京大俳句会 KYODAI HAIKU KAI

京都大学を拠点に活動している京大俳句会のオフィシャル・ブログです。

モダニズム俳句の系譜(正)―満州俳句史―    西田もとつぐ

2009-11-24 15:01:11 | Weblog
   モダニズム俳句の系譜(正)          
―満州俳句史―
                             西田もとつぐ
   
  一、海外俳句
 海外俳句詠のなかでも中国東北部(旧満州国)俳句史は特殊な環境に属する。戦前の海外俳句作品は海外旅行者詠、海外在住者の日本語による詠を云う。(筆者は外国語による短詩を俳句と認めないが、ここではその論拠は省略する)
 戦前の海外吟は少数の俳人の海外旅行吟を除くと平和的な移民によるブラジル日系人のブラジル俳壇と日本が植民地支配した朝鮮、台湾、中国東北部(旧満州国)における日本人による日本語の俳句活動がある。過去の植民地支配は二度と繰り返されてはならないし、この様な俳句活動は有ってはならない。
 現在、台湾では植民地時代に日本語教育を強制された高齢の中国人による日本語俳句会が行われ、作品の発表と、最近では「台湾歳時記」が刊行された。しかし、日本語修得者の高齢化が進むと日本語俳句会の存続に疑問符がうたれる。平和的な移民によるブラジル在住者吟も年月の経過とともに三世以下の日本語使用の衰弱化により同じ状況にある。

  二、満州国とは                 
 旧満州国は中国東北に位置し、東三省(遼寧=奉天(瀋陽)・吉林・黒龍江省)内モンゴル自治区の一部を国域とした。ここは中国最後の清王朝を成立させた満州族の故地である。本来満州とは民族の呼称であり地名を表示するものではない。現在、中国では旧満州国を偽満(ウェイマン)とよび国家の存在を認めない。さらに満州国成立の時期を東北ルンシェン淪陥期(自分の領土が敵の手に陥る)と表し、さらに満州事変より太平洋戦争終戦までの時代を東北淪陥十四年という。旧満州国の領域のうち関東州(遼東半島南西端)は日清戦争の講和条約により日本が清より租借権を得たが「三国干渉」により清に返還された。一方、ロシアは大連、旅順の租借権と南満州鉄道敷設権を清より獲得し、大連を「東洋のパリ」と目指した都市計画を進め、さらに不凍港旅順の軍港化を進めた。ロシアの南満州鉄道の経営の実権は、日露講和条約締結後、日本は関東州の利権、満鉄の経営権をロシアより引き継いだ。満州国建国後、日満議定書により関東州は満州国に帰属した。一九三一年(昭和六年)満州事変を引き起こした関東軍の意図は日本の満州領有にあったが、日本政府・軍部は当時の国際関係を顧慮して辛亥革命に否定的な守旧派政客を中心に満州の分離独立を強行した。一九三二年三月清朝の廃帝=ふぎ溥儀を元首とする満州国を発足させ、日本政府は同年九月これを承認した。国際連盟は中国の提訴により満州国の独立の自発性を否認したが日本は三十三年三月国際連盟を脱退し、以後国際的孤立を深めた。満州国は一九三四年帝政を布き、日本の指導監督下に産業開発と軍事建設を進めた。各政治機構の頂点は中国人(満州族)によって占められたが実権は日本人官吏が顧問として掌握した。軍事は満州国軍が制定されたが関東軍の支配下にあった。中国人の発言権はきわめて低く植民地傀儡であった。中国・朝鮮人の反満抗日武装闘争は建国初期より活発であり満州国をおびやかした。日中・アジア太平洋戦争期には資源と労働力の動員が強まり、日本人農業移民の国家的な土地収奪とともに中国人の不満を一層つのらせた。一九四五年八月九日ソ連軍侵攻により溥儀は退位して満州帝国は消滅した。
 満州国建国以前の中国東北部の日本人在住者は三十万人以上と云われる。日本人は満鉄沿線に守備隊(関東軍)に守られた鉄道付属地に居住していた。職業は関東庁職員、満鉄及び関連会社社員、商工業者、教員、僧侶、軍人などである。国籍法の不備なため反日意識の浸透する中で満州国への国家意識は稀薄であった。公官庁、満鉄職員の採用に内地の公官庁や企業より出向の形を取ることが多く、また満州と内地を数年ごとに行き来することが多かったようで、日本人の稀薄な土着性に輪をかけた。
 一九三一年(昭和六年、満州事変勃発)の頃のハルビン在住の日本人は三八〇〇人であったが事変後には急増し一九三四年(昭和九年)ハルビンの総人口は五〇〇、五二六人に急増した。内日本人は一五、六九三人に急増し、他、中国人(漢族、満州族、回族、蒙古族)朝鮮人、中華民国人、ソ連国籍、白系露人(無国籍露人)という複雑な民族構成であった。日本人農業人口は一九二九年(昭和四年)一五〇〇人位であったが一九三二年第一次開拓農民移住以降の農業移民は二十三万人―二十七万人に膨れ上がった。これは在満日本人総人口の五分の一であるが、それまで満鉄付属地に居住した日本人は、農村部に増加した。満州国の建国のスローガンとして「王道楽土」「五族共和(日・漢・満・朝・蒙)」が謳われたが、その土地は中国農民の既耕地を奪取したものであり、移転を強制された中国農民の反発は強く、当初より武装し、軍隊に保護された武装移民であった。文芸や俳句分野では、彼等の短い満州農村生活は冬は極寒の気候、劣悪な生活条件、隔離された農村生活であり、日本人農民は到底俳句にまで手を伸ばす余裕は無理であった。満州の俳句活動も概ね満鉄沿線の都市部に限られていた。

  三、満州の都市景観
 ハルビン―ロシア人が極東のパリを目指して建設した軍艦とアールヌーヴォー建築の国際都市。
 瀋陽(奉天)―清朝の故地であり中国と日本が都市づくりを競った。
 大連―中国東北部の海の玄関、日本人が理想都市建設を夢見た。
 長春(新京)―満州国の首都として計画されたバロック風の都市計画を実行した。
 これらの都市は日本には見られない都市計画である。アカシア並木の放射路、地平線に沈む真っ赤な太陽など西欧風のエキゾチックな雰囲気の漂うコスモポリタン都市であった。 
 一九二二年に大連に生まれ終戦後の一九四三年まで大連に青春期を過した清岡卓行(詩人、作家)は、

   円(まろ)き広場

  わがふるさとの町の中心          l
  美しく大いなる円き広場
  そは 真夏の正午の
  目覚めのごとく
  十条の道を放射す
  すなはちまた そのままにて
  十条の道を吸収す
  おお 遠心にして求心なる

  ふるさとの子たちは
  幼き日よりの広場に
  はじめてめまひし佇む
  意識の円き核の
  かくも劇的なる
  膨らみと同時の縮まりを
  かって詩にも 音楽にも
  恋にも絶えて知らざりき(以下略)
 
 と大連の風景を読んでいる。コスモポリタン的なエキゾチックな町並みのなかの、放射路の街路はただエキゾチックな風景に止まらず文学者達の都市観のコペルニクス的な転回であった。後に登場する俳人桂樟蹊子はその大陸時代の作品を含む処女句集の名を『放射路』と名付けた。

  放射路の未は消えつつただ夏野    桂樟蹊子

 在満の俳人、大場白水郎は、

  放射路のいづれを行くも凍て死なむ  大場白水郎

 と詠じている。これらの環境は満州在住の文学者達の都市観を大きく変えるものであり、大連、ハルビンのモダニズム文学形成の土壌となるロケーションであった。
 このような都市景観とともに満州国の建設時から「五族協和(日・漢・満・朝・蒙)」「王道楽土」が謳われた。これは日本の植民地満州国を支配する空虚なスローガンであった。社会主義ソ連、敵対する中華民国と国境を接した満州国では関東軍、官僚の思想統制は厳しかったが、本国を離れ広大な土地に五族のほかロシア人も混在する社会では太平洋戦争の勃発時まではある程度のリベラルな雰囲気があった。そこに京大俳句事件の関係者が逃亡してきたり、満鉄調査部では日本国内の左翼運動の転向者が雇用され実証的な調査研究により満州国の実態を明らかにした。また理想と現実の政策の格差は余りにも多いが岸信介らを初めとする少壮官僚や軍部にも閉塞的な日本国内の状況を打開するため「王道楽土」の国家を作る実験的な国家形成のモデルと考えた一種の理想主義が存在した。しかし、この方向は必然的に植民地国家、傀儡国家の形成の道であった。また植民地支配によって大きな利潤を求めようとする大企業から末端では投機的に一攫千金を求め「僕も行くから君もこい、狭い日本にゃ住みあいた、浪たつ彼方に支那がある。支那にゃ四億の民が待つ」(馬賊の唄)まで混沌たる状況であり、そこに相対的な自由があった。

  四、モダニズム文学の発祥
 日清戦争後、中国東北部に日本人定住者が増加するとともに、詩・俳句・短歌などの文学集団が興ってくる。ロシア人が建設した大連、ハルビンはアカシア並木の街路、アールヌーヴォーの建物に西欧風のエキゾチックな雰囲気が漂っていた。日本人、中国人、ロシア人住居が混在するコスモポリタン都市であった。
 大正末期、この大連に詩人安西冬衛を中心とする文学者集団「亜」が興った。奈良出身の冬衛は父の転住とともに大阪府立堺中学に入学した。さらに大正八年、父に従い大連に渡った。彼は少年時代ボート部員として活躍するスポーツマンであったが病により隻脚を失い文学に転じると文才を発揮した。彼は「文学のデッサンとしての俳句」と称し句作にも力を注いだ。大正十三年、冬衛は北川冬彦、滝口武士(後に尾形亀之助、三好達治らが参加)たちと大連市桜花台亜社の冬衛の自宅に詩誌『亜』を創刊した。『亜』は昭和二年まで通刊三十五冊を発行した。『亜』は日本近代詩モダニズムの先駆的な詩誌として知られる。有名な冬衛の「春」、

  てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた

 は『亜』に発表された作品である(初出は「間宮海峡」)。同誌には他に俳句作品を発表している。この短詩「春」は日本のモダニズム文学の創始として知られる。ここで注目をしなければならないのは「韃靼」という言葉である。最初はモンゴル民族のタタール族を表す言葉であるが後にはモンゴル民族全体を示す言葉である。そこに北方民族に対するエキゾチックな神秘的な憧憬があった。
 冬衛は渡満前の大正七~八年に堺の新聞人、俳人の山本梅史の創刊した「堺日報白鳥俳壇」に投句して梅史の指導を受けていた。

  にじむ血を吸ふて薊に佇にけり  冬衛

 大連より帰国して堺に住みついた冬衛は詩作の傍ら、特定の結社に属さず自由に句作をつづけた。彼の俳句作品は約四百五十句を数える。山本梅史は新聞人、俳人として広い視野にたち昭和三年俳誌『泉』を創刊して新興俳句の同調の姿勢を貫いた。『亜』の同人滝口武士は冬衛の帰国後も『大連通信俳句』の中心として関東州の俳誌統合に至るまで同誌を中心に活躍した。
詩誌『亜』は日本近代詩のモダニズム詩と詩論の先駆的役割をはたした。
 昭和俳句革新の旗手の一人山口誓子は、

  郭公や韃靼の日のい 没るなべに
  哈爾濱の映画みじかし凍る夜を
  木々枯れてギリシヤ希臘正教の鐘とほる

 と「韃靼」をはじめ北の世界を句材としている。誓子は京都生れ、十一才で母を失うと母方の祖父に従い樺太に移住し、中学途中で京都に戻った。この少年時代の北方の風物は誓子に強烈な印象を投げかけた。反ホトトギスの旗幟を掲げて水原秋桜子とともに立ち上がった誓子の新しい素材は都市描写、北方の風物、万葉語、連作俳句などの試みであった。「異郷」に故郷を求めるのである。誓子の第一句集『凍港』は勿論、第二句集『黄旗』(満州国旗)は彼の北方志向が見られる。彼は幾度か満州を訪れたが短い春、秋の季語には手を焼き「満州季語は全部冬にすれば良い」と放言した。句集『凍港』の時期は満州国建国と影を重ね合う時代であった。

  五、大連アカシヤ俳句会  
 同じ頃、大連市松山町五番地二号の「アカシヤ俳句会」が合同句集第一輯『三昧(ざんまい)句帖』(大正十三年)、第二輯『娘々廟(ニャンニャンミョウ)』(大正十四年)を発行している。「アカシヤ俳句」の創立年代は判らないが、大正十四年までに会誌『アカシヤ』を六十四号まで発行しているから創刊後五、六年は経過していたと思われる。『三昧句帖』は編集兼発行人は小林俊夫(鳥巣人)、表紙字は河東碧梧桐の染筆である。
 同書の「扉に書く」に「本書は大正十二年十一月及び同十三年八月の両年次、河東碧梧桐氏の来遊に際し、わが満州各地に於いて修せる俳三昧、抄句四百六十四句、すなはち第一部二百四十七句、第二部二百十七句を収録する」とある。河東碧梧桐の来満を歓迎した在満自由律俳人が彼をかこみ、大連、遼陽、撫順、鞍山、瀋陽の俳人宅、ホテルで句会を催した記
録であると記されている。

  泳ぐ人影もない磯をあるいてしまう    碧梧桐
  カナリヤのをす借りて来た手の汗     波南女
  早咲きの萩折つてきただまつて置く    古草郎
  秋茄子の花の照る軒べにまはる      鳥巣人             

 他に六人が参加している。
 「アカシヤ会句集」第二輯として『娘々廟』がある。この集の扉に、

  娘々廟の裏山の紅いばら頭にのせた 羊歯白
  序曲
  よみ捨てた小さな句の卒塔婆(ソトバ)
  灼熱と結氷の地にうち建てられし卒塔婆
羞恥と悔恨と愧(うら)みのなかなる卒塔婆      
  後代人はもういちど満州の「楽浪(ラクロウ)」を掘れ
  その中のこのいと小さき卒塔婆をも掘れ
  合掌がすべてのものを永遠の美に近づかしめてくれるだらう。

 と序句と序詩が掲げられている。この序詩は後の『韃靼(ダッタン)』創刊号に掲げられた序にも見られる満州民族の歴史を回顧し、さらに大陸へ土着せんとする新しい文学への志向を掲げている。第二集の題名となる「娘々廟」は道教の子授けの神として中国各地に祭られ信仰を集めている。関東州では大石橋の娘々廟が知られ祭日には各地から参詣者がある。

  猫に受胎のさびしくも暮春の風ふけり 梅野米城
  鍛冶屋の息子の凧に尾のない父なし子 西津久江
  母がねむけそゝる片言をうけこたへする 宮川観狭空
   長男千壽夫夭折す
  水ひとくちふくみ椅子に支へる身  平井羊歯白
  初秋の風吹く母の髪匂はず  飯田土の精
  空広ければ実るもの果てまで赤し 加藤郁哉
  掌の百舌の子が予備兵をゆつたりさせる 桜川波南女
  旅にたちたくカナリヤの子を見てゐる 小村鳥巣人

 当時、福岡県久留米出身の梅野米城(本名 実)が撫順炭坑技師長、満鉄理事を歴任していた。在満の碧派俳人の中心となり、碧派俳人として碧梧桐渡満時の経済的援助を担う有力な門下であった。この頃、満鉄では満鉄事業を内外へ宣伝するため有名文化人、作家などを満州に積極的に招聘しては宣伝に努めた。梅野は渡満後、一時内地に帰国したが再渡満している。
 『三昧句帖』『娘々廟』の作品群を比較すると『三昧句帖』は碧梧桐の句風の影響が色濃いが、『娘々廟』は碧梧桐の句風からやや離れて硬質の大陸的な厳しい外光に輝いている。自由律俳句の句形を受け継ぎながら、満州の乾燥した大地にひびく高梁の葉づれを聞く思いがする。碧梧桐の写実や象徴性とは異なった世界である。水原秋桜子をはじめ初期の新興俳句は洋画の印象派手法を取り入れた。これらの高原俳句や都会的な感覚の作品は「人工的な外光」である。これに対して『三昧句帖』『娘々廟』には中国大陸の風土に根付く大陸的な硬質の外光であり、日本的な抒情とは隔絶した風光である。また作品の底流にはニヒリズムに近い寂蓼感が漂っている。「わび」「さび」や哀愁と異なる異郷に生活するコスモポリタンのノスタルジアである。
 『三昧句帖』巻末に八十名余りの会員名簿を掲げている。会員は大連を中心に満州各地にわたり、半数以上が満鉄、満州国関連の国策会社の社員である。その他、銀行員、僧侶、官吏、医師などの職種である。四人の女性の名があり会員の妻子であろう。この職業分布をみると都市部中心で、ホワイトカラーが多く農民は見られない。満鉄、満州国官僚のみならず、満州の基幹産業、商業の中枢を日本人が掌握していた。なかでも軍隊を所有する企業といわれる満鉄の強大な支配は他を抜んで出ていた。同書後記の「ネグトン社」(遼陽)、「石の昧社」(瀋陽)、「撫順俳句会」(撫順)、「赭土社」(安東)などは碧梧洞門の自由律派句会である。後に在満の俳人武田勝利は「碧門の梅野米城が(大連に)ゐた大正九年~十三年頃には碧色がゝつたが、自とホトトギス色に戻りはじめ、昭和四年春、虚子来満がその染めあげ役を果したと記している。

  六、『平原』の発刊
 内地における俳壇の主導権を握ったホトトギス派は虚子の二度目の満州旅行により満州俳壇の主導権を握った。昭和四年四月の虚子渡満を機に三溝沙美(さみぞさみ)(満鉄・日満商事理事長)を中心にホトトギスの海外僚誌『平原』が創刊された。高浜虚子の題字と近詠、岩木躑躅・阿波野青畝・野村泊月・大橋桜坡子・吉岡禅寺洞・田中王城・富安風生が諸家近詠句をよせている。池内たけし・皆吉爽雨・鈴鹿野風呂・高野素十・山口誓子・日野草城が祝辞を寄せている。雑詠選者には岩木躑躅、課題句選者は上記の他、五十嵐播水・本田あふひ・田村木国・山本梅史・楠目橙黄子・後藤夜半・水原秋桜子・鈴木花蓑・杉田久女らが交代で当るというホトトギス系有力俳人の大結集の豪華な顔ぶれであった。投句者は関東州の大連、遼陽、撫順を中心にハルビン、奉天(瀋陽)、大石橋、京城、釜山、内地の各地に及んでいる。
 『平原』は隔月刊が守られ発展したが、『平原』の最終号には新京、牡丹江、チチハル、龍門、北京、錦州、羅津など関東州から北支にまで投句者が広がっている。また、会員の出征によるものか、北支の部隊よりの投句がある。最終号の雑詠選者は久米幸叢、課題句選者は吉田週歩・三木朱城・三溝沙美・江川三昧と変化している。また安義ホトトギス句会とは中国東北部の安東(丹東)と鴨緑江をへだてた新義州のホトトギス派の合同句会であり、遠藤梧逸、原田青児、三溝沙美、図師星風などが参加していた。大連では三溝沙美らが中心として「ホトトギス」句会が開かれていた。
 『平原』発刊の底流には内地の碧派の衰退とホトトギス派の隆盛という内地俳壇の縮図があったが、一方では日本の植民地政策に加担した国民の「北方回帰」「満州ロマン」の波も否定できない。俳句界も新しい時代の新しい素材を求めていたのである。
                    「モダニズム俳句の系譜(続)」に続く

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