今回のテーマは兜跋毘沙門天像が造られた動機がホータンの歴史を調べたことから見
えてきました。その推理と兜跋毘沙門天を掌でささえている地天女の関係。この地天
女が日本では謎解きの重要な役目をしているらしいと気がつきました。
9世紀の初め頃に最澄(766~822年)が開いた比叡山の文殊堂(別名毘沙門堂)に二体
の兜跋毘沙門天像が安置されていましたがその像は「屠半さま」と呼ばれていました。
我が国では「兜跋」が「都鉢・都跋・刀八」などと表記されていました。この表記から
「吐蕃」を連想することは無理でしょう。
吐蕃とは漢文史料でチベットを指して言う場合に用いられた名称です。
吐蕃王国(617~846年)はソンツェンガンポ(在位630~650年)がラサ城を都にしたチ
ベット初の統一王朝でした。様々な民族がオアシス小国を営んでいた西域で7世紀の王朝
は古代とは言えませんが、この地一帯を占めていた民族は古代民族で青海地方から甘粛、
陝西に分布し農業と牧畜を営む「羌(きょう)」と呼ばれる人々でした。羌は羊と人を
合成した字と言われています。一方陝西から四川方面に分布していた「氐(てい)」と
呼ばれた人々がおり、氐と羌が現在のチベット人の源流であると言われています。
チベット系の王国は4世紀頃に「吐谷渾(とよくこん)」が現われますが支配民族はモン
ゴル系鮮卑族慕容部でした。吐谷渾は同じ鮮卑系の北魏や漢民族の南朝と交易し8世紀頃
まで続きましたが663年チベット高原内陸部に興った吐蕃に攻撃され唐から援軍が派兵さ
れても8世紀中頃には完全に滅ぼされてしまいます。
唐では755年安禄山の乱がおき洛陽や長安が陥落してしまいました。玄宗皇帝は河西、安
西、北西などに駐留していた軍隊を呼び戻した為に西北地区の兵力が失われました。チベ
ット高原の吐蕃はこの機に乗じて青海を北上し764年涼州を占領したのを皮切りに次々に
西域を占拠、786~848年まで吐蕃は敦煌を統治するようになりました。吐蕃王朝の最も
強盛だったのは755~796年にかけてで9世紀の初め頃には于闐(ホータン)も吐蕃の手に
落ちました。
于闐が吐蕃の統治から独立したのは恐らく沙州の張義潮が反乱(848年)を起こした後だ
ろうと考えられています。
吐蕃の歴史を大雑把に辿りましたが西域で吐蕃王朝が最も輝いていた時期に、兜跋毘沙門
天像が海東の日本に将来されました。おりしも日本では新しい京が誕生したばかり、平安
京の正門である羅城門に兜跋毘沙門天像を安置し、鬼門にそびえる比叡山には王城鎮護の
寺ができ最澄によって兜跋毘沙門天像が祀られます。都の北方には毘沙門天を本尊とする
鞍馬寺が建てられました。平安京は毘沙門天に護られた特別な京として計画造営されたよ
うにさえ見えます。いったい何故でしょう?
この疑問を解くきっかけは兜跋毘沙門天を掌にのせ地中から半身を顕している地天女の
存在でした。
地天とは仏教の世界で八方位と天地、さらには日月までを含めた全宇宙を護る護世神の
「十二天」のひとりで原名は「プリティヴィー」といい、地上、地下、樹下や荒野、砂漠
に棲む一切の鬼神のリーダーだとされており、大地そのものの神格化した神です。
地天女のイメージから思い浮かんだのは玄弉三蔵が著した『大唐西域記』中の「瞿薩旦那
国(クスタナ国・ホータンの古名)」の建国神話でした。
毘沙門天の国で王に子がなかったので毘沙門天廟に祈ったところ、廟神の額が割れ男の
子が産み出されました。生まれ出た子は乳を飲まないので困っていると廟の前の大地が
ふくれて乳のようになりそこから甘く香ぐわしい液が出て来ました。その子に与えたら
飲んだので無事に養うことが出来ました。その子は成長し、王が崩じた後に王位を継ぎ
ました。その国は先祖がもと地乳で育てられたので「地乳(クスタナ)国」といい、そ
の子孫が統治しているのです。
これに似た説話はチベットの『于闐国授記』『于闐教法史』などにも書かれており、この
伝承はチベット人に広く受け入れられていたものと思われます。
8世紀から9世紀にかけて敦煌や于闐(ホータン)を唐の支配から吐蕃(チベット)の手に
取り戻した時にチベットの仏教僧は建国神話の毘沙門天と地天女(大地母神)を一体化し
た兜跋(突発=吐蕃=チベット)毘沙門天像を考案したのではないでしょうか。
「掌上明珠(しょうじょうめいじゅ)」という熟語があり、意味は「手のひらに載せたきれ
いな珠玉のように大切にされている人間。特に父母が可愛がっている子供についていう」。
この熟語のように大地母神がはぐくんだ建国神話をもつ故国を武力で奪還できたチベット人
の誇りと喜びを兜跋毘沙門天は顕しているようです。
ところで日本では平安時代になると兜跋毘沙門天像の地天女を写しとったような女神像を
作りはじめます。
知られている日本の女神像他を集めてみました。
神名の不明なものもありますが、もっとも多いのが神功皇后像(息長足姫)と中津姫命像
ですが僧形八幡像とセットの場合があり、八幡神とその母(神功皇后)その妻(中津姫命)
という八幡ファミリーが薬師寺休岡八幡宮・東大寺元手向山八幡宮・東寺八幡宮・島根の
赤穴八幡宮と有名社寺に祀られています。その他の像は熊野速玉神社や松尾大社にもあり
これらの神像の背景にあるもの、八幡神の祭祀氏族、神功皇后の出自、熊野神社、松尾
大社、出雲などが考えられ、これらに共通して関わるのが新羅と渡来氏族の秦氏のようです。
はたして兜跋毘沙門天が護る都、平安京をつくったのは秦氏でしょうか?
えてきました。その推理と兜跋毘沙門天を掌でささえている地天女の関係。この地天
女が日本では謎解きの重要な役目をしているらしいと気がつきました。
9世紀の初め頃に最澄(766~822年)が開いた比叡山の文殊堂(別名毘沙門堂)に二体
の兜跋毘沙門天像が安置されていましたがその像は「屠半さま」と呼ばれていました。
我が国では「兜跋」が「都鉢・都跋・刀八」などと表記されていました。この表記から
「吐蕃」を連想することは無理でしょう。
吐蕃とは漢文史料でチベットを指して言う場合に用いられた名称です。
吐蕃王国(617~846年)はソンツェンガンポ(在位630~650年)がラサ城を都にしたチ
ベット初の統一王朝でした。様々な民族がオアシス小国を営んでいた西域で7世紀の王朝
は古代とは言えませんが、この地一帯を占めていた民族は古代民族で青海地方から甘粛、
陝西に分布し農業と牧畜を営む「羌(きょう)」と呼ばれる人々でした。羌は羊と人を
合成した字と言われています。一方陝西から四川方面に分布していた「氐(てい)」と
呼ばれた人々がおり、氐と羌が現在のチベット人の源流であると言われています。
チベット系の王国は4世紀頃に「吐谷渾(とよくこん)」が現われますが支配民族はモン
ゴル系鮮卑族慕容部でした。吐谷渾は同じ鮮卑系の北魏や漢民族の南朝と交易し8世紀頃
まで続きましたが663年チベット高原内陸部に興った吐蕃に攻撃され唐から援軍が派兵さ
れても8世紀中頃には完全に滅ぼされてしまいます。
唐では755年安禄山の乱がおき洛陽や長安が陥落してしまいました。玄宗皇帝は河西、安
西、北西などに駐留していた軍隊を呼び戻した為に西北地区の兵力が失われました。チベ
ット高原の吐蕃はこの機に乗じて青海を北上し764年涼州を占領したのを皮切りに次々に
西域を占拠、786~848年まで吐蕃は敦煌を統治するようになりました。吐蕃王朝の最も
強盛だったのは755~796年にかけてで9世紀の初め頃には于闐(ホータン)も吐蕃の手に
落ちました。
于闐が吐蕃の統治から独立したのは恐らく沙州の張義潮が反乱(848年)を起こした後だ
ろうと考えられています。
吐蕃の歴史を大雑把に辿りましたが西域で吐蕃王朝が最も輝いていた時期に、兜跋毘沙門
天像が海東の日本に将来されました。おりしも日本では新しい京が誕生したばかり、平安
京の正門である羅城門に兜跋毘沙門天像を安置し、鬼門にそびえる比叡山には王城鎮護の
寺ができ最澄によって兜跋毘沙門天像が祀られます。都の北方には毘沙門天を本尊とする
鞍馬寺が建てられました。平安京は毘沙門天に護られた特別な京として計画造営されたよ
うにさえ見えます。いったい何故でしょう?
この疑問を解くきっかけは兜跋毘沙門天を掌にのせ地中から半身を顕している地天女の
存在でした。
地天とは仏教の世界で八方位と天地、さらには日月までを含めた全宇宙を護る護世神の
「十二天」のひとりで原名は「プリティヴィー」といい、地上、地下、樹下や荒野、砂漠
に棲む一切の鬼神のリーダーだとされており、大地そのものの神格化した神です。
地天女のイメージから思い浮かんだのは玄弉三蔵が著した『大唐西域記』中の「瞿薩旦那
国(クスタナ国・ホータンの古名)」の建国神話でした。
毘沙門天の国で王に子がなかったので毘沙門天廟に祈ったところ、廟神の額が割れ男の
子が産み出されました。生まれ出た子は乳を飲まないので困っていると廟の前の大地が
ふくれて乳のようになりそこから甘く香ぐわしい液が出て来ました。その子に与えたら
飲んだので無事に養うことが出来ました。その子は成長し、王が崩じた後に王位を継ぎ
ました。その国は先祖がもと地乳で育てられたので「地乳(クスタナ)国」といい、そ
の子孫が統治しているのです。
これに似た説話はチベットの『于闐国授記』『于闐教法史』などにも書かれており、この
伝承はチベット人に広く受け入れられていたものと思われます。
8世紀から9世紀にかけて敦煌や于闐(ホータン)を唐の支配から吐蕃(チベット)の手に
取り戻した時にチベットの仏教僧は建国神話の毘沙門天と地天女(大地母神)を一体化し
た兜跋(突発=吐蕃=チベット)毘沙門天像を考案したのではないでしょうか。
「掌上明珠(しょうじょうめいじゅ)」という熟語があり、意味は「手のひらに載せたきれ
いな珠玉のように大切にされている人間。特に父母が可愛がっている子供についていう」。
この熟語のように大地母神がはぐくんだ建国神話をもつ故国を武力で奪還できたチベット人
の誇りと喜びを兜跋毘沙門天は顕しているようです。
ところで日本では平安時代になると兜跋毘沙門天像の地天女を写しとったような女神像を
作りはじめます。
知られている日本の女神像他を集めてみました。
神名の不明なものもありますが、もっとも多いのが神功皇后像(息長足姫)と中津姫命像
ですが僧形八幡像とセットの場合があり、八幡神とその母(神功皇后)その妻(中津姫命)
という八幡ファミリーが薬師寺休岡八幡宮・東大寺元手向山八幡宮・東寺八幡宮・島根の
赤穴八幡宮と有名社寺に祀られています。その他の像は熊野速玉神社や松尾大社にもあり
これらの神像の背景にあるもの、八幡神の祭祀氏族、神功皇后の出自、熊野神社、松尾
大社、出雲などが考えられ、これらに共通して関わるのが新羅と渡来氏族の秦氏のようです。
はたして兜跋毘沙門天が護る都、平安京をつくったのは秦氏でしょうか?