くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

世代論の虚しさ、愚かさ、恥ずかしさ: 「今時の若者は」とは言うけれど・・・

2008年05月23日 | Weblog
今時の若者と接する機会の多い私も、ご多分に漏れず「今どきの若い連中は」と思いうことがしばしばである、とここであえて告白する。

そう思う理由の一つが、立ち居振る舞いだ。公共の場や公共交通機関のなかで平気でしゃがみ込む、ものは食べる、化粧はする。しゃがみ込むというのは、実はかつての日本人がよくした行為なのだ。明治になっても、庶民が道端にしゃがみ込むなどということはあったらしい。おそらくは、公衆の面前での下帯姿同様、西洋文明の洗礼を受ける過程で、公序良俗に反する行為として廃されていったに違いない。
日本人の公共の場での肌の露出を揶揄、批判した西洋人が、後々、肌を露わにするようなさまざまなファッションを生み出していったのは何とも皮肉なことである。

そのファッション、服装や着こなしもまたしかり。私や、おそらくは私より上の世代から見れば、だらしなく清潔感のない服装。擦り切れたを通り越して明らかに穴の空いたジーンズや、あえて下着を見せた着こなし、下着と見紛うような女性のファッションなど、目に余るものは枚挙に暇がない。そもそも、ジーンズとは下層労働者階級の着したものであるし、下着を見せるのも、某国の下層民たちが始めたものだ。女性が下着をみせるなど、古今東西おのれの身をひさいで生業とする女のすることである。

そして学力低下。とにかく、ものを知らない。知識欲とか知的探究心も低い。私が日本人の学力低下を実感するようになったのは90年代末。仕事で部下や顧客として10代から20代の若者に接する中で、「あれ?」、「えっ?」、「この大学出て、この程度?」と思わざるを得ないような場面に出くわすようになった。最初は接した個人の問題なのだろうと思ったが、その数が増していくのにつれて、どうやらそうではないと気付くようになった。そしてちょうどそのころから世間でも「学力低下」問題が喧しくなった。

しかしながら、私は世代論というものは、するなとは言わないが慎重であるべきものだと思っている。世代論がまったく無意味なものだとは思わない。それぞれの時代には異なったエトスや社会状況があるため、それら所与の条件が異なれば、おのずとその中で生まれ育った人々の思考や発想、行動にも違いが出るのは当然のことであろう。ただ、上の世代が「今どきの若いのは」と下の世代を批判することは、それ自体が虚しく、かつ愚かしく、そして恥知らず行為でもある。

若者の感心できない立ち居振る舞いや服装、学力、どれにつけても、彼らの親世代、祖父母世代が責任の多くを負うべき問題ではないのか。氏より育ちと言う、立ち振る舞いはそもそも天性のものではなく、家庭や学校生活、社会生活を通して身につけていくものであるはずだ。若者たちに社会生活上適正とされる立ち居振る舞いやマナーに疎いというのは、彼らの親世代、祖父母世代が十分にしつけなかったからではないのか。

服装にしても、だらしのない清潔感のない服や、下着まがいの服、だらしのない着こなしをハード、ソフト両面において商品化し、それを若者たちに売りつける、彼らの購買意欲をさまざまな方法でかきたてることで金を稼いできたのは、彼らの親世代、祖父母世代が主力となって働く企業ではないのか。消費者のニーズに応えたまでなどという言い逃れなど、ゆめゆめするなかれ。

性風俗の乱れというが、これもまた、我々が彼らに商品として提供してきたものではないのか。最近の若い子は、性行為の低年齢化ばかりではなく、避妊具をあまり使わないくなったというが、これまた大人たちの責任は大きい。子供の頃から性的描写の含まれたTV番組や漫画に晒され、家庭・学校において十分な避妊知識を与えなければ、結果はおのずと知れよう。現状に慌てふためき、嘆く方こそ愚かというものだ。

学力もまたしかりだ。相対的に見て学力が低下するような教育制度をつくり教育を施してきたののもまた、彼らの親世代、祖父母世代なのだ。学力低下の原因であると言われる教育制度を作ったのは彼らではない。そして彼らには選択の余地もなければ、教育の良し悪しを判断する手立てすらない。「おバカ」を売りに視聴率を稼ぎ、金を稼ごうとしているのも、「今時の若者は」と嘆き、批判する連中ではないのか。「バカ」や無知は恥じてこそ、誇るべきものではないのだ。それを売りにするなど、売春婦と50歩100歩というものだ。例の「羞恥心」のメンバーの一人は子供の親だと言うが、恥ずべきを商売の具にする恥知らずな親に育てられた子供など、ろくな子供に育つまいが、その子にとっては気の毒この上ないことだ。子は親を選べないのだ。

かつて三好京三の著書に『子供叱るな来た道じゃ』という題名のものがあったが、まさにその通りだ。彼らの親や祖父母が来てしまった道、その行きついた先が、今の若者たちなのだ。と言えば、物心つけば自分のことは自分で、というが、三つ子の魂百までという。その魂は大人が子に宿すものだ。乳幼児にその責任を問う者はいまい。たとえ、高校生、大学生とはいえ、まだ子供であり、未熟だ。生きものは寿命が延びれば成熟も遅れると言う。人生50年の時代とは違うのだ。今どき、昔は15で元服したなどと説いたところで、虚しいだけだ。10代や20そこそこの小僧っ子に、自分のことは自分で律するべしと自己責任を求めたところで、おのずと限界がある。10代後半、20代になって人の性根など、よほどのことがない限り変わるものではない。例えば10代でグレや連中など、成人してどんなにまともになっても、ひょんなことで昔の片鱗を見せることがあるが、それこそ、子供のころに得たものがその人間の性根として文字通り人間性のなかにしっかりと根をはってしまっているということなのだ。不良とクスリは、一度手を染めれば、何時何時再発するかわかならないのだ。人間形成において若者に自己責任を求めるなど。所詮は、大人たちの責任放棄、責任逃れでしかない。そもそも、その大人たちからして、偉そうなことは言えない。自分の子供と同年代の子供に省のはけぐちをもとめ、あるいは手段を選ばずカネ儲けの道具や対象にしているのだから。

批判的若者論が、ブーメラン的に自己批判になると自覚する者が一体どれだけいるだろうか。おそらくは、それほどいまい。残念ながら、今時の若者の親世代、祖父母世代は、実は彼らのことなどどうでもいいのだ。だから、彼らにとっての損得など頓着せずに、彼らを食い物にして銭を稼ごうとする。彼らの将来など一顧だにせずに、「私たちの年金が」、「私たちの老後が」、「年寄りには死ねというのか」と自分たちのことしか頭にないのだ。自分たちの幸せな老後のためなら、若者を若い世代を犠牲にすることなど厭わないのが今時の年よりなのだ。こちらの方が、今時の若者よりもはるかにおぞましい。「桃太郎侍」ではないが、人の世の生き血をすすりとはまさにこのことだ。ということは、今時の年寄り=越後屋ということか? そなたも悪よのう、越後屋・・・。

だらしのない若者、物事の敵不適を知らぬ若者、無知な若者、彼らをそうさせてしまったのは多分に彼らの親や祖父母の世代の責任なのだ。そしてその責任の一端を私地震も負わねばならない。

今時の若者の皆さん、あなたたちは実に情けなく心もとないところがあるが、あなたたちがそうなったのも、私たちの責任が大きいのです。

本当にごめんなさい。
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