【死狂いの物語】

豊久「こいが薩州の刀法じゃ、一撃になんもかも込め後の事なぞ考えるな」
エルフたち「あ、あの、その一撃が外れたり、よけられたらどうすれば……」
豊久「さぱっと死せい。黄泉路の先陣じゃ。誉れじゃ」
『ドリフターズ』(作・平野耕太)が滅茶苦茶面白いですね!!ヤングキング・アワーズで連載中ですが。『ドリフターズ』は、歴史上の英傑、天才、あるいは大悪党たちが、何故か定期的に異世界に迷い込み、そこでの再起とも復讐とも言える行動に駆られる『物語』。関ヶ原の合戦で島津の“捨てまがまり”となった島津豊久は、死線の果てで“漂流者”となって、その異世界に迷い込み、死したはずの織田信長、那須与一らと合流して“国盗り”をはじめる。対するは、異世界の侵略国家であるオルテ帝国、それから黒王と呼ばれる怪物と復讐に駆られた“漂流者”たちを率いたローブの男(…男だと思うよ?)。
しかし、漂流者たちは、なとな~く日本人に偏りがあるように思います(笑)まあ、当然というか、それは日本のマンガだから…ではなく、この物語は“サムライ”を描くのがテーマだからだと思われます。サムライというか…『死狂い』と言う言い方を僕はするのですが、『葉隠』に代表される「死すことの武士道観」というか……「死にたがりの戦闘狂」を描くのが目的だからだと思います。
平野耕太先生の前作『ヘルシング』も僕は好きなんですけど、こっちの方がその何倍も好きですね。『面白い』。…何が違うのか?単純には読み易さだと思うんですが、『ヘルシング』って非常にアクの強い物語でしたよね。そして、これが重要なんですが…『ヘルシング』には“爽やか人”な人が基本的にいない。皆無。仮にいたとしてもすぐ死ぬ。(`・ω・´)
…だから、読む人を選ぶというか、その爽やかじゃなさ…いわゆる“非モテ感”に!(`・ω・´) …こう、拒絶とは言わないまでも、胸焼けというか胃腸に違和感というか、まあ、そういう不快な感覚を覚える人も、少なくなかったんじゃないかと思うんですよ?
それが『ドリフターズ』になってみると…これはどうしたことでしょう?この物語では“爽やかな人”たちが溢れているではありませんか。(`・ω・´)(←ほんとかよ!?)
…いや、島津豊久は爽やかだと思います(笑)これに沿って織田信長なんかは「いつものキャラ」ではあるんですが、豊久にひっぱられて、どこか良い人感が出ているというか、引き出されるんですよね。こういうドス黒い信長の“明るい面”が。その意味で豊久はすごくよくできた主人公と言えます。
少なくとも『ヘルシング』を読んで『ドリフターズ』を読んだ人は、テーマも内容もほとんど同じものを描いているにも関わらず、その、ある種の“空気”の変わり様に驚嘆すら覚えるのではないでしょうか。
それくらい島津豊久という主人公はよくできたキャラで、それこそ暗きを払う少年マンガのヒーローの風格すら持つのですが、では、彼は平野耕太作品の異分子かというと、まったくそんな事はない。むしろ、平野耕太作品の『ヘルシング』的なものの延長上に間違いなく居り、一つの到達点のキャラだと思うんです。
少年マンガのヒーローのような“爽やかな”主人公と言いましたが、彼は「(読者を含め)周りが引く程の戦闘狂」であり、好戦的で、死を厭わない。そして独特の殺陣哲学を説いて~独特と言っても彼の中の“常識的”な武士道という事ですが~人々に不思議な感化をもたらします。
『ヘルシング』が描かれなかったら、このキャラクターは生まれなかったと思います。それくらい地続き感があって……「ああ、そうだよねえ。戦闘狂の物語を突き詰めて行ったら“ここ”に来るよねえ」というか、自分的に、そういう納得を感じさせるものがあります。

『ヘルシング』の少佐は僕も非常に好きなキャラで、その物語のほとんど総てを持って行った、平野耕太作品を代表する名キャラクターでもあると思います。しかし、今のこの話に沿って言えば少佐は「まだ、足りない」という話ができると思ってます。
ちょっと、説明が難しいのですが…少佐はまだ「戦争(いくさ)に振り回されている」というか…あ、先に念のため言っておくと、少佐がダメなキャラという事ではなくって、狂い方の話というか……戦闘狂キャラクター論みたいな変な話なんですが(汗)
何と言えばいいか…僕の言葉で言うと少佐は“戦争中毒者”であり、豊久は“死狂い”って事なんですけどね。(※死狂いって言うと、単に「死にたがり」の事も指しますけど、ここでは葉隠武士道的なものを含みます。……葉隠って言っちゃうと変に『葉隠』の解釈論みたいな話に行ってしまう気もするので、隠語的な意味合いで『死狂い』と言っている感じですね)
“中毒者”なんです、少佐は。彼にとって“戦争”とは、興奮するものであり、悦楽であり、ハレの日であり、祭りであり、非日常であり、自分の存在理由の確認なんですよ。だから自分が「そうである」事の宣言を高らかに謳うし、だから戦争をせずにはいられない。そして彼は「だからこそ」の魅力を持っている。
しかし、豊久はそうじゃない。…ん~…なんか豊久に過度な仮託をしているような気もしてきましたが(汗)この「さぱっと」した感覚は、そういう事だと思うんですが、彼にとって“いくさ”は宿命使命であり、誇りであり、日常(日々心得るもの)であり、確認するまでもない“確”とした自分そのものなんです。
多分、僕の『読み』ですが、豊久が少佐を見たら「道理もわきまえずに、いくさん逸るのは、青か。子供じゃ。いくさあ、やる時にやって、死す時に死せばよか」…とでも言うんじゃないかなと。「掻き取るのは、たやすか」とか言っているシーンもありますね。…と言いつつ、かなりしょうもない事で、斬りかかるとも思いますが(笑)
しかし、いくさで自分の確認をする必要がないから、その分、豊久は他のものを観て気持ちを振り分ける。だから彼は「優しい」(笑)意外と視野が広い(笑)ここらへんが、彼の異質さではないかと思います。何の悪気もなく「さぱっと死せい」とか言いますけどね(笑)何か気に触ったら「根切りじゃ」とか言い出しますけどね(笑)
「平和な日常など俺には無意味だ…もっと戦いを!」とか言っているキャラクターが、一周したら馴染まないはずの世界とコミットしたと言うか……「高度に精神統合してしまった狂人は、人格者と区別がつかない」と言うか…。いや、少佐は狂人と思えるでしょうけど、豊久はもう狂人とは思えないですよね。(実際、狂人じゃなく、作中であったように「死生観が違う」だけですけが)でも、彼らは根は同じ者のはずなんですよ(作者の分身という視点的にも)。その一周感が『愉楽しく』あります。
『ヘルシング』を、少佐を描ききらなかったら、島津豊久というキャラクターは生まれて来なかったでしょう。どろっどろ、グロッグロの戦闘狂が集い狂宴する『ヘルシング』の中から、眩いばかりの、それこそヒーローと見紛うばかりの主人公が現れた。爽やかな戦闘狂、優しい気配りできる戦闘狂というのは、ちょっとした痛快事です。
まあ、それくらい『ドリフターズ』の島津豊久は魅力的で、今のこの作者にしか描けないような独特のカッコ良さを持っています。今が読み時。

豊久「こいが薩州の刀法じゃ、一撃になんもかも込め後の事なぞ考えるな」
エルフたち「あ、あの、その一撃が外れたり、よけられたらどうすれば……」
豊久「さぱっと死せい。黄泉路の先陣じゃ。誉れじゃ」
『ドリフターズ』(作・平野耕太)が滅茶苦茶面白いですね!!ヤングキング・アワーズで連載中ですが。『ドリフターズ』は、歴史上の英傑、天才、あるいは大悪党たちが、何故か定期的に異世界に迷い込み、そこでの再起とも復讐とも言える行動に駆られる『物語』。関ヶ原の合戦で島津の“捨てまがまり”となった島津豊久は、死線の果てで“漂流者”となって、その異世界に迷い込み、死したはずの織田信長、那須与一らと合流して“国盗り”をはじめる。対するは、異世界の侵略国家であるオルテ帝国、それから黒王と呼ばれる怪物と復讐に駆られた“漂流者”たちを率いたローブの男(…男だと思うよ?)。
しかし、漂流者たちは、なとな~く日本人に偏りがあるように思います(笑)まあ、当然というか、それは日本のマンガだから…ではなく、この物語は“サムライ”を描くのがテーマだからだと思われます。サムライというか…『死狂い』と言う言い方を僕はするのですが、『葉隠』に代表される「死すことの武士道観」というか……「死にたがりの戦闘狂」を描くのが目的だからだと思います。
平野耕太先生の前作『ヘルシング』も僕は好きなんですけど、こっちの方がその何倍も好きですね。『面白い』。…何が違うのか?単純には読み易さだと思うんですが、『ヘルシング』って非常にアクの強い物語でしたよね。そして、これが重要なんですが…『ヘルシング』には“爽やか人”な人が基本的にいない。皆無。仮にいたとしてもすぐ死ぬ。(`・ω・´)
…だから、読む人を選ぶというか、その爽やかじゃなさ…いわゆる“非モテ感”に!(`・ω・´) …こう、拒絶とは言わないまでも、胸焼けというか胃腸に違和感というか、まあ、そういう不快な感覚を覚える人も、少なくなかったんじゃないかと思うんですよ?
それが『ドリフターズ』になってみると…これはどうしたことでしょう?この物語では“爽やかな人”たちが溢れているではありませんか。(`・ω・´)(←ほんとかよ!?)
…いや、島津豊久は爽やかだと思います(笑)これに沿って織田信長なんかは「いつものキャラ」ではあるんですが、豊久にひっぱられて、どこか良い人感が出ているというか、引き出されるんですよね。こういうドス黒い信長の“明るい面”が。その意味で豊久はすごくよくできた主人公と言えます。
少なくとも『ヘルシング』を読んで『ドリフターズ』を読んだ人は、テーマも内容もほとんど同じものを描いているにも関わらず、その、ある種の“空気”の変わり様に驚嘆すら覚えるのではないでしょうか。
それくらい島津豊久という主人公はよくできたキャラで、それこそ暗きを払う少年マンガのヒーローの風格すら持つのですが、では、彼は平野耕太作品の異分子かというと、まったくそんな事はない。むしろ、平野耕太作品の『ヘルシング』的なものの延長上に間違いなく居り、一つの到達点のキャラだと思うんです。
少年マンガのヒーローのような“爽やかな”主人公と言いましたが、彼は「(読者を含め)周りが引く程の戦闘狂」であり、好戦的で、死を厭わない。そして独特の殺陣哲学を説いて~独特と言っても彼の中の“常識的”な武士道という事ですが~人々に不思議な感化をもたらします。
『ヘルシング』が描かれなかったら、このキャラクターは生まれなかったと思います。それくらい地続き感があって……「ああ、そうだよねえ。戦闘狂の物語を突き詰めて行ったら“ここ”に来るよねえ」というか、自分的に、そういう納得を感じさせるものがあります。

『ヘルシング』の少佐は僕も非常に好きなキャラで、その物語のほとんど総てを持って行った、平野耕太作品を代表する名キャラクターでもあると思います。しかし、今のこの話に沿って言えば少佐は「まだ、足りない」という話ができると思ってます。
ちょっと、説明が難しいのですが…少佐はまだ「戦争(いくさ)に振り回されている」というか…あ、先に念のため言っておくと、少佐がダメなキャラという事ではなくって、狂い方の話というか……戦闘狂キャラクター論みたいな変な話なんですが(汗)
何と言えばいいか…僕の言葉で言うと少佐は“戦争中毒者”であり、豊久は“死狂い”って事なんですけどね。(※死狂いって言うと、単に「死にたがり」の事も指しますけど、ここでは葉隠武士道的なものを含みます。……葉隠って言っちゃうと変に『葉隠』の解釈論みたいな話に行ってしまう気もするので、隠語的な意味合いで『死狂い』と言っている感じですね)
“中毒者”なんです、少佐は。彼にとって“戦争”とは、興奮するものであり、悦楽であり、ハレの日であり、祭りであり、非日常であり、自分の存在理由の確認なんですよ。だから自分が「そうである」事の宣言を高らかに謳うし、だから戦争をせずにはいられない。そして彼は「だからこそ」の魅力を持っている。
しかし、豊久はそうじゃない。…ん~…なんか豊久に過度な仮託をしているような気もしてきましたが(汗)この「さぱっと」した感覚は、そういう事だと思うんですが、彼にとって“いくさ”は宿命使命であり、誇りであり、日常(日々心得るもの)であり、確認するまでもない“確”とした自分そのものなんです。
多分、僕の『読み』ですが、豊久が少佐を見たら「道理もわきまえずに、いくさん逸るのは、青か。子供じゃ。いくさあ、やる時にやって、死す時に死せばよか」…とでも言うんじゃないかなと。「掻き取るのは、たやすか」とか言っているシーンもありますね。…と言いつつ、かなりしょうもない事で、斬りかかるとも思いますが(笑)
しかし、いくさで自分の確認をする必要がないから、その分、豊久は他のものを観て気持ちを振り分ける。だから彼は「優しい」(笑)意外と視野が広い(笑)ここらへんが、彼の異質さではないかと思います。何の悪気もなく「さぱっと死せい」とか言いますけどね(笑)何か気に触ったら「根切りじゃ」とか言い出しますけどね(笑)
「平和な日常など俺には無意味だ…もっと戦いを!」とか言っているキャラクターが、一周したら馴染まないはずの世界とコミットしたと言うか……「高度に精神統合してしまった狂人は、人格者と区別がつかない」と言うか…。いや、少佐は狂人と思えるでしょうけど、豊久はもう狂人とは思えないですよね。(実際、狂人じゃなく、作中であったように「死生観が違う」だけですけが)でも、彼らは根は同じ者のはずなんですよ(作者の分身という視点的にも)。その一周感が『愉楽しく』あります。
『ヘルシング』を、少佐を描ききらなかったら、島津豊久というキャラクターは生まれて来なかったでしょう。どろっどろ、グロッグロの戦闘狂が集い狂宴する『ヘルシング』の中から、眩いばかりの、それこそヒーローと見紛うばかりの主人公が現れた。爽やかな戦闘狂、優しい気配りできる戦闘狂というのは、ちょっとした痛快事です。
まあ、それくらい『ドリフターズ』の島津豊久は魅力的で、今のこの作者にしか描けないような独特のカッコ良さを持っています。今が読み時。
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