波間に漂うクラゲのように

a person with no definite ideas.

たたえる、いのる。だからうたう。

2006-01-21 | Weblog
「アヴェ・マリアは誰のが好き?」
「え」
 唐突な問い。
 アヴェ・マリア。
 聖母マリアを讃える歌。
 誰のって?
「バッハのとか。色々あるでしょ」
 記憶の糸を手繰ってみても“誰の”どころかメロディすら思い出せない。
 絶対、ひとつは歌ったことがあるはずなのに。
 首を傾げるぼくをよそに、その人は呼ばれて行ってしまった。
 後で、調べてみよう。
 そう思ったら少しだけ気が晴れた。
 けれど。
 どうして、そんなことを尋ねてきたのかな。
 何がきっかけだったのかな。
 それは、調べても分からない。
 いつか聞きたい、でも。
 そんな機会はきっとない。得られない。
 仕方ないから、自力思い出そうと試みる。
 アヴェ・マリア。
 多くの人が作った歌のうちの、どれかを。

思考が飛ばないように

2006-01-17 | Weblog
 とうとうCDプレーヤーが壊れた。
 唐突に止まって、うんともすんとも言わなくなった。
 これは買い替えるしかないなあ。
 色々いじり倒した末、ぼくはそう結論を出して財布の中身を思い出す。
 そこそこの物なら買えなくはない、けど余裕があるわけではないビミョウな財政状況。
 どうしようかなぁ。
 と、考えても仕方がないので、ぼくは音楽なしで作業を続ける。

 そういえば、銀行に振込みに行かなくちゃ。
 借りてた本を返さなくちゃ。
 それより前に、読み終わってないや。
 どうしようかな。
 どうしようかな。
 ………そんなこと考えてる場合じゃない、今はこれに集中。
 集中。
 集中。
 ……でも、これって続けてて意味ある作業なのかな。
 上手くいかなかったらどうなんのかな。
 時間は無駄になるのかな。
 ………そんなこと考えてる場合じゃないんだって!
 ぼくは頭を振る。
 集中できない。
 どうしてだろう?

 音楽が、ないから?

 元々ぼくは分散思考型だとは思っていたけれど。
 ひょっとして、音楽がいい具合に思考が飛ぶのを防いでくれていたのかなぁ。
 試しにポータブルCDを外部入力でつないで、音楽をかけてみる。

 さて。

 ……………

 気が付くと、CD1枚、演奏を終えていた。
 作業もそれなりに、進んでいた。

 明日は、電気屋に行かなくちゃ。
 安くていいから何かプレーヤーを。

慣れた頃には治るだろうけれど

2006-01-11 | Weblog
 痛。
 ぼくは左手を見た。
 性格には、左手の親指の、付け根あたり。
 昨日の夜にガラスの破片で切った場所。
 コップ立てがバランスを崩して倒れたときに思わず手を出してしまったのだ。
 風呂上りだったから、面白いくらい血がドバドバと流れ出て、ひょっとして偉いことになったかも、なんて思ったのだけれど。
 今は、薄い赤い線が走っているだけだ。血なんかとっくに止まっているし、ひょっとして皮膚もつながり始めているのかもしれない。
 でも、今みたいに何かを掴もうとすると急に痛くなる。忘れるなと言うように。
 ぼくはしぶしぶ、そっとズボンを掴んで、そろりそろりと床に落とす。
 ついでにパンツも掴めば良かった。
 軽く舌打ちして同じ動作をもう一度。
 そしてすべてを洗濯籠に放り込み、ぼくは風呂場の扉を開ける。
 シャンプー、しみそうだなぁ。
 何て厄介な場所を切ってしまったのだろう。
 意識を逸らすように、ぼくは考える。習慣通りに頭を洗いながら。
 親指の付け根。
 何かを掴むとき、必ず力が入る場所。
 何かを受け取る時にも必要な場所。
 だからケガをしたのだけれど。
 ぼんやりと、その時のことを思い出す。
 落ちていくガラスのコップを受け取ろうとしてしまったのだ。マヌケにも。
 だから破片が当たって、切れた。
 普段は鈍いぼくだけれど、どうしてだか落ちる物を受け取るときだけ勝手に体が動くのだ。
 隣の席の同僚が落としたボールペンを、床に落ちる前に拾い上げてしまったりとか。
 これで得をした覚えなどないのに、何でだろう。
 つらつら考えながら、最後のシャワーを浴びて風呂場を出る。
 ……痛っ。
 穿こうとしたパンツを持ち直し、ぼくはもう一度指の付け根を見た。
 さっきより赤色は薄くなっている。けれど間違いなくある傷。
 同じような失敗を、何度繰り返すのかなぼくは。
 自嘲気味な笑みを浮かべたぼくは、ふと思い出す。
 そういえば、手相が悪いって言われて、生命線の辺りをナイフで切ったヒトは誰だっけ?
 あれで本当に、手相が変わるのだろうか。
 傷が、手相の線に変わったりするのだろうか。
 このケガが、いっそ手のひらだったら答えが分かるのに。
 とことんつまらない。
 そう思いながら、ぼくはまた同じ過ちを犯した。
 ズボンは気をつけて穿こう、とさっきまで思っていたのに。バカだな。

物理的な拘束と、精神的な自由。

2006-01-08 | Weblog
 きみはハイヒールを蹴り上げるようにして脱いだ。
「よくそんなの履いて歩けるよね」
 感心するぼくに、きみは真っ赤な唇を歪めて笑った。
「これくらいで音を上げてなんかいられないわ」
 そう言いながら、タイトスカートをするりと脱いで、ストッキングを洗濯機に放り込む。
「ああ、そのスカートも歩きにくそうだ」
「まぁね」
 そしてきみは、クレンジングを浸したコットンで顔を拭う。
「化粧もね」
「歩きにくくはならないわよ」
「大変そうだ、という意味」
「そうね、楽ではないわね」
 コットンをゴミ箱に投げ捨てて、きみは洗面所に立つ。
 その後姿を、ぼくは見ている。
 今のきみは、さっきより身軽。
 でも。
「どうかした?」
「んー」
 ぼくは言いよどむ。
 人に聞く前に、自分で考えろ。
 それがきみの口癖だから、ぼくはまず思考を咀嚼する。
「ねえ」
「何」
「どうしてきみは、わざわざ歩きにくい格好をするの?」
 つるりとした顔を拭きながら、きみは言う。
「前、わたしが言ったこと覚えてる?」
「どの話」
「チャイナドレスは、元々拘束着って話」
 ぼくは記憶を辿る。
「中国の纏足とか、そういう話をしたときのかな」
「そう」
 それなら覚えている。
 纏足は、足が小さいほど美人といわれたころの風習、らしい。
 なので良家の娘は、足をきつく縛って大きくならないようにしたとか何とか。
 どれくらいの大きさだったかというと、自分では歩けないくらい。
「『男は動けない女が好みらしい』」
 確かきみはそう言った。
「そう、その話」
 チャイナドレスやアントワネットみたいな動きにくい洋服は、男たちのそんな願望が含まれているんじゃないかとか。
 だから今でも、男たちはそんな服に弱いのだろう、とか。
 そんな話。
「…えっと、きみは、自分から拘束着を着てる、ということ?」
 タイトスカートだってハイヒールだって、動きにくいという点ではチャイナドレスや纏足と変わらない。
「そうよ」
「どうして」
 きみはぼくを小ばかにするように、鼻を鳴らす。
「好きな格好をした女に、男は甘いものなのよ」
「媚びてるの?」
「ばっかねぇ!」
 きみは心底呆れたように腕を組んだ。
 ぼくはきみの考えが読めなくて、首をかしげる。
「本当に、わかんないの?」
 きみがそう言うから、ぼくは少し考える。
 まぁ、きみの性格からして“媚びる”だなんてあり得ない。
 じゃあ、一体なんだろう。
「降参?」
「うん」
 あっさり言うぼくに、きみは不満げな顔をしたけれど、もったいぶらずに教えてくれた。
「好きだからに決まってるじゃないの」
「?」
「こういう格好が好きなの。デザインも好きだし、それに」
「それに?」
 いつの間にかにきみは、部屋着に着替え終えていた。
 くつろいだ様子でお茶を注いで、ぼくの前に差し出しながら、晴れやかな顔で言ったものだ。
「洋服くらいじゃ拘束されないわって思うのが、快感なのよ!」
 まったくきみには敵わない。
 ぼくは深くうなずきながら、きみが淹れた温かいお茶を口に運ぶ。