森の空想ブログ

女性が舞う神楽と「女面」の起源 *1月21日、加筆再送しました

[高鍋町愛宕神社の日向高鍋神楽より]



高鍋町愛宕神社「日向高鍋神楽」の女性の舞人が舞う神楽を見ていて、私は
―古代の神楽とはこのようなものだったのではないか・・・
と思ったものだ。
高鍋神楽では、早くから女性の舞人を受け入れており、この夜、神楽座の一員として優美な舞を舞った三人の女性も、子供の頃から神楽を習い、参加していたということで、違和感なく、座員の一人としてふるまっていた。
彼女たちが舞った神楽は、前述したように「花の手舞」「舞揚」「敏伐」という三番で、いずれも神事性のつよい演目であった。

古代、女性は神の声を聞き、託宣を行なうシャーマンであった。邪馬台国の女王・卑弥呼は「鬼道を行なう」と記されることから、「大和王権=日本国」樹立以前の、先住の女王と解釈される。弥生時代末期から古墳時代前期(2世紀後半から3世紀前半へかけての時代だと比定される)には、大規模な民族流入と新国家の樹立、祭祀形態の転換等があったと考えられているが、その新国家樹立の過程で、先住の女王と渡来の「大王」との結婚が進んでゆく。瓊瓊杵尊と木花咲邪馬媛の出会いや、素戔男尊と櫛稲田姫の結婚などがその代表例であろう。その後、先住の女王は大王(天皇)の側で託宣を行なうシャーマンとなり、時代が下がるにつれ白拍子、曲舞等の芸能者へと変容してゆく。女歌舞伎や遊女等もその変転した姿であった。
古代の女性シャーマンが舞った神楽の残存形として「巫女舞」が考えられる。私が見た巫女舞は、福岡市志賀島志賀神社の八乙女舞、大分県中津市古要神社の古要舞に出る人形劇としての巫女舞、長崎県島原半島に残る巫女舞、日南市北郷町潮嶽神社の古式の巫女舞などで、その数は少ない。


潮嶽神楽の巫女舞

天鈿女命は「岩戸」の前で神がかりして舞い、「天照大神の出現=太陽の再生」を促した。天鈿女命はこの故事により「神楽の祖」となり、宮廷の祭事を司る「猿女君」となった。天鈿女命は天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に随従した五神の一神であると伝えられることから、「天孫族=大和王権」に付随する神事・儀礼を行うシャーマンであったと考えられる。
神楽では、男性の舞人が女物の装束を着け、女面をつけて天鈿女命の舞を舞う。
米良山系から宮崎平野を経て霧島山系の神楽に至る広範囲に「神和(かんなぎ)」が分布する。これは、呪術的な女面の舞である。その演目名から、宮中で舞われた「御巫(みかんなぎ)」の系譜に連なる神事芸能であると考えることができる。このことは、天鈿女命から猿女君へと引き継がれた女性シャーマンの神事芸が、いつのころか、男性の舞人が女面をつけて舞う芸態へと転換したことを物語る。
女性シャーマンから男性の神職へ、女性の舞人の舞から女面の舞へという祭祀・演劇形態の転換は、民族の渡来による政権の交代、古来の山岳宗教と道教・修験道と仏教の習合など種々の要因が考えられるが、それがいつの時代のことなのかはまだ研究が進んでいない。芸能史・仮面史における、「女面」の発生という未解明の分野である。
高鍋神楽の女性の舞人による美しい神楽を見ながら、私は古代の女性シャーマンの儀礼から女面の源流へという難題に思いを馳せた。宮崎の神楽では、女性が神楽に参加することを厳しく制限されている例が多いが、神楽の伝承や神楽を核とした地域再生の取り組みなどと関連させて考えるならば、今後、研究と論議を重ねる課題でもあろう。


写真は当夜奉納された「神和(かんなぎ)」の舞。男性の舞人が女面をつけて舞う呪術的な神楽である。前述の宮中の「御巫(みかんなぎ)」の系譜に連なると思われるこの芸態は、米良山系から宮崎平野、そして霧島山系の神楽にまで分布がみられる。
これも、今後、注目し続けたい演目である。

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