と化したとされ、コミンフォルムが日本共産党に対して武装闘争路線の清算を指令したという指摘である。

☆(略)





コミンテルン

コミンテルン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コミンテルン (Comintern,露:Коммунистический Интернационал、Communist Internationalの略称) は、
共産主義の国際組織である。共産主義インターナショナル、第3インターナショナル、国際共産党。

1919年3月にモスクワにおいて21カ国の代表が参加して設立。共産主義思想の普及、革命家の育成、ロシア革命の世界革命化などが目的。社会民主主義団体である第二インターナショナルに対抗し、レーニンにより指導される。モスクワを本部とする執行委員会により指導され、レーニンの死後にはソ連の外交政策の擁護も行う。ドイツ革命に挫折した後は労働者の戦線統一の方向へ指針を定める。ナチスに対して反ファシズム、人民戦線路線の立場をとり、第二次世界大戦中にはアメリカ、イギリスとの協調のため1943年5月に解散した。

☆(略)





32年テーゼ

32年テーゼ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
32年テーゼ(32ねん - )は1932年5月にコミンテルンで決定された『日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』の通称。「赤旗」1932年7月10日特別号に発表された。日本からは片山潜、野坂参三、山本懸蔵らが参加して討議された。発表以降、戦前において日本共産党の綱領的文書として扱われた。


[編集] 概略
日本の支配体制を、絶対主義的天皇制、地主的土地所有、独占資本主義の3ブロックの結合と規定し、地主階級と独占資本の代弁者かつ絶対主義的性格をもつ政体として天皇制をみた。わかりやすくいうと、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放戦争)であり、プロレタリア革命はその次の段階であるということである(いわゆる二段階革命論)。また、反天皇制に加え、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現なども柱としており、「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者、農民の政府のための人民革命」をスローガンとした。 さらに、日本の中国侵略について、純粋に侵略を非難する立場ではなく、米国との軍事的衝突を避けるために帝国主義間戦争への反対を唱えたことも特徴である。

同時に、コミンテルンが当時とっていた、社会民主主義とファシズムと同列におく「社会ファシズム」論の立場をとり、社民勢力との闘争を特別に強調した。また、日本における革命的決戦が切迫しているという情勢評価をおこなった。

☆(略)





☆注目すべきは、seguiさんの日本社会観、天皇制観がそっくりそのまま
「32年テーゼ」の受け売りである点ですね。
seguiさんは現在は日本共産党とつながりはないらしいですが、
ある意味で「スターリンのDNA」はseguiさんに受け継がれているようです。

さらに問題なのは、こうした過去をseguiさんが知らなかったのか、知っててごまかそうとしたかということです。
もし前者なら「厨房レベルの無知」であり、とても「マルクス主義の権威」として威張れる柄ではないことになります。

後者ならさらに深刻です。その場合seguiさんは、

嘘吐き、詐欺師、ペテン師、

とんだ一杯食わせ者、

歴史偽造者、歴史修正主義者、

時代の荒波と苦闘した多くの左翼活動家の顔に泥を塗る者


として糾弾されても仕方がないという言い方もできるでしょう。

seguiさんに対しては、
過去の歴史の暗黒面から決して目をそらすことなく、
正しい歴史認識を獲得し、これを未来への教訓として、
いわゆるネトウヨとの間に未来志向の友好関係を築いていただくように
お願いしたいものです。

最後にseguiさんに贈りたい各界著名人のお言葉です。

「過去に目を閉ざすものは未来にも盲目となる」ワイツゼッカー西ドイツ(当時)大統領

「・・・正しい歴史認識を土台に未来志向的な関係に発展していくよう、ともに努力すべきだ・・・」盧武鉉大統領

「人として当然憤るべきことに抵抗したり、必死でまじめに怒ると、嘲ったり、含み笑いをしたり、冷笑、譏笑、嗤笑、憫笑…する声が聞こえてくる」辺見庸

「あなたみたいな人がいるから!!」アムロ・レイ

「きさまいいかげんにしろ」ケンシロウ





☆Segui il tuo corso, e lascia dir le genti!
http://dante21.seesaa.net/






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1 コメント

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Segui il tuo・・・・ (littorio)
2007-01-11 23:22:09
の最終記事が「チャベス」なんですが、
企業国有化と終身大統領へ突っ走り始めた彼を、
いったいseguiさんはどう擁護するのか見てみたいですね。
10年くらい後に、
「チャベスを擁護する左翼なんてだれもいなかったぞ。下品な反共デマはやめろ」と言い出すような気もしなくはないですけど。

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