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アニメ『放浪息子』フラワー・オブ・ライフから『物語』を抜き出す。

2011年04月17日 | アニメ


千葉さん「気づいた?二鳥くん、声変わりしはじめてる。私ね、二鳥くんは、他の男子とは違う、特別なんだって思っていた。でも、そうじゃない。きっと……普通の男の子なんだわ……」

高槻さん「あの…さ。二鳥くんは、特別な男の子だと思うよ、やっぱり。…あ、でも、千葉さんも特別だし、ちーちゃんとか、佐々ちゃんとか、有賀くん、白井さんも、あと………あたしも」
千葉さん「そういうの、なんか力入り過ぎててカッコ悪い。……でも、高槻さんらしいわ」


(アニメ『放浪息子』第11話より)

ノイタミナ放送の『放浪息子』(監督・あおきえい、脚本・岡田麿里)が素晴らしかった。第1話からの画面全体を通すクオリティの高さ、その後各話の演出、そして特に最終話は良くって感動しました。『放浪息子』は、女の子になりたい(女の子の格好がしたい?)男の子である二鳥修一くんと、男の子になりたい女の子の高槻よしのさんが出会って、他にも千葉さんとか、有賀くんとか、更科さんとか、様々な友達と出会って、そうして季節が移り変わって成長して行くような『物語』でしょうか。
勢い余らせまして『放浪息子』を全巻買って来ました。読んでみると、ああ、原作とアニメは、少し、ほんの少しなんですが“描き”が違うなあと。そこをちょっと書いておこうと思います。

具体的に言うと、アニメの方が原作よりもややドラマチックに仕上げていると思います。これ、目立ってドラマチックとか、強烈に盛り上げているワケではなくって、ほんの少しボリュームを上げる感じで。その上げ調節が絶妙と思うのですが。
対して原作は、ある意味、ドラマチックさからは一歩離れて観ているというか、あまり『物語』的、収束に向かう力場がはたらかないままに、日常を描いている感覚があります。そこがいい作品なんですけどね。
たとえば二鳥くんは、この物語のメインのヒロインと思える千葉さんや高槻さんとは別の、年上の女の子のアンナちゃんと付き合い始めるのですが、多分、物語の収束としては関係を千葉さんや高槻さんに絞った方がより“盛り上がり”を得られると思うんですよね。「盛り上がりを得たい」ならですが。でも、多分、そうじゃない。
「盛り上げる」という指向からは一歩離れて観ていて~『面白く』描こうとは、しているワケで「盛り上げない」という縛りをもっているワケではなく~千葉さんや、高槻さん、二鳥くんだけの閉じた世界にはしたくないというか…。他にも、中学になって知り合う更科さんという、ちょっと変わった子がいるんですが、この子には昔から更科さん大好きの白井さんって子がいて。…この子、多分、二鳥くんの物語にはほとんど交わりを持たないと思うんですけど、でも、多分、『放浪息子』の描きとしては必要な子なんですよ。

そういう端々のキャラにも気を配っているワケですが、群像劇…という言い回しとも、ちょっと違う気もしています。僕のイメージですが群像劇は、その時々に応じてカメラを他のキャラに移して、段々、みんなが主人公のように思えてくる描き…に思っているんですが『放浪息子』の主人公は間違いなく二鳥くん(引いても千葉さん、高槻さん)だけで、その意味でカメラを動かしている事はないと、そういう感覚でいます。

フラワー・オブ・ライフ (1) (Wings comics)
よしなが ふみ
新書館

ここらへん、眺めていて、よしながふみ先生の『フラワー・オブ・ライフ』を思い出したりしていました。これ僕、大傑作だと思っているんですけど。やっぱりこのマンガも、ある種のドラマチック的展開というか、マンガ的収束から、一歩離れて観ている所があって、主人公として置かれた白血病…が治った少年・花園春太郎くんは、必ずしも中心ではない…というか、ニュアンス難しいですね(汗)さっきのセリフですね。「特別な子ではないんだけど、やっぱり特別な子なんだよ」という“描き”をしているように思えるんですね。
『フラワー・オブ・ライフ』は、また改めた機会にじっくりがっつり話し込みたいので、ここで細かに語るのは避けますが、僕から観て、やはり『放浪息子』と同じく「盛り上げるために展開やキャラを絞り込む」という描きからは一歩離れてる所がある作品だと思っています。(絶対に盛り上げないとしているワケではないので、言い回しがかなり難しいですが)

ちなみに“フラワー・オブ・ライフ”とは、英語で「生涯の最盛期」などの意味という事らしいですが、(↓)こういう図形の事も指しているようで、僕としては『フラワー・オブ・ライフ』は両方の意味があるとして、その上で、どっちかと言うとこっちの図の描きじゃないかな?と思っています。



…いや、両方の意味とかウソwよしなが先生は、違う事を言うかもしれませんが、僕はあの物語(場面)があの子たちの輝かしい一時期である事は間違いないけど、春太郎にも三国くんにも、別の輝かしい時期は来ると思っています。他の子にも無いとは思わない。その上で、一つの良かった時期としての意味なら飲み込めるかなって感じでw

それぞれの円が重なりあって大きな拡がって行く“花”の図形を描いてゆく、中心に置かれた円は中心に置かれた円ではあるけど、他の円と違うかというと、違わない。同じ円。そして交わらない円、遠い円も、同じ大きな“生命の花”を描いて行くその一部であると。僕は、そういう描きの『物語』に思えます。
それで『フラワー・オブ・ライフ』を読んでから、こういう景観の物語を僕は“フラワー・オブ・ライフ”と呼んだりするようになっているのですが、『放浪息子』は多分、そういう下地を持った物語に思えます。…“フラワー・オブ・ライフ”をテーマとしているワケでも、“フラワー・オブ・ライフ”を描こうとしているワケでもなく、でも「二鳥修一くんの物語を描く」必然として、この景観が取り込まれているように感じています。

そういう感覚は、多分、アニメのスタッフも掴んでいて(↑)上に引用したような「二鳥くんは特別な男の子に見えたけど、でも、本当は特別な男の子じゃない。…でも、やっぱり、特別な男の子なんだよ」というセリフに顕れていたり、最終話のサブタイトル『放浪息子はどこまでも~』にも顕れていると思います。1クールの描きとしてはキレイに終幕させている。…でも、この物語はここで終わりじゃないという。

アニメはそれを踏まえた上で、ほんの少し脚色し、盛り上げている。

そこがいいな…と。少しだけ塩を振って味をつける“心遣い”レベルの感覚なんですけど……良いです。結果として、僕の波長にズッポシ合ったという事かもしれませんが。
原作では多少、山場としながらも割と流しているような所もある、二回目の倒錯劇のエピソードを最終回に持ってくるんですが、体育館の舞台に向けて満場の人たちが(登場キャラたちも合わせて)万来の拍手をして、女の子の二鳥くんを迎える構図が描かれるんですよね。…でも、それは幻想ですよね。幻想だって事は、前の回でやっている。女の子の格好をして登校してきた二鳥くんを、“現実”は、保健室に連れて行き隔離して両親に迎えに来させ、同情も無情も併せて二鳥くんのそれまでの日常を変えてしまったのですから。そして二鳥くんの身体自身も声変わりを迎えていて、二鳥くんを違うものに変えようとしている。

…でも、“幻想”って言いましたが、本当の本当は“幻想”でもないw(←どっちなんだ!)現実は二鳥くんを暖かく拍手で迎え入れているのも本当だし、二鳥くんの身体だって二鳥くんを否定はしない。でも、女の子の格好して外を出歩いたら、ちょっと軋轢があるかもしれない。それだけの事と言えばそれだけの事。
そういう“舞台”を見据えて、万来の拍手を受けて、ちょっと胸を高鳴らせながら、一歩踏み出すシーンに胸が締め付けられるような思いがあってね。OPテーマの『いつだって。』も併せて、えらい良いシーンになっている。

原作の『放浪息子』は小学生から始まっているのですが、二度目の倒錯劇のシーンをラストに見据えて中学生からはじめている。そのイメージの取り方が良いですね。『放浪息子』という長く、取り留めのない“描き”のある時期を取り出し、演出的に一味つける事によって“盛り上がる物語”として再構成しています。結果として……なんだろ?テレビを観ていて、すっと胸に染み入る“描き”になっていると思いました。

▼漫研:「喰霊-零-」は傑作アニメだったか

あおきえい監督は、以前『喰霊-零-』(2008年放映)も手がけていて、これもかなり好きな作品で。(↑)当時、記事なんか書いたりしていて、内容はかなりdisってるように見えるかもしれませんが(汗)本当は、今でも相当にお気に入りの『物語』なんですよ(汗)
この時も、あおき監督のシリーズ構成力というかラストを盛り上げる形に持って行くイメージの持ち方に評価というか、共感?波長の合いを感じていたんですが、ラストあたりの演出的な合わせ方に難を感じていて、結果として「惜しい!」という気持ちが強くなってdis記事っぽくなっていますが、逆に言えばラストに到るまでの流れは本当に素晴らしく、秀逸だったんですね。
今回、1話から間違いないクオリティの高さで、それが最終話を迎えた時、きっちり満足…大満足する形になっていたので、本当に良かったなと。この勢いで、次は『Fate/Zero』ですか。楽しみです。


放浪息子 (1) (BEAM COMIX)
志村 貴子
エンターブレイン

放浪息子 1 [Blu-ray]
畠山航輔,瀬戸麻沙美
アニプレックス



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