梅様の教室

独り言

30年代ー2

2011-10-26 15:30:04 | Weblog
 できれば30年代ー1から順に読んでください。
 
 ここからは以前に書いた内容と一部重複します。
  私の家のまん前は、立派な日本家屋でした。洪水に備えて敷地全体を高くしてあり、建物はぐるりと縁側で囲まれ、庭には立派な枯山水がありました。もともとは江東区で鉄工場を営んでいた人が別荘!として建てたもので、風呂は五右衛門風呂でした。しかし既に没落したその家では、奥さんが洋裁の内職をするかたわら、応接間を下宿に貸出し、庭に建てた小屋に毛の生えたような貸家からの収入と合わせて生活していました。ある日私の母がその家から帰って来て言いました。
  「つい便所を借りてしまったのだけれど、申し訳ないことをしてしまった。あの家ではまだお尻を拭くのに新聞紙を使ってた・・・・」
  貧乏だと思っていた我が家ですらトイレにはちり紙を使っていたのに、立派なお屋敷の住民はちり紙を買うお金も惜しかったのです。ちなみにこのお屋敷が私が住んでいた家の大家さんなのですが、家賃は2,000円。これではどうにもなりません。

  さて、そのお屋敷の庭に建てた貸家の一つにはAちゃんが住んでいました。Aちゃんには母親と、入籍していない義理の父親と、義理の父親の娘である妹がいました。妹は先天性股関節脱臼で、恐ろしいまでのガニ股にでチンパンジーそっくりの歩き方になっていました。金銭的に余裕がなかったのか、いつまでたっても手術を受けないままでいた姿が子供心にも痛々しく感じられました。

  Aちゃんはこの妹を実の妹同様に、いやそれ以上にこの上なく可愛がっていましたが、義理の父親は実の子である妹だけを可愛がっていました。ある日Aちゃんの母親は仕事がなかったのか(夫婦は二人とも日雇いの人夫をして生計を立てていました。)昼間から酒を飲んで相当に酔っ払っていました。ろれつが回らない舌で、横丁中に聞こえるような大声で、Aちゃんにつらく当たる男の悪口を叫び続けていました。

  Aちゃんの家は昼間は人がいません。したがってトイレを利用する率はほかの家よりも少なかったのですが、なぜかAちゃんの家のトイレだけはあふれていることが多かったことを覚えています。汲み取り式の時代です。容量の限界を超えた汚物は汲み取り口から外の道路へあふれ出てきます。真夏の太陽に照らされた汲み取り口の光景は今でも忘れてはいません。
  
  Aちゃんの家には水道がありませんでした。大家さんの家まで行って水を分けてもらい、水甕に入れておくのです。日雇いの仕事の収入がどれほどあったのかわわかりません。ある時我が家で母が表に干しておいた沢庵のうち一本が、下半分だけ切り取られてなくなっていました。近所の人たちは間違いなくAちゃんの母親の仕業だと言いあっていました。彼女は以前、近所の庭のみょうがを垣根の外から手を突っ込んで盗んでいるところを目撃されていたのです。私の母も彼女の犯行だと思っていたようですが、物が大根一本の下半分という悲しい窃盗なだけに、問題にする気にさえならなかったようでした。ちなみにAちゃんの家は私の家の真向かい、みょうがの家は私の家をはさんでその反対側に位置していました。そんなこんなで私の母は私がAちゃんと遊ぶことを禁止していました。

  Aちゃんの唯一の慰めは飼い犬のコロでした。極度に貧しい家庭だったはずですが、犬を飼っていました。近所の人の臭いはしっかり嗅ぎ分け、塀の隙間から垂らした尻尾をゆっくり振ってあいさつしてくれましたが、見知らぬ匂いには敏感に反応して吠えていました。そんなコロがある日交通事故に遭いました。どうやら300メートルほど離れた場所で自動車にはねられてしまったようなのですが、ひどい負傷を負い、頭蓋骨が陥没していました。そして、その300メートルを必死の思いで帰ってくると、Aちゃんの腕の中で息を引き取りました。Kちゃんは生まれて初めて声を上げて泣きじゃくりました。

  Aちゃん一家はその後都営住宅の抽選に当たり、気がついた時には引っ越してしまっていました。都営住宅の家賃の方がずっと負担が大きくなったはずなのですが、Aちゃんは高校へは行かずに働き始めたはずなので、それも当てにしてのことだったのAもしれません。その後のAちゃんについてはまったく消息が分からなくなってしまいました。

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