(一)
中谷寛章、本名宏文。1942年生まれ、73年12月逝去。享年31歳。
この記号的な表示は、中谷が生き急いだ時代と彼の生きざまを何ひとつ伝えてはくれない。さらに詳しい記号を並べてみよう。
62年京都大学経済学部入学、京都大学新聞社入社、64年第2期「京大俳句会」結成と同時に入会、65年詩誌『蝕』創刊、67年俳句誌『渦』(赤尾兜子主宰)入会、69年渦賞準賞受賞、74年京大俳句28号、渦82号中谷寛章追悼号発行。
これらの記号群から彼の創作活動の軌跡をある程度読み取ることができよう。
75年6月、筆者は旧知の友人とともに、中谷寛章遺稿集『眩さへの挑戦』を刊行した。その梗概は次のごとくである。
1、詩篇 街はぼくらの街なのか
2、評論篇 ロマンの考察
3、俳句篇 アラブ以後
4、俳論篇 「不安」への憧憬
今や我が国の代表的詩人のひとりとなった清水昶が跋を寄せ、詩誌『蝕』の共同代表で、2008年逝去した朋友倉澤襄が解説を書き、昨年大佛次郎賞を受賞した石川九楊が装丁を担当している。私家版として発行されたものとはいえ、その体裁ばかりでなく内容からして現在でも好事家の垂涎の稀書である。
中谷寛章が京大に在籍していた時代、その後十年にも満たない創作活動期間は、果たしてどんな時代であったのか。『遺稿集』の目次からも伺えるように、彼の創作姿勢は、彼が生きた時代の沈滞と高揚の激しい波動との張りつめた緊張の中にあった。それだけに彼の作品の理解には当時の時代状況と支配的思想状況を概観することが欠かせない。
(二)
62年から73年という時間は、安保闘争から全共闘運動を経て、反体制的な運動が霧散した十余年であった。戦後民主主義を旗印とした保守、革新を問わずすべての社会思想がさまざまな場面で検証され、新しい磁場を見つけることができないまま埋もれていく過程でもあった。その一方で、我が国の経済社会は、田中角栄の『列島改造論』に象徴されるように、高度成長を持続し、3C(カー、クーラー、カラーテレビ)の消費革命を経て、世界第二の経済大国に至る道を清めた、そのような時代であった。
このような時代状況の中で、戦争と天皇制からの「解放感」に耽溺した楽天的な戦後思想の検証が急速に進み、現代までその名を残す思想の巨人、吉本隆明、谷川雁が大きな足跡を刻んだ。詩の世界でも鮎川信夫、田村隆一等の『荒地』グループが既存の文学的小コスモスから飛躍を図ろうとしていた。
このような大状況の推展のただなかにあって、京都とりわけ京大の小状況はどうであったか? 2009年、彼の朋友倉澤襄の追悼集に筆者は次のような文を寄せた。
倉澤襄(と中谷寛章)は、一九六二年京大経済学部に入学した。二人とも京大新聞社に入部し、……当時私はよんどころない経緯から教養部自治会を預かり、六〇年安保後の沈滞の重苦しい空気が漂っている中、活動の手がかりを探りかねていた。……秋になり、……突如政治的高揚が訪れた。いわゆる「大管法闘争」である。全学投票により「大学閉鎖」を敢行しようとしたのである。後の全共闘運動とは異なり「民主的な手続き」により閉鎖を行おうとし、挫折した。……この運動を特徴づけた「形而上学的な高揚」と「戦術的ラディカリズム」は、その後の私たちの思潮だけでなく日常意識さえも濃厚に色づけることとなった。……『蝕』はこのような時代思潮の中で誕生し、絶命した。……倉澤襄も中谷寛章も、現実世界との距離を測りかねて自我の苛立 ちを「表出」するという近代詩の危うい陥穽を回避し、鮎川、田村等の「荒地」の肯定的、一元的な個体表現……に同伴することもなく、何よりも自我をも包摂する「状況」との対峙の視線を大切にした。 (「『蝕』とその時代」)
当時京大では、『学園評論』『状況』といった評論誌、思想誌が相次いで発刊され、十一月祭には、吉本、谷川をはじめ、埴谷雄高、大岡信、谷川俊太郎等々、気鋭の思想家、詩人が陸続として講演会の壇上に上がった。このような中で第二期『京大俳句』も創刊された。この第二期『京大俳句』は、悲劇的な結末を迎えた第一期『京大俳句』の神話的伝統を受け継ぎつつ、桑原武夫の「第二芸術論」に対して明示的な立場を示すことができずにいた俳壇に対して一線を画そうとする苦闘を内在させていた、と仄聞する。
彼はこう語っている。
戦後の明るい状況はかなしさと反抗の相貌をもちながら詩を書くことができる詩人と 詩を語ることができる批評家を多く産み出したが詩をおこなうことができる詩人は光 の膜裏遥かにかくされたままだ。 (「反逆的ロマンの断章」六九年)
全共闘運動により、東大の入試が中止になった年の3月、京大のバリケードの中で新入生に向けて配布された雑誌『反逆への招待』に掲載された一文であり、対象とされているのは詩人たちであるが、彼の『京大俳句』への関わりも同一の地平にあると思われる。「俳句をおこなうことができる俳人」と読み替えることも可能である。
薄墨色に支配された二一世紀の現代にあって、同じ命題が有効であるか、敢えて問わないでおこう。
(三)
ところで『遺稿集』の評論篇では「日本浪漫派」中でもそれまで取り上げることが少なかった『コギト』の創立メンバーのひとりである松下武雄に対する論究が中心を占めている。俳論篇は、新興俳句や社会性俳句に対する批判的意識をベースとした「俳句史」の方法に対する試みが行われている。40年前の論稿であるけれども、その内容は旧弊を感じさせない。それどころか現代の批評意識の衰弱をさえ逆照射している。
中谷寛章とは何であったか、を知るためには、その作品を読むことが大きな手がかかりになるであろう。『遺稿集』には、『蝕』に発表された詩篇のほか、65句の俳句が収載されている。筆者の独断で秀作を10句再録する。
荒馬曳かれ煤煙の街稲光る
螺旋階段降りれば蹴鞠少女の渚
不意に醒めかなしきまでの遠花火
女と訣れ解体屋敷の血の絵みる
泳ぐおいら俺に清少納言の月やんわり
冬眠すわれら千のめ 眼球売り払い
クレーンに抱かれ兇器のようにレモン光らす
月ひらひら大いか烏賊生捕る幽霊船
月の野の大樹挽き曳くななしの権兵衛
アラブ以後柳絮ひたふるいのちさ 荒ぶ
「京大俳句会会報」2号(2010.4)所収
中谷寛章、本名宏文。1942年生まれ、73年12月逝去。享年31歳。
この記号的な表示は、中谷が生き急いだ時代と彼の生きざまを何ひとつ伝えてはくれない。さらに詳しい記号を並べてみよう。
62年京都大学経済学部入学、京都大学新聞社入社、64年第2期「京大俳句会」結成と同時に入会、65年詩誌『蝕』創刊、67年俳句誌『渦』(赤尾兜子主宰)入会、69年渦賞準賞受賞、74年京大俳句28号、渦82号中谷寛章追悼号発行。
これらの記号群から彼の創作活動の軌跡をある程度読み取ることができよう。
75年6月、筆者は旧知の友人とともに、中谷寛章遺稿集『眩さへの挑戦』を刊行した。その梗概は次のごとくである。
1、詩篇 街はぼくらの街なのか
2、評論篇 ロマンの考察
3、俳句篇 アラブ以後
4、俳論篇 「不安」への憧憬
今や我が国の代表的詩人のひとりとなった清水昶が跋を寄せ、詩誌『蝕』の共同代表で、2008年逝去した朋友倉澤襄が解説を書き、昨年大佛次郎賞を受賞した石川九楊が装丁を担当している。私家版として発行されたものとはいえ、その体裁ばかりでなく内容からして現在でも好事家の垂涎の稀書である。
中谷寛章が京大に在籍していた時代、その後十年にも満たない創作活動期間は、果たしてどんな時代であったのか。『遺稿集』の目次からも伺えるように、彼の創作姿勢は、彼が生きた時代の沈滞と高揚の激しい波動との張りつめた緊張の中にあった。それだけに彼の作品の理解には当時の時代状況と支配的思想状況を概観することが欠かせない。
(二)
62年から73年という時間は、安保闘争から全共闘運動を経て、反体制的な運動が霧散した十余年であった。戦後民主主義を旗印とした保守、革新を問わずすべての社会思想がさまざまな場面で検証され、新しい磁場を見つけることができないまま埋もれていく過程でもあった。その一方で、我が国の経済社会は、田中角栄の『列島改造論』に象徴されるように、高度成長を持続し、3C(カー、クーラー、カラーテレビ)の消費革命を経て、世界第二の経済大国に至る道を清めた、そのような時代であった。
このような時代状況の中で、戦争と天皇制からの「解放感」に耽溺した楽天的な戦後思想の検証が急速に進み、現代までその名を残す思想の巨人、吉本隆明、谷川雁が大きな足跡を刻んだ。詩の世界でも鮎川信夫、田村隆一等の『荒地』グループが既存の文学的小コスモスから飛躍を図ろうとしていた。
このような大状況の推展のただなかにあって、京都とりわけ京大の小状況はどうであったか? 2009年、彼の朋友倉澤襄の追悼集に筆者は次のような文を寄せた。
倉澤襄(と中谷寛章)は、一九六二年京大経済学部に入学した。二人とも京大新聞社に入部し、……当時私はよんどころない経緯から教養部自治会を預かり、六〇年安保後の沈滞の重苦しい空気が漂っている中、活動の手がかりを探りかねていた。……秋になり、……突如政治的高揚が訪れた。いわゆる「大管法闘争」である。全学投票により「大学閉鎖」を敢行しようとしたのである。後の全共闘運動とは異なり「民主的な手続き」により閉鎖を行おうとし、挫折した。……この運動を特徴づけた「形而上学的な高揚」と「戦術的ラディカリズム」は、その後の私たちの思潮だけでなく日常意識さえも濃厚に色づけることとなった。……『蝕』はこのような時代思潮の中で誕生し、絶命した。……倉澤襄も中谷寛章も、現実世界との距離を測りかねて自我の苛立 ちを「表出」するという近代詩の危うい陥穽を回避し、鮎川、田村等の「荒地」の肯定的、一元的な個体表現……に同伴することもなく、何よりも自我をも包摂する「状況」との対峙の視線を大切にした。 (「『蝕』とその時代」)
当時京大では、『学園評論』『状況』といった評論誌、思想誌が相次いで発刊され、十一月祭には、吉本、谷川をはじめ、埴谷雄高、大岡信、谷川俊太郎等々、気鋭の思想家、詩人が陸続として講演会の壇上に上がった。このような中で第二期『京大俳句』も創刊された。この第二期『京大俳句』は、悲劇的な結末を迎えた第一期『京大俳句』の神話的伝統を受け継ぎつつ、桑原武夫の「第二芸術論」に対して明示的な立場を示すことができずにいた俳壇に対して一線を画そうとする苦闘を内在させていた、と仄聞する。
彼はこう語っている。
戦後の明るい状況はかなしさと反抗の相貌をもちながら詩を書くことができる詩人と 詩を語ることができる批評家を多く産み出したが詩をおこなうことができる詩人は光 の膜裏遥かにかくされたままだ。 (「反逆的ロマンの断章」六九年)
全共闘運動により、東大の入試が中止になった年の3月、京大のバリケードの中で新入生に向けて配布された雑誌『反逆への招待』に掲載された一文であり、対象とされているのは詩人たちであるが、彼の『京大俳句』への関わりも同一の地平にあると思われる。「俳句をおこなうことができる俳人」と読み替えることも可能である。
薄墨色に支配された二一世紀の現代にあって、同じ命題が有効であるか、敢えて問わないでおこう。
(三)
ところで『遺稿集』の評論篇では「日本浪漫派」中でもそれまで取り上げることが少なかった『コギト』の創立メンバーのひとりである松下武雄に対する論究が中心を占めている。俳論篇は、新興俳句や社会性俳句に対する批判的意識をベースとした「俳句史」の方法に対する試みが行われている。40年前の論稿であるけれども、その内容は旧弊を感じさせない。それどころか現代の批評意識の衰弱をさえ逆照射している。
中谷寛章とは何であったか、を知るためには、その作品を読むことが大きな手がかかりになるであろう。『遺稿集』には、『蝕』に発表された詩篇のほか、65句の俳句が収載されている。筆者の独断で秀作を10句再録する。
荒馬曳かれ煤煙の街稲光る
螺旋階段降りれば蹴鞠少女の渚
不意に醒めかなしきまでの遠花火
女と訣れ解体屋敷の血の絵みる
泳ぐおいら俺に清少納言の月やんわり
冬眠すわれら千のめ 眼球売り払い
クレーンに抱かれ兇器のようにレモン光らす
月ひらひら大いか烏賊生捕る幽霊船
月の野の大樹挽き曳くななしの権兵衛
アラブ以後柳絮ひたふるいのちさ 荒ぶ
「京大俳句会会報」2号(2010.4)所収
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます