東アジア海域史料研究

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さまざまな言語史料を駆使して海域交流史の多角的解明をめざす

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西欧・中国・日本史料による16-17世紀東アジア海域史の総合的研究

2011-06-18 20:23:30 | トップページ

日本学術振興会の科学研究補助金(基盤研究(B))による三年間(2010-2012)の共同研究


Biblioteca Publica de Evora(ポルトガル)調査の1コマ 

【研究目的】
16-17世紀の東アジア海域史を総合的に研究するためには、漢字文化圏の史料だけではなく、西欧史料の検討も不可欠である。日本ではつとにポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスの一次史料による充実した研究の蓄積がある。しかしこうした研究は、おおむね日本と西欧諸国との二国間関係史として進められ、中国史料なども活用して、東アジア海域の全体像を論じた成果はなお乏しい。特に近年では、利用しうる各国語の一次史料が大幅に増加し、研究の専門化が進み精緻な分析が進められている一方で、一人の研究者が東アジア海域全体にわたる研究を行うことは困難となっている。このため本研究計画では、西欧史・中国史・日本史を専門とする研究者の共同研究を通じて、西欧(ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス)・中国・日本・韓国という、16-17世紀の東アジア海域史に関する史料について、各分野の専門家が協力して、海外の文書館」・図書館などにおける調査とその研究を進め、研究成果を共有することにより、東アジア海域史の史料学を構築することを目的とする。

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イベリア調査 ⑩ セヴィーリャ探訪 その2

2011-06-18 20:15:07 | 調査記録

 

アルカサルから市電通りをはさんで南側はセヴィーリャ大学で、もともとは王立タバコ工場(Real Fábirica de Tabaco)の跡地であった。

この工場は1636年に設立され、当時のヨーロッパにおける最大のタバコ製造地であり、ビゼーのオペラでおなじみの「カルメン」の舞台ともいわれている。ちなみにグアダルキビル川西岸では、いまでもロマのコミュニティがあるという。 

 

ついでグアダルキビル川東岸の黄金の塔(Torre del Oro)へ。このあたりがグアダルキビル川を遡上する船の投錨点で、この塔は13世紀にムスリムにより造られ、キリスト教徒との攻防では、対岸の塔との間に鎖をつないで軍船の進入を防いだ。内部は海軍博物館となっているが、残念ながらすでに閉館時間であった。 

 

その後、セヴィーリャのバスターミナルに向かい、グラナダ行きのバスに乗車。車窓には畑地のなかに白壁の集落が点在する、アンダルシアの農村風景がつづく。

グラナダに近づくにつれ、南側にシエラネバダ山脈がみえてくるが、想像したよりもかなり険しい山容である。 

 

3時間後、夜間にグラナダ着。グラナダ駅近くのAbadia Hotelにチェックイン。モロッコ料理店で夕食。(Nakajima)

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イベリア調査 ⑨ セヴィーリャ探訪 その1

2011-06-18 20:10:01 | 調査記録

 

 文書館調査後、セヴィーリア旧市街を探訪。

 セヴィーリャはグアダルキビル川の河口から80km上流。ムスリム時代からアンダルシアの主要河港として発展し、16世紀にはアメリカ大陸との貿易を独占して繁栄をきわめた。


 セヴィーリャ旧市街はグアダルキビル川の東側にひろがり、海外の商品は河口のカディス附近で外洋船から小型船に積みかえられ、セヴィーリャに運ばれた。

  旧市街の中心はセヴィーリャ大聖堂(Catedral de Santa María dela Sede)。

ローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ世界第三の規模を持つ聖堂で、ゴシック教会としては世界最大。ムスリム時代のモスクをもとに、1402に建設を始め、1506年に完成。

 

内部の装飾にはアメリカ大陸から運ばれた金銀がこれでもか、と使われ、まさにスペイン黄金時代の象徴である。内部にはコロンブスの墓もある。 

    

鐘楼であるヒラルダ(Giralda)の塔は高さ105m、モスクのミナレットを改築したもので、セヴィーリャのランドマークである。1614年には支倉常長もこの塔にのぼっている。

大聖堂の南側のアルカサルはカスティリアの王宮だが、時間がなく参観できず。 (Nakajima)

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イベリア調査⑧ インディアス総文書館 その5

2011-06-18 11:17:24 | 調査記録

「古今形勝之図」

  

 修復室では、特別に明代の中国全図「古今形勝之図」を見せていただいた。横100cm、縦115cmの大型の木版地図であり、世界でインディアス文書館だけが所蔵する貴重資料である。

 左下には「嘉靖乙卯孟冬金沙書院重刻」という刊記があり、嘉靖341555)年に、福建省龍渓県の金沙書院で刊行されたことがわかる。

 スペインの第二代フィリピン総督であったグイード・デ・ラベサーリス(Guido de Lavezaris、在任1572-1575)が、マニラで中国人から入手し、本国に送ったものであるという(曹媛如「中国与欧洲地図交流的開始」『自然科学史研究』19844期)。

 全体的には元代の「混一疆理歴代国都之図」などの系統を引くように思われるが、随所に各地の史跡や歴史的事件についての説明が附記され、歴史地図のようになっているのが特徴である。

龍渓県といえば、福建海商の東南アジア貿易の拠点であり、この地図も福建海商がマニラにもたらしたのだろう。担当者によれば、もともと保存状態はかなり悪かったが、長期にわたる全面的な補修作業によって、現在の状態にまで修復したという。

(Nakajima)

 

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2011年6月 長崎会議と調査 ⑦ 【悟真寺調査】

2011-06-18 05:51:44 | 調査記録

 今回の調査の最後は、稲佐山の悟真寺。1598(慶長3)年創建の、現存する長崎最古の寺院。本堂は原爆で倒壊し、戦後再建されたもの。

 1602(慶長7)年、華人商人の欧陽華宇と張吉泉が帰依し、華人の菩提寺となり唐人墓地が設けられた。1649(慶安2)年にはオランダ人墓地、幕末にはロシア人墓地を附設、稲佐山国際墓地となる。

 唐人墓地は、稲佐山の斜面に沿った広大な墓地に、多数の墓石がならんでいる。前方に縦長の長方形の墓碑を配したのものが多い。亀甲墓は少ないが、なかには馬蹄形の石積みや亀甲形墳丘をもつものもある。

 墓碑の多くは、宮田安『長崎墓所一覧』(長崎文献社、1982年)に著録されているが、未収録のものも多く、現在いっそう網羅的な調査が計画されているとのこと。今回は時間不足と雨により、概況を確認するにとどめ、本格的な調査は後日に期す。

 今回の長崎調査はこれで終了。貴重な現地調査をアレンジしていただき、悪天候のなかご同行いただいた大石一久氏をはじめ。長崎歴史博物館のみなさまに、あらためて厚く感謝を申しあげます。 (Nakajima)

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2011年6月 長崎会議と調査 ⑦ 【外海歴史民俗資料館】

2011-06-18 05:24:48 | 調査記録

 村上家を後にして、出津の外海歴史民俗資料館へ向かった。ここでは1階に民俗資料、2階にキリシタン関連資料が展示されている。

 

 キリシタン関連資料は、もともとカクレキリシタンであった人々から寄贈されたと思しき「オラショ」の写しや、ロザリオ、ド・ロ神父関連の資料などが展示されている。

 とくに寄贈資料と思われる、カクレキリシタンの出生・死亡台帳などは、時間をかけて検討すれば、カクレキリシタンの血縁・地縁関係などが分かるはずで、興味深いものである。

 さらに出津にはド・ロ神父関連の史跡が多く、とくにド・ロ神父記念館では、この地域の授産事業などに関する展示がみられた。

 *上記の調査は長崎歴史文化博物館の大石一久氏のご尽力で実現したものである。記して謝したい。(Oka)

 

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2011年6月 長崎会議と調査 ⑥ 【黒崎調査 その2】

2011-06-18 05:20:23 | 調査記録

「バスチャンの日繰り」に代表されるように、外海のカクレキリシタンの潜伏信徒組織は、「(セ)バスチャン」なる日本人修道士によって整備されたとの伝承がある。

 このバスチャンは南蛮人宣教師「サン・ジワン」の弟子で、二人は外海地方に潜伏して宣教活動を続けたという。「サン・ジワン」は外海で死亡したようで、その墓を祀ったのが枯松神社(下黒崎町)である。

 また「バスチャン」が十字を切るとその幹に十字架が現れたという伝承のある椿の木(樫山町にあったとの伝承)は、外海のカクレキリシタンの葬儀で、死者に持たせる必需品であり、帳方が少しずつ削って棺桶に収めているという。

 潜伏中に死亡したジョアン(フアン/ジョバンニ)という名の司祭は確認できない。また伝承どおりに考えれば、(セ)バスチャンはジョアンの「同宿(司祭の下僕)」ということになるが、その素性も定かではない。

 ちなみにセバスチャンという名の日本人修道士は、日本人として初めて司祭に叙階され、元和大殉教(1622)で死亡した平戸出身の木村セバスチャンのみである。

枯松神社は、おそらくキリスト教布教以前から神社として存在したものが、17世紀に「サン・ジワン」の墓となることで、キリシタンたちの信仰対象となったと考えられる。

2000年から、黒崎教会の司祭野下神父の主導で、「野中騒動」を境に分裂したカクレキリシタンたちの子孫を集めて合同慰霊を目的とした「枯松神社祭」がおこなわれるようになった。

江戸時代、黒崎のカクレキリシタンたちは、天福寺(樫山町/曹洞宗)の檀家となり、その信仰を秘匿していた。天福寺側は、キリシタン信仰を認識しながらも、公儀に届け出ることなく、門徒たちを静かに守っていたという。

そのため、明治の改宗期にも、黒崎のキリシタン信徒の多くが、天福寺檀家として残った。「枯松神社祭」では、黒崎教会の司祭、天福寺の住職、そして前述の村上氏が代表者として集い、それぞれの宗派で祈りを捧げることが行事となっている『旅する長崎学4 キリシタン文化Ⅳ』、2006年  参照(Oka)

 

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2011年6月 長崎会議と調査 ⑤ 【黒崎調査 その1】

2011-06-18 05:15:53 | 調査記録

 

 黒崎の集落を訪問。まずド・ロ神父により1920年に建造された黒崎カトリック教会を訪れる。外装は煉瓦造り、内陣は円形アーチとリブヴォールト(コウモリ天井)を基調とするロマネスク風教会で、木造のシンプルな美しさをたたえている。

 ここで長崎市職員の村瀬氏と落ち合う。村瀬氏はもともと長崎県が現在推進している「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界文化遺産認定プロジェクトにおける外海地方の担当者で、この春に別部局へ転任したが、今でも外海地方のカクレキリシタン関係者に信頼されている人物である。

 この村瀬氏の案内で、黒崎集落のカクレキリシタンの帳方(世話役)である村上茂則氏にインタビューすることが叶った。


 村上氏は、カクレキリシタンの習俗を可能な限り研究者等に公開し、人々の正しい理解の促進に努めたいという方針をお持ちの方で、インタビューにも快く応じていただいた。

 ご自身でも精力的に他の地域のカクレキリシタンの世話役などと連絡を取り合っているようで、五島の奈留島や平戸の生月、外海の出津の世話役とも面識があるという。

 茂則氏は父親の茂氏が亡くなるまで、カクレキリシタン信仰とは距離を置いていたが、父親の死後、集落の信徒から、「この宗教の葬儀で逝きたい」という依頼を受け、自分が存命する限り、帳方として葬儀を執り行い、信仰を守っていく決意をしたという(『長崎新聞』2008726日号)。

 村上氏宅には、寛永11年(1634)に記されたというキリシタン暦(バスチャンの日繰り)の算出方法指南書(写本)や、『天に坐す(主の祈り)』や『がらっしゃみちみち(天使祝詞)』などの「おらしょ(祈祷書)」のほか、『天地創造の事(旧約聖書の第一章)』等が保管されており、我々にも見せてくださった。

「バスチャンの日繰り」を参考に毎年、復活祭、キリスト生誕、灰の水曜日に相当する三日を祭礼の日として祝う習慣があるという(但しいずれもカトリック暦とは一日ずつずれている)。祭礼日のほかに、洗礼の儀式、葬儀などを適宜おこなう。そして受洗者や死亡者の台帳を管理するのも、この帳方の役目である。

 洗礼に際しては、カトリック信仰の代父・代母と同義であると考えられる「抱き親」という人物が選ばれ、受洗者は抱き親のキリシタン名を引き継ぐことになっているという。

 先述のとおり、村上氏は出津の帳方とも交流があるが、「野中騒動」の元になった聖画の写真を出津の帳方から譲り受けておられ、それを確認すると、イエズス会ではなくスペイン系托鉢修道会が遺したものであろうことが認められた。

 案内役の村瀬氏によると、確かに17世紀初頭外海地方の布教には、イエズス会よりも托鉢修道会が力を入れており、その説明を補足する材料になるといえそうである。(Oka)

 

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2011年6月長崎会議と調査 ④ 【外海キリシタン略史】

2011-06-18 04:52:12 | 調査記録

西彼杵半島の外海地方には、黒崎、出津にいまだカクレキリシタンの信仰を伝える集落がある。九州のカトリック布教は、周知のとおり1549年に始まるが、外海地方でのイエズス会の布教活動が本格化するのは、領主大村純忠とイエズス会の関係が密接になった1570年頃のことであるといわれる。

その後厳しい禁教の時代を経て、明治維新後にキリシタン禁令高札の撤廃(1873)があり、パリ外国宣教会が新たに長崎を拠点に、カトリック布教を開始した。

長崎周辺には、江戸時代の禁教期間にも、独自の信徒組織を擁して、キリシタンの信仰を維持した集落が存在することは、長崎外国人居留地に赴任してきたパリ外国宣教会のプチ・ジャン神父のもとで1865年に発見された。

しかし、彼らが維持してきたキリシタンの信仰は、1617世紀の日本での布教方針が「適応政策/アコモダティオ」により、日本人の習俗に合わせたものであったこと、長年の潜伏期間に司祭の指導もなく、本来のカトリック信仰とはかけ離れたものに変化していったことなどを要因として、19世紀のカトリック信仰とは相当異なるものであるとみなされた。

そのためパリ外国宣教会は、発見されたカクレキリシタンの存在意義を、16世紀以来のキリスト教伝道の成果として華々しく宣伝しつつも、彼らをふたたび正式なカトリックの教えに導くために、再改宗の手段を模索した。

 外海地方での改宗事業では、パリ外国宣教会のド・ロ神父等の社会救済・授産事業などの効果もあって、多くのカクレキリシタン信徒がカトリックの洗礼を受け、新たに入信した。

 その一方で、カクレキリシタンの習俗は秘密裏に維持しながら、先祖代々檀家として世話になってきた仏教寺院との関係も断ちがたく、仏教徒として生活することを選択したカクレキリシタン信徒もいた。

  さらには、カトリックにも入信せず、仏教寺院とも距離をとって生活する、本来のカクレキリシタン信徒としての生活を選んだ人々も、少数派ではあったが、存在したのである。今日、カクレキリシタンとして信仰を維持しているのは、この第三番目の人々の子孫と、仏教徒でもカクレキリシタンを先祖代々の習俗として踏襲している人々である。

 カトリックへの改宗事業がはじまった1865年、カクレキリシタン信徒の間で、「野中騒動」と呼ばれる紛争が起こった。

  出津の集落において、カトリックへの改宗者と反改宗者の間で対立が生じ、それまで信仰の代表者であった改宗者側の世話役宅から、信仰対象として先祖代々受け継がれてきた聖画が反改宗者等によって盗まれた事件が発端で、互いに刃傷沙汰に及んだというものであった。

  この聖画はその後長崎県が委託を受けて管理したが、19458月の原爆投下により、現物は消失された。複製は長崎県歴史文化博物館が所蔵している。(Oka)

 

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2011年6月 長崎会議と調査 ③ 【深堀調査】

2011-06-18 04:49:48 | 調査記録

深堀の歴史と呉五官の墓

 6月12日(日)は、長崎周辺の現地調査。昨日来の雨は依然としてやまず、というか朝方から猛烈などしゃぶり。それでもレンタカーで深堀に向かう。車軸を流すような豪雨のなか、国道499号で長崎半島を南西にむかい、30分ほどで深堀の集落につく。

 承久の乱ののちに地頭職に任じられた深堀氏が、領主としてこの地を支配。長崎湾に入る船から関税を徴収し、それを拒めば襲撃して積荷を没収した。豊臣秀吉が1588(天正18)年に発した「海賊禁止令」で、特に深堀氏の貿易船襲撃を処罰して、全国に海賊行為の現金を命じたことで知られる。

 江戸時代には、深堀氏は佐賀鍋島氏の家臣となり、この地は佐賀藩の飛び地になり、石高千石の家老職として陣屋をかまえ、周囲には武家屋敷も形成された。この日の午後に調査した外海の黒崎地区も、深堀領の一部である。

 深堀集落にはいり、あいかわらずの豪雨の中で車を降り、南西の丘陵のふもとにある呉五官の墓へ。

 中国東南部に特有の、馬蹄形の石積みでかこまれた亀甲形墳墓で、前面には四角形の墓碑を配する。保存状態は良好である。

 墓碑の銘文はかなり風化しているが、正面中央には「□林五官呉公」とあり、1637(寛永14)年に死去した、朱印船貿易家「唐人五官」に比定されている。

 肥後伊倉に残る、福建海澄県の郭濱沂(朱印船貿易家の肥後四官)の墓と匹敵する規模で、有力な華人商人の墓であったことは確かであろう。ただし亀甲部分は郭濱沂墓とくらべてかなり細長く、出身地の違いを反映していると思われる。

 このほかにも深堀には華人三官の墓・深堀家墓地・武家屋敷跡などが残るが、雨はいよいよ激しく、すべて後日の再調査を期す。深堀集落ではスピーカーで、土砂災害警報が発令されたとアナウンスしていた。

 なお気象庁によれば、長崎では11日正午から12日正午までの長崎市の雨量は230㍉、特に深堀調査中の8時~9時台の2時間は100㍉にのぼり、まさに記録的豪雨だったとのこと。(Nakajima)

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2011年6月 長崎会議と調査 ② 【定例研究会議】

2011-06-18 04:33:53 | 研究会&会議

 15:00より、博物館第一会議室で科研費の定例会議。まず今年度の研究活動計画について議論。

 ついで藤田明良が、明日調査を行う肥前深堀の歴史と唐人墓について紹介し、さらに今年度から研究協力者として加わった岡本真(東京大学人文社会系研究科・博士課程)と、中島楽章が研究報告を行った。

 岡本報告「種子島「新貢三大船」考」は、近年火縄銃の伝来問題と関連して論争が続いている、天文13-14(1544-45)年に種子島を出帆した遣明船の渡航過程について、従来紹介されてこなかった、いくつもの史料を援用して考証。この問題に関する定論となることが期待される。

 中島楽章「1540年代の双嶼密貿易と西洋式火器」は、明朝・日本・ポルトガル史料を利用して、1540年代の南九州における火器の伝播を考察。ポルトガル・日本史料を専門とするメンバーから有益な教示を得ることができた。

 なお 今回は博物館のご好意で無料で会議室を利用させていただいた。大石一久研究グループリーダーによれば、今年から長崎学調査研究プロジェクトがスタートし、内外の研究者との連携を深めていきたいとのことである。

 研究会終了後、出島ワーフの「朝市食堂」で懇親会。長崎県世界遺産登録推進室の川口洋平氏も合流。長崎で発掘された、ポルトガルのオリーブ油壺に関するご論考をいただく。リスボン海事博物館にも、同型のオリーブ壺が展示されていた。

(Nakajima/Fujita)

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2011年6月 長崎会議と調査 ① 【長崎歴史文化博物館】

2011-06-18 04:29:11 | 調査記録

2011年6月11日(土)と12日(日)

長崎で本科研の年度始の会議と現地調査がありました。

【長崎歴史文化博物館】

 6月11日(土)、2011年度の科研費定例会議を長崎で開催。今回は長崎歴史文化博物館のご厚意で、館内の会議室を使用させていただき、あわせて常設展示・特別展示も観覧させていただいた。

 長崎は梅雨らしい雨天。13:00にメンバーが博物館に集合。研究グループリーダーの大石一久氏、研究員の深瀬公一郎氏・岡本健一郎氏にお会いし、大堀哲館長にもご挨拶する。若手の研究者が積極的に企画運営にあたっており、活気のある博物館である。

 岡本氏のご案内で、まず常設展示を見学。以前も何回か訪れているが、展示はいつもかなり入れ替わっている。九州国立博物館が文化交流に重点をおいているのに対し、こちらはやはり対外通商について興味深い展示が多い。

 寛永年間の長崎の地図は、鎖国前後の長崎の空間構造がよくわかり、港には日本船やジャンクのほか、十字旗を掲げたポルトガルのナウ船やカラヴェラ船も確認できる。ベトナムから長崎奉行に宛てた国書(複製)なども、はじめて目にする資料であった。

 特別展示は「長崎・写真伝来:知られざる日本写真伝来史」、深瀬氏が企画担当で、本日が初日であった。上野彦馬をはじめとする長崎の写真家による、幕末~明治期の古写真が大量に展示されている。幕末の写真も、かなり鮮明であることにおどろく。

 人物写真が多いが、長崎の風景写真もあり、中島川の眼鏡橋付近など、現在とは違って、川端まで民家が張り出しているのが目につく。

 雨天ということもあって、入館者はかなり多く、長崎奉行所の復元コーナーでは、インド人らしき観光客が、切腹用の白装束を着た武士とならんで、嬉しそうに写真をとっていた。(Nakajima)

 

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イベリア調査⑦ インディアス総文書館 その4

2011-06-14 10:18:18 | 調査記録

 

私たちはモラ氏の案内で、館内の目録室・閲覧室・収蔵室・修復室・展覧室などを見せていただいた。建物自体は16世紀以来の歴史的建造物であるが、内部の設備は現代的に整備され、最新技術により文書が管理・保存されているようである。


 文書のデジタルベール化も進められており、一部の文書はデジタル複写することも可能だという。データベースには文化省のウェブサイトからアクセスできる。

http://pares.mcu.es

リファレンス室において、文書のフォトコピーやマイクロフィルム化も申請できる。

 

2階には一般公開の展覧室があり、私たちが訪れた時には、スペイン領アメリカ・アジアにおける海賊などの活動に関する展示がされていた。

 最後には館長室を訪問し、María Lsabel Simó Rodriguez館長にお礼のご挨拶をして、記念集合写真を撮って辞去した。(Nakajima)

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イベリア調査⑥ インディアス総文書館 その3

2011-06-14 08:36:03 | トップページ

 

セヴィーリャの商品取引所は、1582年にフェリペ2世の命によって建設が始まり、1646年にいたって最終的に完成した。もともとアメリカ貿易に従事するセヴィーリャ商人は、彼らの公館で紛争処理を行い、カテドラルの内外などで交易や契約を行っていたが、その後はこの商品取引所が、商事紛争の処理や、交易や契約の場となった。

 

しかし、1717年に商品取引所はカディスに移され、セヴィーリャの取引所は空き家になっており、それが文書館に転用されたのである。 

文書館はカテドラルと王宮(Peales Alcazares)のあいだにあり、中庭を囲んだ2階建ての正方形の建物である。クリーム色を基調とした端正な建築で、スペイン・ルネッサンス様式を中心に、その後の増改築のプロセスでバロック様式・ロココ様式なども加味されているという。1987年にはユネスコの世界遺産に登録され、文書館としての役割とともに、セヴィーリャの代表的な史跡の一つでもある。

インディアス総文書館の文書には、いくつかの主要な来源がある。特にインディアス会議、セヴィーリャ通商院(La Casa de Contratación)の文書は、大航海時代以降のスペイン軍事・通商・裁判・財政・地理学・航海技術などに関する資料の宝庫である。


このほかにもセヴィーリャやカディスのインディアス領事館(Consulados de Corgodores a Indias)などの通商・司法機関や、王立ハバナ会社(Real Compañía de la Habana)などの植民地現地機関など、さまざまな機関に収蔵されていた文書が集められている。さらにコロンブス関連文書などの個人文書や、絵画・地図などの図像資料・現物資料も多い。(Nakajima)

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イベリア調査⑤ インディアス総文書館 その2

2011-06-14 08:14:02 | 調査記録

 もともとスペイン王国の植民地文書は、おもにカスティーリャ西北部にあるシマンカスの王室文書館に集められていた。まず1544年に、カルロス5世はスペイン領インディアに関する文書を、シマンカスに集めるように命じ、スペイン植民地の最高評議機関であったインディアス会議(Consejo de la India)が、各地の文書をシマンカスに移送していく。


 しかし、文書が増加するにつれて、シマンカスの保存スペースは足りなくなり、分類整理も行きとどかなくなっていく。また、このほかにインディアス会議をはじめとする植民地関係の諸官庁も、それぞれ独自に文書を保存していた。


 このため1770年代に、インディアス大臣であったホセ・デ・ガルベス(José de Gálvez)は、各地に未整理のまま保存されていた植民地関係文書を、一か所に集めることにした。

その背景には、啓蒙主義の風潮とともに、スペインの植民地支配に対する批判が強まり、ラテンアメリカの独立運動がはじまるなかで、植民地関係の記録を体系化する必要性があったといわれる。 

 1781年には、国王カルロス5世が、シマンカス・マドリッド・カディス・セヴィーリャなどの植民地文書を、セヴィーリャに送ることを命じた。そして1785年には、セヴィーリャの商品取引所(Casa Lonja de Mercaderes)を改築して、インディアス総文書館が発足し、シマンカス文書館やインディアス会議などの文書が運び込まれていったのである。(Nakajima)

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