空(間)論

ロハス・デザインという言葉が注目されています。人にとっての快適な空間デザインを考える不定期ブログを筑波から発信します!

感覚は活きている、だから視線は延びる

2006年05月24日 | Weblog
「空間の拡がり」とは視界をさえぎることだ、と言った。

空間の拡がり、とは考えてみれば自分の眼から見た奥行きへの視界のことだ。同じ視立体角なら、遠いほど大きい拡がりとして感じる。実際に視展開面積は大きくなる。しかし、感覚が感じるのは展開面積が広くなったと言うことよりも、全てのものがより小さくなって見えるということによる。遠景へ去るほど、物が小さく見えるのだ。


図は室内の左の壁から延長するようにして、ガラスから透けて外部へ建仁寺垣のような塀になって延びている。視覚の奥行きへの展開を助けている。竹垣が池から立っていれば、池に竹垣を逆さに映すだろう。

この竹垣に一部さえぎられた先の風景は、竹垣のずっと先にある拡がりとしてよく感じる。室内の壁から垣根を伝って勢いよく視線が延びるのである。感覚が活きている。併せて、舗石の目地が前庭の広さを感じさせる。

これは実景であって、実際のとおりに感覚して快い広がりであると感じている。このとき、垣目や石目地や池、池に生える竹、それに中景の森が遠くに見える山までの視定規として働いている。この竹垣の高さはこの部屋の天井高とほぼ同じ高さで延びていたのだ。

もしも、原野に立って乏しい視定規しかなければ、拡がりというものを実際ほど感じないことになるのだろう。それはなぜかを少し考えてみよう。『生物から見た世界』(ユクスキュル/クリサート共著 新思索社刊)という本がある。それによれば、

「昆虫の視覚空間は、その眼が球状に作られているために、それぞれ1つずつの視覚エレメントに対応する外界の領域は、距離が遠ざかるとともに広がり、それにともなって、外界のより大きな部分が、1つの場所によってカバーされることになる。その結果すべての対象物は、眼から遠ざかれば遠ざかるほど小さくなり、ついには1つの場所の中に消えてしまう。というのは、その場所が最小の空間を表わす容器であり、その内部では区別というものは存在しないからである。」

また、人の眼については、
「……レンズの筋肉が完全に弛むと、眼の焦点は10メートルから無限大へセットされる。10メートルの周囲の内部では、人間の環境世界の事物は、このような眼の筋肉運動によって、遠近が判断される。乳児の場合には、その視覚空間のすべてを包括している最遠平面は、この10メートルの距離で閉じられている。成年においても、視覚空間は6キロから8キロメートルの距離で閉じられ、そこから地平面が始まる。
 ヘルムホルツは少年のとき、ポツダムのある教会の前を通り過ぎた。すると彼は教会の回廊の上に数人の労働者がいるのに気がついた。そこで彼は母親に、あの小さな人形を取ってちょうだいとたのんだ。教会と労働者はすでに彼の最遠平面にあったので、それらはただ小さく見えただけで、遠いところにあるとは思えなかったのである。だから彼が、母親ならその長い手で人形を回廊からおろすことができると思ったのは当然のことだった。母親の環境世界にあっては、教会はまったく異なる次元をもっていて、回廊には小さな人間でなく、遠く離れた人間がいるということが、彼にはわからなかったのである。」


「空間の広がり」とは、視界をさえぎること!?

2006年04月14日 | Weblog
ここでちょっと、「空間の広がり」について書いてみよう。思いついたときに記さないと、すぐ忘れる。歳のせいで記憶の保存期間が短くなった。まあ、こんなふうに突然妙なことを言い出せるのも、ブログのありがたいところだ。

ぼくは過疎な学園都市であるつくばに住まっている。そこにモダン(?)な鉄道が引けて、近所に駅ができた。つくばエクスプレスという。この新線の駅のいくつかの駅舎デザインに、Lという事務所が関わっている。実はこのブログの主、「ロハス気分」の親方みたいなところだ。そのLの責に任ずるわけでもないが、わが駅は「区間快速」までしか止まらず、待つことまるで田舎のバス!

ぼくの駅の周りはガランとして何も無かった。それで初めて分かった! 「空間の広がり」とは、視界をさえぎること!だ。

と、言うと、人はなんと矛盾したことを!と思うかしれない。ぼくはそうは思わない。視界を区切るものがあってこそ、広がりを感じる。原野に立って「開けている」と感じても、「広い」とは感じない。たぶん、その広さを比較する物が無いからである。アンチテーゼとして空間の広がりはあるんだ。

視距離が大きくなるほど、拡がり感は大きくなる。「広がり」は、言ってみれば透視展開面積だ。理論的にはそういうことになるんだろう。考えるうえではより科学的方法だ。

拡がり感=視立体角×視距離+視定規
そういう方程式を立ててみる。視立体角が大きいだけでは広い感じはない。暗黒の闇とか霧、雲のない青空といった、目が焦点を結べないものはだめなのだ。視定規(私の勝手な造語かもしれない)とは、たとえば原野に立つ大木や森、林あるいは放牧の柵や路、思い思いに草を食む家禽たちや森の動物、ぐっと身近で言えば新築した我家のテラスのタイル目地……そう言ったものだ。面倒な論議は、今、これ以上は止しにしよう。思いつくことの備忘録のほうが先だ。

擬視界
これは何かというと、視覚を通じて脳が調整して造り出す広がり、例を言えば風景写真やポスターでの広がりのことだ。この場合、視立体角とは関係なく風景写真などの内容によって広がりを感じたり感じなかったりする。これは実際ではなく、自分の脳が写真を加工して「広いなあ!」と感じてるだけだろう。次に、

擬体験
これは映画など、動画で見る画像から体験する広さである。背景などサイトスケールというか、そういうもののスキャニング(動くネオンサインのような)効果によるのだろうと考えた。荒野の撮影では、東から西へゆっくりとカメラを振ることで、次々と新しい景色を取り込んでいく。観客は、その広大な荒野の中ほどに佇むように実感する。シーンによって、孤独感や明るい希望や自分の小ささをひしひしと感じさせる。この場合も、自分の脳がきっと加工している。

変えたいという意志=空間の創造

2006年03月17日 | Weblog
 デザイナーは少しでもいいデザインで造りたがる。それだけコストは上がりがちだ。デザイナーはコストの上がり方を抑えながら、デザインがよくなることを考えている。シンプルに、しかし美しく……。「シンプル」てのはつまり、案外、コストが上がる矛盾があって、いちばん悩むところだ。「シンプル」が「簡単」と同じでないことは、前回の釘の頭の話で分かったはずだ。

 さて、虫でない僕らが、花を美しいと認めた価値の存在はどこにあったか? 蜜がうまいかは関係がない。どんな形の花が美味しい蜜を持つかも関係ない。散歩に出て見かけた花は清々しい。これは気分の問題だ。人がそこへ出かけて見る花に夜桜がある。一面の花びらの中に埋まるようにして自分があることが、嬉しい。むろん、満開の花は美しい。夜桜の下にゴザを敷いて、ビールの栓を抜いて、盃に酒を満たして始めることは結局、「美」とは関係ない。しばらくは花も眺めるが、そのうち花など見もしない。いつの間にか目的が変わっている。花より団子、美より食欲だ。花と「空間」とは関係がなくなる。人間と人間との関わりだけになる。ときにケンカも始まる。

 花のところへ出かけるのでなく、花を採ってきて、友人らに贈ったりもする。これは何の意味か? これも、大いに「心」に関係しそうだが、「空間の美」とは直接に関係はなさそうだ。花は「美しい」から、贈れば貰った人の「心」が喜ぶ。この花の美と空間の美とは異なるのだろうか。どこがちがう? 花は空間のどこか決まったところに置かれようとする。で、花は空間を変えるか?

 大いに変える。
 厳粛、華やかさ、喜び、そういったものを表現するために式場、壇上、旅館やホテルのホワイエと云ったところに置かれて、確かに効果的だ。人をその気にさせる。雰囲気を高める。病床の脇に置かれた花が傷心を慰めてくれる。
 この、空間に置かれた花のように、空間に置かれた建築でないものが、それほど露骨に華やかでなくとも、建築やインテリアの空間の質を変えることがある。仏に目を入れたように変わることが……。彫像・絵画・置物といったもので、一般に「オブジェ」と呼ばれる概念に近いが、それを私は「環境工芸品」と呼び、これを産み出す作業を「環境工芸」と呼ぶことにしている。「オブジェ」のように、見られること自体が目的で単独に味わうものでなくても、空間と一体になって溶け合い、空間の質を変えるものをいう。

 それを、心にのみ作用するものとして、たとえば公園のベンチ(いわば環境整備品)などとは区別している。「芸」がつくだけ違う。何か役に立てようという、はっきりした実用上の目的というものが無い。無ければ無くてもよいものであるが、在ることによって格段に空間の質を変えるものである。どう変えたいという意志を持ったときに、空間の創造ということになる。

より優れた「空間」を喜ぶ本能

2006年02月11日 | Weblog
 ファミレスで、ぼくの行きつけのココスが、こんど全面改装になった。こんどは仕切りが多くある。仕切りには押し縁でガラスがはめられている。押し縁を留める釘の、ちいさな光る頭が並んで見えている(安直な仕上げだな。でも、大方こんなものだ)。
 どうせ打つなら、きちんと並べて打つ。透明に透けて見える硝子の向こう側と、2本ずつペアになって、それで、デザインにも見える。

「デザイン」を感じると、「必要で打った」ということを忘れさせる。1本だけ打ち忘れがあると、かえって気になる。きちんと並べることが美を産む。必要でそこに在るものは、「必要」が実は美の元になる。では、何でも必要なら美しいのか? それならなにも、デザイナーに頼むことはない。行き当たりばったり、釘でも膏薬でも貼ればいい。
 インテリアで気をつけることといえば、あまり雑多な物が入り込まないことだ。釘やビスの頭が見えているのは本来なら見苦しい。必要なものは必要として美しく存在させるとよい。

 茂みに花をつけるのは、虫たちに来て欲しいからである。きちんと刈り込んだ植え込みの、緑の葉の茂みにあって、白の花はもともと異質である。同じ純白でも、ティッシュペーパーなんかが引っ掛かっているのは見たくもない風景だ。
 なぜ、花ならいいのか。花は必要で咲いている。白い色をして虫さえ来てくれればいいのに、5枚の花びらは5枚、きちんと並んでいる(きれいに並ぶ必要もなさそうに思うが……)。虫はこれを美しいと喜ぶのだろうか? でも、虫はきれいに揃っている花ほど健康な蜜が吸えると知っている(たぶん)。だから、花のほうも真面目に、きちんと揃った花弁をつける。その結果、「まあ美しい!」と感激するのが虫でなく人間であっても、花にしてみれば、きっとどうでもいいことだ。虫たちが「美しい」と感じるかどうかは知らないけれど、ぼくらはそれを美しいと見る。そんなふうに僕らはできていて、その本能だか本性だか知らないけれども、より優れた「空間」というものを喜ぶ。

 虫たちが花に認める価値と、人が認める価値とはたぶん異なる。虫には蜜を採るという目的があって、人には眺めるという目的がある。不揃いだったり枯れていたりしては美しく(好ましく)ない点は、双方一致だろう。畢竟、ぼくらが空間のことを考えるときには、その空間のどこに、どんな点に価値を認めるか、ということになる。
 釘の頭はやはりもう少し改善の余地がある。本当なら押し縁自体も視覚的にはないほうがよい。押し縁を使うとしても、釘の頭を見えなくするには、押し縁をぱちんとはめ込むようにすればよいだろう。そうすると、そういう形に押し縁も、押し縁のつく側も加工する必要がある。少し手間を喰う。つまり、施工コストが上がる。そのせめぎ合いだ。

「人間工学」を辞書で引いてみたが……

2006年01月13日 | Weblog
「身体の空間」に入ろう。

 もう、ぼくが書く前から、読み手のほうで、ああだろうこうだろうと、予想や希望が浮かんでるかもしれないな……。「身体の空間」と言えば、すぐ、「身体に楽な」ということになるだろう。体の休まる、疲れない、と言えば、たぶん君にもピーンと来た「人間工学」が答えを与えてくれるかな。立つとき、歩くとき、ゆったりと座っているとき……。う~ん、すぐ、気の利いたことが浮かんでこないときは、辞書でも引いてみよう。

 B5サイズで8センチの厚みがある『日本語大辞典』(講談社)で「人間工学」を引いてみたらこうある。
「Human engineering 機械や道具を人間にとって使いやすく設計するため、医学や心理学および工学などの境界領域に生まれた新しい学問。エルゴノミクス」
 で、「エルゴノミクス」を引いてみると、
「エルゴノミクス ergonomics人間工学」
 と書いてある。引いてみたのがバカみたい!
 すこし小さいA5サイズ、厚みは同じくらいの『広辞苑』第3版(岩波書店)には、こうある。
「人間と人間の取り扱う機械とを1つの系(人間-機械系)として考え、その関係を医学・物理学・工学の各方面から研究して、人間の生理的心理的特性に適合した機械を設計することを目的とする学問。アーゴノミクス」
 と、小型のわりにすこし詳しい(詳しいわりに、わかりにくい!)。で、「アーゴノミクス」を引いてみると、こちらは……ない。「エル」と「アー」は発音でゲルマンとブリティッシュの違いだろう。

 どうやら、機械を設計するときとか、工場を設計するときに気をつけるべき心得というようなものらしい。椅子やベッドやキッチンを設計するうえで、勉強しておくほうがいいことらしい。どうも「空間」という概念論とは、かけ離れているようだ。
 人間工学的には、あとはもう空間にしろ、家具にしろ、必要な設計ごとに各論的に自分で考えろということか。そんなときに、人体がどんな風に動き、どんな空間を占めるかを参照するのにいい本がある。デザイン系のひとは学校で目にしたかもしれないが、挙げておこう。計測値のデザイン資料『人体を測る』(小原・内田・上野・八田共著、日本出版サービス刊)。これはいい本だ。

 まてよ。こんなことはみんな、デザイナーに任せておけばいいことだ。依頼者としてはただひと言、「疲れない空間を頼むよ」と言いさえすればよかろう。
 
あとは、また次に。

人体を測る―計測値のデザイン資料

【資料】
●紀元前1世紀のローマのM・ウィトルヴィウス『建築十書』
「神殿の構成美は均整によって決まってくる。容姿の立派な人間のように、各部分が均整をもって割り付けられていなければならない」
●エルンスト・カップ(1808~96)技術哲学者
●『手と機械』F・ヘリッヒ ドイツの研究者
●黄金分割 golden section 1:1.618
●The nude (円に内接して人体を描いたもの)K・クラーク 

空(間)論へのインビィテーション

2005年12月27日 | Weblog
 ブログの原稿を頼まれてしまった。固辞する間もなく、お世辞の雨あられ……。話下手のぼくは固辞し得なかった。かくなるうえは、ほんとうに文章も下手だと知ってもらえたら、そのうち匙を投げてくれましょうぞ。

 テーマを「空間」と指定された。固い……。ぼくは根が固いんで、性に合っては、いる。得意のはずが、「自分だったら……」と考える。固いものなんか読みたくもない。誰だってそうだろう。でも、ぼくの知ったことじゃない。文句あるなら、そんなテーマを与えた側に言ってくれたまえ。

 それにしても、「空論」とはいいタイトルだ。あれっ、空間論と書くべきが、空論となっちまった――まったく‘間’抜けな話だ! だが、こんなぼくにピッタリな題はないな!――。

 で、空間か……。その対象を「(その空間を)使う側の……」から始めてみようかな。なにせブログだから、これからどう展開するか、自分にも分からない。あらかじめ、こんなことを書いてやろうという綿密な計画は、今、皆無だ(いつ首になるか分からないし……)。それが済んだら、「提供者側の…」へ進んでみようかしらん。

 それから、空間についてぼくなりに、「どんな……」、「どこの……」と疑問を広げてみようかと思う。そのとおりに行くか、先のことは知らない。どだい、空間たって、どんな種類のとか、何のためとか、顧客の需要とかいうものを考えながら、提供してもらう権利が(空間づくりを頼む)客側にはあるはずだろう。

 ぼくは、空間の提供者としての仕事を、これまでして来ている。しかし、今は、その空間を使わせてもらう依頼者側に気持ちは立つわけだ。なるほど、ちょっといい気分である。それで、つぎのシチュエーションは「どんな……」だ。それを、心のか、身体のか、仕事のか、見栄のか、と移ってみたらどうだろう。取っ掛かりから「心の……」はしんどそうだから、その次の「身体の空間」から入ろうかな。

 というところで、いっぱいになった。あとはこの次に……。