武蔵小山 ちょっとバー 安心して飲めて、牡蠣シーズンは絶対美味しく、安く、満足

小さなお店 『ほっ!と』安心出来るお店、楽しいスタッフ、冬は牡蠣食べ放題も、美味しい、新鮮安さに驚愕

雪の智頭町

2017-02-23 13:54:54 | 
鳥取 記録的な大雪で週明けのきょうも各地で渋滞
中国山脈の
峠越えの集落
智頭町、
この冬、
にわかに、
この場所がテレビにたびたび出て、
お~懐かしや、
懐かしや~
大雪で車が立ち往生

峠越えで雪の中、

車中で、夜を越す、
その時、
地元の皆さんが
炊き出し、
トイレ貸し、
『偉い~~』


地元の皆さんの優しさ、

思い出すのが、

司馬遼太郎が歩いた道、
街道を行くの
『因幡~』
司馬さんは、
かかりつけの開業医・安住先生の故郷、
鳥取県智頭町の早野を訪ねてみたいと思う。
早野は千代川の源流域で、
千代川は鳥取平野を潤し、
因幡国は、
この川なくしては成り立たなかったのではないか、
と思う。

まず早野に行き、
この町を歩く、
川沿いで、
しげしげとこの早野の川を眺める。
『綺麗な川ですねぇ~』
地元の人に声を掛けた。

この流れの速い川が下流に行くに従い
川幅が大きくなり、
千代川となり、
日本海に流れ込む、
司馬さんは、
鳥取平野はこの川が作り出したのではないか?
と思う。

この早野(わせの)産まれの先生
安住先生を司馬さんは
たいそう褒めていた。
生真面目、親切で、優しく
故郷思いで、
この先生のルーツを訪ねて、
この山奥に来た、
清らかな川に
安住先生の心を見たような気がした
野だろうな!!

さて、この中国山脈の中に、
美味しい蔵元がある、
蔵元の名前は忘れたが、
『諏訪泉』

美味しい。
癖のない、清らかな味、
優しさを感じさせる味

智頭町、
今は確か、
私鉄のような電車が走っている、

また行って、みたい山里



飲んで、感激

秘湯の宿

2017-02-23 13:52:18 | 
甲子温泉と言えば、
奥の細道の入り口
【白川の関】
その白川の関を左に山道をドンドン

もう、遠い遠い~
携帯の電波も入らなくなる場所、
山深い場所に
霊泉が湧き出ている。

昔は冬は閉鎖されていた、
冬の甲子温泉行ってみたい、



辿りつくと
『ほっ!』

岩の浴槽
天然~
源泉掛け流し



沖縄へ行ったら是非、

2015-06-23 17:46:43 | 
沖縄での戦争は、
4人に一人が亡くなったと言われている。

悲しさに

太田実司令官 
最後の電文

沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ
賜ランコトヲ


電報の現代語訳[編集]

沖縄県民の実情に関して、
権限上は県知事が報告すべき事項であるが、
県はすでに通信手段を失っており、
第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。

県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、
現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、
知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、
陸海軍は防衛戦に専念し、
県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。

にも関わらず、私が知る限り、
県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。
残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、
しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、
軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、
辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、
看護婦や炊事婦はもちろん、
砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

どうせ敵が来たら、
老人子供は殺されるだろうし、
女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、
生きながらに離別を決意し、
娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

看護婦に至っては、
軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。
その様子は非常に真面目で、
とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

さらに、軍の作戦が大きく変わると、
その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、
輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

つまるところ、
陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、
終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、
(一部に悪評が無いわけではないが、)
ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、
遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、
沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして、
草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

海軍次官宛の電報(現代訳)
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

沖縄県民はこのように戦い抜いた。

県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。


この電文を最後に、
太田実司令官は自決した。

今はシッカリ保存されている司令官の壕

辞世の句

大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり

大君とは『天皇』

御はた とは、『御旗』日の丸の事、

天皇の御旗の元にして、死してこそ、
人として生まれた 甲斐が有る


壁に残された辞世の句

沖縄行ったらあの司令官壕へ

梅雨明けの6月下旬、
もう、いい天気だった、




そして今一人、
思うのは最後の沖縄県知事、
『島田さん』

前任の沖縄県知事は本土に一旦帰ったら
沖縄県に帰らなかった、

日本政府は島田さんにその任の辞令を出した。

家族全員反対するなか、
島田さんは沖縄に赴任した、

赴任してからの島田さん偉い、

今頃それが注目されている

以下、産経新聞より抜粋

太平洋戦争末期に沖縄県最後の官選知事として住民保護に尽力し、
本島南部で消息を絶った島田叡氏を顕彰する動きが広がっている。
命日とされる6月26日には那覇市で顕彰碑が除幕され、
出身地の兵庫県との交流会も予定される。
国に命をささげることが礼賛された時代、
住民に「生きろ」と呼び掛けた島田氏のメッセージが戦後70年を経て再評価されている。

 米軍の上陸が迫る1945年1月、
島田氏は大阪府内政部長から沖縄に第27代知事として派遣された。
44年10月の空襲で那覇は壊滅的な被害を受け、
前任者は東京に出張したまま戻らなかった。

 当時、
県人事課にいた板良敷朝基さん(97)は
「死を覚悟して沖縄に来られたはずなのに、非常に穏やかな表情だった。
この人となら運命を共にできると思った」

と振り返る。

着任後、
食糧確保のため自ら台湾に渡り、

県民約10万人の日本本土などへの疎開を陣頭指揮。
日本軍が首里の司令部放棄と南部への撤退を決めると、
知事も職員らとともに糸満市の「轟の壕」に移動した。
だが米軍の猛攻は収まらず、

壕で県庁を解散。
同市摩文仁の陸軍司令部壕に向かい、
消息を絶った。43歳だった。

 旧日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」
という戦陣訓から、
住民にまで集団自決を強要していた。だが島田氏は県庁を解散した際、
県警察部職員の山里和枝さん(88)に
「米軍は女性と子どもには手を出さないから、
最後は投降しなさい。
必ず生き抜いて、
戦後の沖縄のため尽くしてほしい」と言い残したという



戦後、戦没職員とともに「島守」とたたえられた島田氏。
主人公にしたドラマの影響もあり、
有志でつくる団体が2013年から顕彰碑建立への協力を呼び掛け始めた。

 賛同の署名は3万に上り、
建立のため沖縄県内外から600万円以上の寄付が集まった。
島田氏が学生時代に野球に打ち込んだことから、
那覇市の球場近くに建立される。
那覇市で開かれる兵庫県との市民交流会には、
井戸敏三知事も出席する方向で調整している。

顕彰碑 
手を合わせに行かねばならぬ

戦争はしてはならない

その為には、
抑止力こそ大切
朝日新聞は云う
『戦争法案』だと、
違う、
今現在進められている集団的自衛権は
『戦争防止法案』です。

中国の軍拡、
中国の覇権行動を抑止出来るのは
世界的世論

その為には、
日米ががっちりと組み
その周りのASEAN、インド、韓国と連携して、
これ以上の軍拡をやめさせなければイケない。

中国は国をあげて、
日本は悪い国と宣伝し回っている
韓国同様に、

それに負けない発信力が不可欠、



美味しい牡蠣の産地

2014-12-01 08:19:49 | 
三重県、伊勢志摩、
風光明媚、
海は綺麗
魚が美味しい!


近鉄特急で鳥羽駅、


そこはあの『赤福』の本店が有る、

『海女小屋』があり、


炭火で海鮮を焼く、


また水族館があり、ミキモト真珠島が有る。

余談!

鳥羽の手前に万葉集の頃から有名な『二見』が有る。
いかにも神がいるような感覚を覚える。

その港、鳥羽港から神島への船が有る。

三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となった神島!

神島という島の名称がいかにも三島由紀夫好み、
うん、三島由紀夫らしい、

潮騒(しおさい)は、三島由紀夫の10作目の長編小説。
三島の代表作の一つである。
三重県鳥羽市に属する歌島(現在の神島の古名)を舞台に、
若く純朴な恋人同士の漁夫と海女が、いくつもの障害や困難を乗り越え、成就するまでを描いた純愛物語。
古代ギリシアの散文作品『ダフニスとクロエ』に着想を得て書かれた作品である。

夏、鳥羽港から船ですぐの島がいくつか有り、
海水浴に丁度、良い。
すぐ手前の『答志島』

その右手に小さな神島が有る。

ヤフー地図
ヤフーの回し者ではございません。
参考までに、

さて、何度も鳥羽辺りへ行っていると、
他にも足を伸ばしたくなるのが人情、

面白そうなところは無いか?
美味しいモノは無いか?

鳥羽から南へ、
安楽島、
海水浴にいい、
海が綺麗、
のどかだなあ~~

そのもっと先に牡蠣で有名な『的矢』が有る。
的矢湾の牡蠣は小振りだが、
コリコリしていて、
臭みもなく、
美味しい、

行ってみよう~~~
『お~~』

地元の方に聞いたら、
『的矢』の手前『浦村』に美味しい牡蠣が有るとの話を聞き、
『では、行ってみよう』

大きな、昔で言うなら『ドライブイン』みたいなところで牡蠣食べ放題をやっていた。
食べたが、余りヨロシクない。

その国道沿いから『浦村の港』急な坂を下る。

小さな湾、それ全体が牡蠣の養殖湾で、港は加工工場、

先ず、水が綺麗、
そりゃ、そうだ、
民家がない、汚染される要素がない。

どん突き当たりまで行き、
牡蠣小屋へ、
美味しい、
焼き牡蠣をいくつか食べ、
牡蠣ご飯を食べ、
ビールを飲み
また焼き牡蠣を食べ、

これは美味しい。
東京の牡蠣小屋とは全く別物、


東京の牡蠣小屋には何処も残念、

池波正太郎と湯河原

2014-03-18 20:24:47 | 
池波正太郎と湯河原、

千歳川の散策は実にいい、

池波正太郎に湯河原を紹介したのは、新国劇の当時の看板役者・島田正吾。

昭和28年(1953)の秋、池波正太郎が初めて湯河原温泉を訪れた。

宿は『塵外郷 楽山荘』

当時、池波正太郎は新国劇の脚本や映画シナリオの執筆に追われていた。
日本がまさに戦後復興の熱すざましい時期。

でも何故、楽山荘だったのだろうか?
メイン道路に面した藤田屋、天野屋、伊藤屋など明治~大正期の文豪が定宿にした宿を選ばず、
温泉街よりさらに奥に行き、藤木川を左に渡り、山道を上り、当時は170段の石段だった、
竹林に囲まれた静かな佇まいの楽山荘。
塵外郷の名にふさわしい静けさを求めての事だろうか?
喧騒を離れ静寂で豊富な湯量。
以後、湯河原温泉楽山荘は池波正太郎の「旅先の書斎」となり、新国劇『渡辺畢山』の脚本や、松竹映画『敵は本能寺にあり』のシナリオは、本館2階の「竹の間」と、離れ「藤の間」で執筆された。

この『塵外郷 楽山荘』には池波正太郎の他にも、中山義秀、吉川英治、五味康祐、長谷川伸ら、多くの作家が、仕事や静養の為、この宿を利用した。

今はその楽山荘に行こうにも、170段の石段も草だらけ、
入れない。





石垣島

2014-03-08 13:01:01 | 
司馬遼太郎は石垣島はトーチカみたいな四角いコンクリートの建物が強い日差しで白い粉を噴出したような街並みで、昼間は商店街でも人が少なく云々~神社が大切にされていないのを悲しんでいた。


司馬遼太郎は戦後教育を根底から嫌っていた、
その影響が強い地域を頭から嫌う傾向が有るのではないか?
私的には??%$#)’’、美味しいお酒が飲みたい。


川平湾、 これがあの川平湾か! 


海は綺麗だが、流れが異常に早く、海には絶対入るなとの事、

川平観音



日本だ、お参りせねば、



底地ビーチ、遠浅で、ハブクラゲのネットが厳重、子供には安心、



果てしなく遠浅、


街中で昼間からお酒飲んでる


女将さんさんから怒られ追い出されたおじさん、










司馬遼太郎が国内で行った最南端、与那国島へ行こう、しかし時間がない、飛行機往復の日帰りは結局無理

川平湾、石垣焼を観に行こう、
川平湾、あまなんと綺麗だわ、遊泳禁止、汚さない為に仕方ないか、それより、潮がやたら早いらしい、

夜の宴会までチョイと昼間から飲んで、お土産買って!
居酒屋『南の島』はいい、