ちからをぬいて気楽にいきたい

たま~に本や映画の感想,雑感を書き記してますが,よく長期で留守にしています。

佐賀のがばいばあちゃん

2007年02月18日 | 文学
1月4日に放送された「佐賀のがばいばあちゃん」(フジテレビ系列)を録画したままにしていたのだが、昨日ふと思いたって見てみた。そうしたら、それが予想外、期待以上にとてつもなく面白く、たちまち「がばいばあちゃん」のとりこになってしまった。

もともと島田洋七氏の著による「佐賀のがばいばあちゃん」が大ベストセラーになっていることは知っていたのだが、昔の貧乏話は嫌だなあという勝手な思いこみで敬遠していたのだ。それが、休日の昼下がりちょっとだけ見てみようかなという軽い気持ちから始まって、ドラマを観たあと、外出から帰ってきた妻にも勧め、妻が観るときに一緒にまた観てしまい、結局同じ日に2度観てしまった。そして同じ場面での泣き笑いとなってしまった。泣くのはけっして悲しくて泣くのではなく、心温まるエピソードに思わずほろっとさせられるのだ。また笑う場面も、お笑い的なノリの笑いではなく、ほんとに心の底から楽しくて笑ってしまう。2回目では新たな発見もあったりで改めて観てよかったなあと思ってしまった。

ドラマ版では、がばいばあちゃんに泉ピン子が扮していたのだがぴったりのはまり役だった。島田洋七の子供時代を演じる子供(2人)も好演だった。脇役陣も芸達者な役者が揃っていた(駅員役のはなわは駅帽をかぶっていたので一度目は気づかなかったのだが^^;)。

インターネットで検索してみると、昨年は劇場版が制作されており、外国の映画賞を受賞したり、台湾でも大ヒットになっているとのこと。劇場版の方は、吉行和子がばあちゃん役。こちらの方もいつか観てみたいと思う。

早速きょうは、近所の本屋に走り原作本を探してみたのだが、あいにく品切れで、シリーズ作の「がばいばちゃんの笑顔で生きんしゃい!」「がばいばあちゃんの幸せのトランク」を購入。たちまち2冊とも読み終えてしまった。貧乏な話をこんなにも明るいタッチで語れるというのは、作者の力量にもよるだろうが、洋七氏のばあちゃんの人柄が本当に魅力的なものだったのだろうなあと感じさせられる。

からっと明るく語られる「がばいばあちゃん」の話や数々のエピソードは貧乏とか金持ちとかいう前に、人間が生きるのに大切なものは何かということを考えさせてくれる。もちろんお金は必要だ。お金が無いと人は生きていけない。まじめな話として貧乏はつらいものだ。しかし、人間なにごとも明るく前向きな気持ちが一番、思いやりの気持ち、本当の優しさを忘れてはいけないのだなあと、それとなく気づかせてくれ、全然押しつけがましく感じることなく、読み手や観客の誰もに自然に生きる勇気を与えてくれる。がばいばあちゃんのことを知らない人には、本、映画、ドラマのどれからでもいいので接してみて欲しいと思う。

コッピー

2007年02月15日 | Weblog
近所のコンビニに気になるものが置いてあった。それが写真のコッピーだ。携帯電話で撮影したのでちょっと写りが悪いが、小さな魚が2匹泳いでいる。ずっと欲しいなあと思っていたのだけれど、きょう思いきって買ってみた。

家に持って帰った当初は落ち着かないふうにしていたが、しばらくすると普通に戻ったみたいにしている。狭いビンの中でかわいそうだなぁという思いもあるが、ずっと眺めていると心が和んでくるようだ。餌やりは3日に1度程度、水替えは1ヶ月おきでいいとのこと。可愛がってやってなるだけ長生きさせてやろうと思っている。

以下は、添付されていた飼育説明書からの抜粋です。

学 名:タニクシス・アルボナベス
大きさ:成魚で3~4㎝
商標名:コパーフィン(コッピー)
寿 命:3~4年
原産地:中国広東省白雲山周辺

容器の中はバイオスフィア(生物圏)が形成されています。コッピーと水草がO2とCO2を交換し合い、コッピーの排泄物は、底砂に付着している硝化バクテリアが分解し、水草に吸収され、自然の浄化作用が行われており、このシステムは「小さな地球」と言えます・・・

トイレ考

2007年02月12日 | Weblog
土曜の夜、TBSの「ブロードキャスター」を見ていたら、トイレの特集をやっていた。途中から見て、また録画もしていなかったので、覚えているところだけ列挙してみよう。以下、①~④の番号は僕が説明しやすいようにつけたものだ。

①アンケート結果によると、自宅では洋式だが外では和式のトイレを利用したいという人が、年々減ってはいるものの未だ2割近くいる(※僕もその一人)

②公衆の洋式トイレの便座によくひびがはいっている→どうやら便座の上に乗っかって用を足している人がいる。街頭インタビューでも、そう答えた人がいた。しかもその女性はヒールを履いたままとのこと!

③外国ではどうか?
イタリアの場合
・公衆トイレには便座がついていない。
・腰を浮かして用を足している。
・どうしても便座が必要な場合のために取り付け型の便座がある。
・アパートなどに入居する際、便座も新しくする。そのため、引っ越し祝に便座のプレゼントも多い。
・公衆トイレ備え付けのトイレットペーパーを使うなどとんでもない。
英国の場合
・公衆トイレはきれいだが、利用する人はほとんどいない。
・公衆トイレで用を足すとはとんでもない!自宅に帰るまで我慢する。

④京都の嵐山の最新型の公衆トイレ
一度利用されるたびに、利用済みの便座が壁の内側に入っていき、代わりに壁の内側で自動洗浄された便座に入れ替わる。

まず、①番の結果には僕も同感。洋式のトイレにはどうしても抵抗がある。それでも最近和式のトイレは少なくなってきているのも事実だ。
次に②番。これはひどい!それでもどうしてもっていう人はせめて靴は脱げ!と言いたい。
③番の外国の場合(といってもイタリアと英国の2カ国だけで、かつサンプル数も少ないが)。これは意外だった。洋式トイレというくらいだから、外国では当たり前に利用されているのかと思いきや、けっこう抵抗感があるのだろうか。かえって日本の方が意外と鈍感なところがあるとの印象を受けた。
④番目。これは日本全国こうなってほしいものだが、なかなか難しいだろう。

最近よく目にするのは、消毒用液体がトイレに備え付けられていて、それで便座を拭けるようになっている。これはいいアイディアだ。どこもそうなってほしい。

あと余談として、これはヤフーの記事(『読売ウイークリー』の記事紹介)で最近見かけた記事だが、最近男性が座って小用を済ませる人が増えてきたとのこと。これはいい傾向だ。僕は当然座ってする派だ。立ったままするなどもってのほかだ。

たかがトイレ、されどトイレ。人間が一日のうち何回も利用するのだから、できるだけ清潔な快適空間であってほしいものだ。

いきつけの店で。

2007年02月11日 | Weblog
以前もこのブログで話題にした昼食でよく行く和食の店で、その日は料理人の旦那さんだけが忙しそうにおしぼりやお茶の用意などから一人でやっていた。奥さんはどうしたんだろうな?と気になりつつ聞くのもなんだなと思い、黙って食事をした。
ところが次の日も旦那さんだけだった。どうしたんだろうなあ?とかなり気になりだした。が、ちょっと遠慮して、そのことについては触れなかった。病気?夫婦げんかで家出?

次の日、気になったので3日連続でその店に。その日もいない・・・。この3日間、気のせいか客の入りも少ないような気がする。

さすがにこれは聞いてみようと思った。お勘定をするとき、「ここしばらく奥さんをおみかけしませんね?」と言ってみた。そうすると「今週はA県の実家に帰ってるんですよ。実家が離れていると何かと不便でいけませんねえ」との返事であった。1週間ほどで帰ってくるとのこと。

な~んだ。実家に帰っている理由は知らないけれど、最初の日に気軽に聞いていればなんてことなかったのに、変に気をつかってしまったなあ。

それにしても、いつも夫婦2人で切り盛りしている店が、その奥さんがいなくなると、同じ料理でも何となく味が変わったように感じられた。店の雰囲気も殺風景に感じられて。しばらくして復帰した奥さんを見たときには、とにかく元に戻ってよかったなぁと安心したのであった。

どういうこと?

2007年02月11日 | Weblog
真夜中の2時すぎ。寝室をのぞくと本を手に持ちながら妻がぐっすり眠っているようにみえた。そこで電灯のスイッチを切って暗くしてやった。そうするとそれまで眠っていると思っていた妻が「あっ!消さないで。まだ本を読んでるんだから」とのたまうではないか。いや、あんたぐっすり寝てたでしょ!とつっこみたいところだったが、「あっごめんね」と言って、電灯をまた点けてやった。

でも、こういうことってあるよね。テレビを見ながらうたた寝していて、妻にテレビをぱちっと消されたりチャンネルを変えられたりした瞬間、なぜかハッと目覚めて、「今見てたのに~!」とぶーたれたりとか。これって人間のメカニズム的にみるとどういうことなんだろう。不思議だな。

1週間ぶり。

2007年02月11日 | Weblog
1週間ぶりに帰ってきた妻が、きっかり1週間分たまっている衣類や食器の山をみて呆れていた。そういや、今週は洗濯機に衣類を放り入れてスイッチを入れたまではよかったけれど、そのまんまにして、あとは洗濯物が溜まる一方にしていたのだ。食事はあんまり作らなかったので、コップ類とビール缶だけが流しにたまっていった。だめだなぁ、一人でいるとだらしなくなってわびしいものである。しっかりしないとなあ。

今夜の夕食は久々妻の手料理(と言ってもパスタだったけど^^;)で非常に満足しました。

柳沢さん

2007年02月07日 | 政治
厚生労働大臣柳沢さんの発言が物議を醸しているが、その無神経な発言には僕も心を傷めている。一国の大臣があれでは・・・。

子供が欲しくても子供がいない家庭があることなどいっさい念頭にないのだろう。言葉の暴力というものがあるけれど、この大臣の言葉の数々はそれに値するものだ。自覚がないからなおさら困りものだ。

言葉の暴力は、それを言った本人が自覚しない中で日常茶飯事で使われているものだと思うが、責任ある立場の人の発言としてはあまりにも軽すぎる発言の繰り返しとなっている。

早く辞任してもらいたいと思う。

さて、話はちょっと変わるが、この前の愛知の知事選、北九州の市長選は、その柳沢大臣の発言がどう影響してくるかを判断する選挙となっているとのことだったが、僕にはそれが奇異なものにうつった。

厚労大臣の発言が、県や市の行政に影響を与えていいものかと思ったのだ。大臣の発言と自治体の行政は別物だろう。もし僕が選挙民だったら、そういう物差しでは選ばないと思う。あくまで、その自治体にとって一番いいと思う候補者を選ぶだろう。中央の政治の無責任な発言やマスコミに踊らされてはいけないと思うのだ。

それにしても、柳沢さん、自分では全然問題ないと思ってるんだろうなぁ、きっと・・・。世の中、こういうオヤジは多いんだろうなぁ・・・。僕も気をつけないといけないなと思います。

「千の風になって」を聴いて

2007年02月06日 | 音楽
「千の風になって」。この詩は、日本では作家の新井満氏の個人的体験(幼なじみの死と残された家族の悲しみに接して)をきっかけとした翻訳と作曲によって世に知られるようになったとのことだが、外国では作者不詳ながら、かなり昔から読み継がれてきているものと聞く。9.11テロの追悼式でも詠まれたようだ。

原詩を読んだことがないので新井氏の翻訳に頼るしかないが、この詩は、大切な人に先立たれた人たちに対してのメッセージとなっている。曲の方は、奇をてらったところがなく素直な感情が込められたものに感じられる。

僕自身、十数年前、大切な友人が事故で亡くなり深い悲しみを抱き、今でも彼のことを思うと胸が痛む想いがするのだが、その彼が広い空を千の風になって気持ちよく吹きそよいでいると考えると、多少は気持ちが救われる思いがする。聴く人により想いは千差万別だろうが、この歌によって悲しみが少なからず癒される人もいるのではないだろうか。

現在、秋川雅史氏や作曲者の新井氏によって歌われるこの歌が、願わくば昨今の商業主義に迎合せず、自然と歌い継がれていく歌となってほしいと思わずにはいられない。

紙の山

2007年02月04日 | Weblog
きょうの午後、少し前に録画しておいた「さんま御殿」を見ていたら、出演者の一人が、ネットで辿っていったら知り合いなど簡単にネットで探せるみたいなことを言っていた。昔好きだった人のブログを探し出して秘かに見ているそうだ。本人は気軽な感じで発言していたが、考えようによってはちょっと怖い話だと思った。自分の意図しないところで自分のプライバシィが、知り合いにのぞかれているのだ。ブログ(ネットワーク)とは、便利な反面、大変な危険性を併せ持ったものであるといえる。現在のインターネットから発展したブログの普及(世界に繋がるネットワークの形成)は、人々のコミュニケーションの場を大きく拡大する一方、みんな簡単に自分のプライベートをネットにさらす形となっているのだ。この僕のブログなども、ちょっとでも僕のことを知っている人が見れば「あれ?これはあの人では?」となるかもしれない。
そんな中、自分の生活を堂々とブログで発信している人たちもいる。大丈夫なのかなぁとちょっと心配でもあるが、とても羨ましくもある。それだけ自分の生き方に自信があり責任を持っていることの表れだと思うからだ。自分もそうなりたいと思うがなかなか難しい。

さて、ブログブームの中、世間一般での個人情報の取り扱いは厳しくなる一方となっている。何年か前までは、名簿にも気軽に自宅の電話番号が掲載されていたものだが、今となっては考えられないことだ。そして、個人情報の取り扱いが年々厳しくなる中で、逆に軽視されがちなのが「紙」ではなかろうか。個人情報を守るために、日本中で一日のうちでどれだけの紙がシュレッダーにかけられていることだろう。その紙くずを集めたら相当な高さの山ができるのではなかろうかと想像する。個人情報の重さと限りある紙資源、秤にかけたらどちらが重いものだろうなどとつれづれと考えるが、比べるようがないことかもしれない。