くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

代理母出産に思うこと

2008年02月02日 | Weblog
以下、読売新聞の社説からの抜粋である。

国内での代理出産はこれまで、日本産科婦人科学会がガイドラインで禁じてきた。だが、長野県の医師がこれに反して次々に代理出産を実施し、ガイドラインで十分か、という声があった。
 米国など海外で代理出産を依頼するカップルは少なくなく、すでに100件以上あると言われる。

正直に言って、代理母出産そのものに対しては、私には定見がない。倫理上の議論があるが、これは結局見解の相違というものがひたすら平行線をたどるような、堂々巡りに終止することになる。家族の在り方云々と言ったところで、家族の在り方時代古今一様ではなく、これまた代理母反対論としての説得力は限定される。一方、家族の形態は一様ではないがゆえに、代理母が許容されるべきかと言えば、一部の人間の意思ないしは欲望や、一部の医療関係者の判断のみによって、社会的なコンセンサス形成の努力と過程も経ぬままに、なし崩し的に家族形態の変容・多様化は図られるのにも、横暴・傲慢の謗りは免れまい。妊娠出産のリスクを取り上げての反対論もあるが、将来を見据えた中長期のタイムスパンでとらえるならば、医学の進歩にこの特定のハードルを取り除くないしは低くすることを期待しても良いのではないのだろうかとも思い、恒久的な反対論の説得力ある論拠とはなり得ないのではないかとも思う。女性蔑視や差別の助長という議論には現状においては一定の説得力を持つと思う。子は親や自分の育つ環境を選べぬのだから、産む側、それを手助けする側は十分な配慮が必要であるはずだが、代理母というものへの社会的なコンセンサスがない現状で、差別や偏見を助長する懸念は払拭できまい。差別はいかん!というのは言うに易いことであり、その言葉自体に「錦の御旗」のような威力のようなものがあるが、差別を生み出す恐れのある社会状況の中で社会のコンセンサスなしに好き勝手しておいて、差別批判をするというのは、いささか手前勝手が過ぎるとも思う。またかりに差別という問題が生じたとして、それは一朝一夕にいくものではあるまいが、人の努力によって解消できるものではないのだろうかとも思う。

しかしながら、代理母出産そのものへの定見はなくとも、現状において代理母出産がおこなわれることには反対である。

理由は単純明快である。現状においては、社会的コンセンサスも無ければ、それを背景とした法律的な裏付けも無い。出産は個人の選択・自由に委ねられるべきものであるとの反論もあろうが、人が好むと好まざると社会の中に生きていく存在である以上、しかもこの日本国について言えば法治国家という社会体制のものとにある以上、その中で生きていく他者との利害や価値観の調和・共有というものは不可避に求められ、それゆえに、一個人の自由や権利は制限を受けることになる。個々人が無制限に自由や権利を主張し、それが許された時、社会はホッブズの言うところの状況を呈し、社会の調和、安寧、秩序は脅かさることになるであろう。

法的裏付けがないとは翻って考えれば、違法でないということになりえる。確かにそうかもしれない。しかしながら、そうした開き直りともとれる議論こそ、世論の支持を得ることはあるまい。近い過去を振り返れば、カネ儲けの世界においてかつてホリエモンなる人物は「法律に触れなければ何をしても良いのか!?」との批判を受けた。レッドではなくイエローカード程度の行為ならGo signと我が子に教えたとか教えないとかいわれた村上某も世間の論議の的となった。世論に法的な拘束力はない。しかしながら、我が国は民主国家であり、世論というものを背景に物事が動く傾向にある社会である。良くも悪くも。この現実において現今我が国では、法さえ犯していなければ、という理屈はむしろ「無法者」の所業とみなされる。


上掲の読売社説にある「長野県の医師」とは諏訪マタニティークリニックの根津医師のことを指すのであろうが、根津氏が個人として代理母出産の妥当性、必要性を説くのは自由である。だが、氏がいかなる信念のもとで代理母出産を実施しようとも、それがいまだ社会のコンセンサスを得ていない段階でのものである以上、それを社会的・医学的「暴挙」と言わずして何と言おうや。ましてやその「暴挙」に報酬が伴うものであるとしたら、氏の「信念」に対して、眉を唾でぬらさずにはおれぬ。かりにそうせずとも、氏の「信念」に基づく所業は、「思いあがり」ではないのか。

医師だけではない。「子供は欲しい」という個人の欲望・願望のおもむくままに、代理母出産を選択する人間が存在する。彼らもまた社会の調和や安寧を揺さぶりかねない「暴挙」を行う者たちなのである。高田・向井夫婦もその類だ。「暴挙」の挙句のメディアを駆使してのあの開き直りは見苦しい限りであった。

このまま代理母出産が繰り返されればどういう事態になるのか。おそらく無し崩し的に代理母出産は社会の現実として認知されていくのであろう。その時「社会的コンセンサスが得られたから文句はなかろう?」と賛成論は勝ち誇るのかもしれないが、かりに結果としてそうなったとして、過程において問題を抱え、手段を選ばずして得られた結果は代理母出産以外のところでその悪しき前例となるのではないだろうか。

と、「ガンダム SEED」の世界を思い浮かべつつ・・・。
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