ICUより学習院の方が内容的に良いなどとは言わないし、私には両者を比較するすべもない。
しかし、神道の皇族がICUとはいかがなものか。
私はアンチ・キリストではない。宗教上の理由で云々するのではない。
ICUは日本国になりながら公然と宗教によって教職員の差別採用を行う学校であるということが問題であると思う。憲法が信教の自由を保障する我が国において、公然と宗教によって応募資格の有無を決定する学校というのはいかがなものだろうか。
かりに企業において、S学会はダメであるとか、うちは大谷派のみ採用としたら、社会の糾弾は避けられまい。マスコミが黙ってはいないはずだ。もっとも、有為の人材を可能な限り集めたい企業にしてみれば、余程のことがない限り、宗教の別により採用を決定するなどという愚行に出ることはあるまいが、それをすることは社会的に容赦されないであろう。
では、大学なら許されるのか。私学にはそれぞれの建学の精神というものがあり、それ自体、同じく憲法が保障するところの精神の自由により保障された権利として、各校が独自のものを標榜することができる。もっとも、そこにも当然のことながら社会通念上、あるいは法律的にみても問題のある内容が含まれていれば、その限りではあるまい。しかしながら、常識的な範囲において、建学の精神とそれに基づく教育指針は、各校の自由の範囲のうちである。
ICUにしてみれば、キリスト教の精神に基づいて学生の教育を行うとするのであれば、キリスト者であるか、キリスト教に理解を示す者を採用したいと思うのは当然かもしれない。であればこそ、職員への応募者は「キリスト者」でなくともキリスト教に理解を示す者であれば資格ありとみなされるが、学生を直接指導する教員は、キリスト者でなくてはならないという二つの異なったハードル設定となっている。
しかし、これは同時にキリスト者しか応募させずかつ採用しないという、差別を生み出している。
更に怪訝なのは、ICUは日本国外での教員公募では応募資格を「キリスト者」に限定していない。少なくとも、米国における英語での公募情報では、そうした文言はない。
これはどうしたものか?
米国でも、ミッション系の大学がキリスト者を採用することを望むことは決して驚くに値しない。ただ、公募情報に明確に「キリスト者であること」とは書かない。そのかわり、推薦状のうち一通を個人的に親交があるかまたは普段通っている教会の牧師・神父からのものという条件を付したり、あるいは、ICUの職員募集条件のように「キリスト教に理解のある者」とのあいまいなまたちでの条件付けをしているところもある。応募者の宗教的信条を記した文章(作文)の提出を求めるところもある。
しかし、「キリスト者でなくてはならない」と明確に記した例を、近年において私は寡聞にして聞かない。
まあ、「公言しない」すなわち「宗教・宗派による採用差別をしない」ということではない。例えば、日本の従業員・職員採用では「年齢制限」というものを明記するが、これを米国でしたら一大事である。つまり、年齢差別ということになる。しかし、実際の採用活動においては、年齢は採用の可否条件になる。これが米国の「表」と「裏」、「ホンネ」と「タテマエ」であり、あけっぴろげな日本よりも、ある意味、陰湿なかたちで「差別」が存在すると言えるのかもしれない。
ただ、繰り返しになるが、ICUの日本でのやり方を表向きにすれば、大問題になり、マスコミ、世論は「タテマエ」をもって糾弾するだろう。
ICUもそのことを知っているからこそ、米国では「キリスト者」と明記しないのではないか?
もし、そうであるとしたら、この「二枚舌」的な振る舞いを「偽善」と呼ばずして、何というべきか?
郷に入らば郷に従えだ、と開き直られたら、それまでだ。
アメリカでは多数派はキリスト者だから、あえて限定するまでもない? これまたそうかもしれないが、100%そうではないという現実がある以上、言い逃れに聞こえなくもない。
どうあれ、このような「疑わしい」教育機関に、我が国の皇族が学ぶというのは、宗教的な問題はさておき、いかがなものだろうかと私は思うのだが・・。
しかし、神道の皇族がICUとはいかがなものか。
私はアンチ・キリストではない。宗教上の理由で云々するのではない。
ICUは日本国になりながら公然と宗教によって教職員の差別採用を行う学校であるということが問題であると思う。憲法が信教の自由を保障する我が国において、公然と宗教によって応募資格の有無を決定する学校というのはいかがなものだろうか。
かりに企業において、S学会はダメであるとか、うちは大谷派のみ採用としたら、社会の糾弾は避けられまい。マスコミが黙ってはいないはずだ。もっとも、有為の人材を可能な限り集めたい企業にしてみれば、余程のことがない限り、宗教の別により採用を決定するなどという愚行に出ることはあるまいが、それをすることは社会的に容赦されないであろう。
では、大学なら許されるのか。私学にはそれぞれの建学の精神というものがあり、それ自体、同じく憲法が保障するところの精神の自由により保障された権利として、各校が独自のものを標榜することができる。もっとも、そこにも当然のことながら社会通念上、あるいは法律的にみても問題のある内容が含まれていれば、その限りではあるまい。しかしながら、常識的な範囲において、建学の精神とそれに基づく教育指針は、各校の自由の範囲のうちである。
ICUにしてみれば、キリスト教の精神に基づいて学生の教育を行うとするのであれば、キリスト者であるか、キリスト教に理解を示す者を採用したいと思うのは当然かもしれない。であればこそ、職員への応募者は「キリスト者」でなくともキリスト教に理解を示す者であれば資格ありとみなされるが、学生を直接指導する教員は、キリスト者でなくてはならないという二つの異なったハードル設定となっている。
しかし、これは同時にキリスト者しか応募させずかつ採用しないという、差別を生み出している。
更に怪訝なのは、ICUは日本国外での教員公募では応募資格を「キリスト者」に限定していない。少なくとも、米国における英語での公募情報では、そうした文言はない。
これはどうしたものか?
米国でも、ミッション系の大学がキリスト者を採用することを望むことは決して驚くに値しない。ただ、公募情報に明確に「キリスト者であること」とは書かない。そのかわり、推薦状のうち一通を個人的に親交があるかまたは普段通っている教会の牧師・神父からのものという条件を付したり、あるいは、ICUの職員募集条件のように「キリスト教に理解のある者」とのあいまいなまたちでの条件付けをしているところもある。応募者の宗教的信条を記した文章(作文)の提出を求めるところもある。
しかし、「キリスト者でなくてはならない」と明確に記した例を、近年において私は寡聞にして聞かない。
まあ、「公言しない」すなわち「宗教・宗派による採用差別をしない」ということではない。例えば、日本の従業員・職員採用では「年齢制限」というものを明記するが、これを米国でしたら一大事である。つまり、年齢差別ということになる。しかし、実際の採用活動においては、年齢は採用の可否条件になる。これが米国の「表」と「裏」、「ホンネ」と「タテマエ」であり、あけっぴろげな日本よりも、ある意味、陰湿なかたちで「差別」が存在すると言えるのかもしれない。
ただ、繰り返しになるが、ICUの日本でのやり方を表向きにすれば、大問題になり、マスコミ、世論は「タテマエ」をもって糾弾するだろう。
ICUもそのことを知っているからこそ、米国では「キリスト者」と明記しないのではないか?
もし、そうであるとしたら、この「二枚舌」的な振る舞いを「偽善」と呼ばずして、何というべきか?
郷に入らば郷に従えだ、と開き直られたら、それまでだ。
アメリカでは多数派はキリスト者だから、あえて限定するまでもない? これまたそうかもしれないが、100%そうではないという現実がある以上、言い逃れに聞こえなくもない。
どうあれ、このような「疑わしい」教育機関に、我が国の皇族が学ぶというのは、宗教的な問題はさておき、いかがなものだろうかと私は思うのだが・・。
そのこと(原始キリスト教徒)は一族で代々伝わってきたようで、現在の皇室神事の式部職はクリスチャンで都内の名門教会数か所に分散して属しています。
また、式部職だけでなく、皇室職員・皇室メンバーの大部分がクリスチャンであることは公然の秘密です。
歴代の宮内大臣(宮内庁長官)、侍従長、各種部門長などがクリスチャンであることは公開情報としても有名です。
たとえば、川島現侍従長はカトリックで国際機関で活躍のカトリック重鎮緒方貞子氏といとこ、渡邊前侍従長は聖公会クリスチャンで明治元勲の大山巌元帥の末裔。
女官長はこの40年以上クリスチャンがリレーしています。
田島宮内庁長官、宇佐美宮内庁長官などもクリスチャンです。
昭和天皇の即位後初代の侍従長珍田伯爵は元外務次官でかつメソジスト派の牧師でもありました。
幕末の大名の「最後の藩主」たちには禁教令が解ける以前に熱心なキリスト教信仰を始めていた大名が多く、廃藩置県の後は皇室に入って要職に就いています。
そして、現代の皇室へ嫁ぐお嫁さんはキリスト教系の名家からというのが不文律になっているようです。(美智子皇后:カトリックの正田家、三笠宮妃殿下:カトリックの麻生元総理の妹・・などなど)
で、秦河勝は伊勢神宮の創建にも関わっていますので、皇室神道は古代東方キリスト教がオリジナルで、古代東方キリスト教は途絶えているので現在の皇室メンバーは西方キリスト教の人を入れているというのが現状だと思います。
結論は皇室は日本で最も長く続く非常に濃いキリスト教信仰の家柄であり、秋篠宮眞子さまが国際基督教大学にご入学なさることは「あまりにも自然なこと」だと推定できるということです。
尚、ラムセス二世は、子供が百人を超えていたことで知られる。
モーセの十戒~エジプト文明を知っている者ならば判るが、あれはエジプト死者の書に瓜二つだ。
仮説~ラムセス二世の遺体が存在するので有り難いが、モーセは恐らくラムセス二世の息子だろう。アロンは、セム系エジプト大臣のヨセフの子孫だろう。この事は、契約の箱が発見された時、契約の箱に関係した一族の遺伝子を鑑定すれば明らかになる。恐らく、彼等の遺伝子情報は、ラムセス二世の遺伝子情報と同じだろう。《イスラエルが出入りしている諏訪大社の守矢一族は、神の箱系のアロンの末裔。秦一族は、ソロモン・ヘロデ王朝の末裔。》
http://subsite.icu.ac.jp/people/morimoto/Texts/IDEonICU.pdf
現在のユダヤ教は、ダビデ・ソロモン教です。
本題~諏訪湖周辺がイスラエル企業群で埋め尽くされているので判る様に、諏訪大社神長官の守矢は、ユダヤ教徒が長年探し求めていたシロのアロンの末裔らしい。また、岩手県平泉の安倍一族がエフライム一族ヨシュア末裔の様だ。《エリザベス女王の親戚の方の出羽三山表敬観光訪問~安倍の本家の末裔の寺が、出羽三山の末寺。安倍晋太郎とドイツ貴族ビスマルクの婚積関係~ドイツは知っていた、と考えている。》この2つが日本に在るならば、間違い無くダン族とダン族の祭司たるモーセの息子ヨナタンの末裔も日本に存在する。
探す為の資料~ダンの紋章は蛇。《守矢の神ミシャクジ神は、白蛇の上、ヘブライ語に訳すと、イサクの献身の意味がある。また、諏訪大社の大祝の諏訪氏は、大国主神の息子。奈良で大国主神を祭る三輪大社の神も蛇。》《宇佐八幡宮の宮司一族の祖先も蛇の説在り。》神の箱の存在の可能性在り。しかし、源頼義と大和朝廷が安倍一族の資料を全て焼き、ヘブライ教を禁じた為に、他のヘブライ民族が地下に潜った。外部者から見ると、一千年の空白が在る。また、彼等自身も忘れていると思う。しかし、伝承や伝説は残っているだろう。神の箱を発見する為に、それが最も大事!
《モーセは、シナイ山で神の示現を受けた。兄のアロンは、山の山頂で死に、後継者のヨシュアもエフライム一族を山地に住まわせた。》
我説だが、私は、山伏の姿が、今は存在しないエフライム一族ヨシュア末裔の安倍頼良の祈りの姿に見えて仕方が無い。
また、日本神道とユダヤ教の酷似。日本神道とユダヤ教は、余りにも酷似している。修験道とユダヤ教が酷似しているのに、日本神道まで酷似しているとは!これは、大和朝廷が日本支配の為に、大国主神の時代に存在した本来の姿を、強制的に禁じたと考える以外無い。
仮説~シルクロードのヘブライ民族と日本のヘブライ民族は、同じ民族ではない。日本のヘブライ民族は、神の箱を護る為に、日本に渡来した可能性が在る。《ダビデがイスラエル王になれたのは、神の箱を他民族から奪い返したからだ。また、神の箱の中の十戒石は、巨大なブルーサファイアである。恐らく、ヘブライ系日本人の祖先達は、巨大なブルーサファイアである十戒石が粉砕されるのを防ぐ為に、日本に渡来したのではないだろうか?ダビデの息子ソロモン王の悪政も在ったことだし。》
昭和30年代に、ハーバード大学を卒業したロックフェラー4世が留学している。また、オハイオ州出身の外交官で、元駐日大使《ブッシュシニア大統領時》、ロックフェラーの三羽カラスと呼ばれたアマコストが国際キリスト教大学で教鞭を執っている。《南北戦争の英雄グラント将軍とシャーマン将軍は、オハイオ閥。オハイオ州は、当時、ドイツ系70%英国系30%未満の特殊な州。また、南北戦争後、シャーマン将軍が米国史上、最も多くのインディアンを虐殺した。》
普通の日本人は、真実の米国の歴史と現実を知らないから、国際キリスト教大学の職員には、キリスト教徒しか存在しない、なんてテンチンカンな事を言うのだ。
証拠~イスラエルは、黒人との融合に努め、エチオピアからの黒人の移住促進政策を採っている。ユダヤ民族と黒人の混血も大分進んだ。これは、ソロモン王とシバの女王の由来に依るものだが、つい最近、イエメンでシバの女王の遺跡が発見された。また、南カリフォルニア大学の研究者が、黒人の遺伝子が5万年前~8万年前の旧人の遺伝子である事を、今世紀に入ってから解明した。《洗礼者ヨハネとナザレのイエスを処刑したヘロデ王は、ローマからユダヤ民族支配を委託されたセム人であり、ユダヤ人ではない。》