ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 残菊と白鳥 26 秦下嶋麻呂のチャンス

2016-01-25 19:51:32 | 日本文化・文学・歴史
昨年来世界的に空爆やテロ、自然災害など凄惨なニュースが続いています
が、テレビで見る日本の光景は正月のせいもあるのでしょうが、不思議の国
日本を目で見、舌で味わい、心でも体験する多くの外国人の姿が映し出され
ており、日本は平和でいいなあ~と思います。

訪日外国人の一番人気は京都の伏見稲荷大社だとか!
現在の伏見稲荷では『伏見稲荷神符』を一切表に出さないようですが、この
神符が<絵解きの暗号である>と知ったなら面白がる外国人は多勢いると思
います。が、言葉の壁がある上に、出雲や日本の成り立ちを知らないと解け
ない謎ですから理解するのはよほど日本通でなければ無理でしょうね。

京都の伏見稲荷大社の創始は和銅4年(711年)山背国深草に住む渡来氏族で
ある秦中家忌寸の祖・伊侶俱と伝えられておりますが、平安京の礎を築いた
のは葛野に居住した秦下嶋麻呂であろうと思います。

前々回のブログでは、藤原不比等の子息4人の内の式家・宇合(うまかい)の
子息・綱手と清成にふたりの娘を嫁がせた秦朝元(藤原種継の外祖父)につい
て数奇な生涯を紹介しましたが、今回は造宮録(ぞうぐうさかん)正八位下と
いう下級官吏から従四位下と十四階級を特進し、このチャンスを逃さず藤原北
家・房前の子息である鳥飼に娘を嫁がせ、50年後には秦氏の居住地が都となる
ように深廬遠望を図ったと思われる秦下嶋麻呂についての考察です。

秦氏の渡来については記紀にも記されており、氏族名としては割合に有名です
が、具体的な名前や人物像、活動歴の伝わる人は少ない中で「秦下嶋麻呂」は
『続日本紀』天平14年8月の記事に於いて「大宮の垣を築いた功績」により時
の聖武天皇により「正八位下から従四位下」まで14段階を一挙に昇進し、しか
も秦氏の族長に与えられる「太秦公」の姓を賜り、また銭一百貫、あし絹一百
疋、布二百端、綿二百屯を賜ったと記されている。

「大宮の垣」とは聖武天皇(在位724~749年)が平城京から恭仁宮に遷都した
ものの垣のない旧宮であった。そこで造宮録である嶋麻呂に垣を造る要請があ
り、秦氏の財力、秦の民の労力を惜しまず投入しわずか半年で宮垣を完成させ
たらしい。

聖武天皇は東大寺の大仏を造り、たくさんの寺を営み、天下の富の半ばを失っ
たと言われるほど財政は逼迫していたにもかかわらず、平城京→恭仁京(741
年)→紫香楽宮(742年)→難波京(744年)→平城京(745年)と四度も宮処
を変えました。この落ち着きのなさは藤原広嗣(宇合の子息)が740年に九州
で挙兵した「広嗣の乱」が引き金になったと言われていますが、広嗣の乱は
政権をにぎっていた橘諸兄の悪政に立ち向かい、疲弊する人民の救済を訴える
ものだったが朝廷軍にたちまち制圧されており、藤原家の同調者にも幾人か
犠牲者があった。
万葉集には広嗣の和歌
 「この花のひと節のなかに百くさの言ぞこもれるおほろかにすな」
が残されており憶良の「秋の七草」に呼応しているように私には感じられます。

藤原広嗣がなぜ挙兵に及んだのか、それには藤原家に起こった不幸な出来事が
関係していると思われます。
735年に帰国した遣唐使か、737年に来た新羅使かが持ちこんだといわれる天然
痘が都にも蔓延して、不比等の子息たち四兄弟・武智麻呂(58才)良房(57才)
宇合(47才)麻呂(44才)がつぎつぎに感染し737年に全員亡くなってしまいま
した。残された子世代はまだ若く御曹司といえども官位は低く、朝堂に列する
ことはかなわなかったことでしょう。

この期に台頭してきたのが橘諸兄(684~757年)でした。737年大納言。738年
右大臣に登りつめました。一方若い藤原広嗣は731年従五位下。738年には太宰
少弐へ左遷されており、藤原家の将来に危機感を持ったと思われます。

橘諸兄は聖武天皇の皇后・光明子の母である県犬飼橘三千代が前夫・美努王と
の間に生んだ子で母が賜った橘姓をなのっていました。
737年に蔓延した天然痘によって権力の中枢にいた藤原家の四兄弟が亡くなり、
その空白に台頭したのが宮中で絶大な権力をふるったといわれる橘三千代の
息子でした。
興味深いことに恭仁京は橘諸兄の墓のある井手(奈良から京都へ向かう途中の
木津川沿いにある)や諸兄の祖父は敏達天皇系王族の栗隈王であるが、井手に
隣接して古代には栗隈郷があるのでこのあたりは栗隈王→美努王→諸兄と伝来
した料地だったのではないかとおもわれます。
聖武天皇が遷都した恭仁京は橘王朝をもくろんだ橘諸兄の発案だった可能性も
ありそうです。

このような時代に秦下嶋麻呂は従四位下という官位を得、参議として太政官の
構成員になれたのです。秦朝元は藤原宇合の知己を得て秦忌寸の姓を得、731
~734年には遣唐使判官として渡唐、735年には外従五位上・主計頭となってお
り、この頃には娘を藤原宇合の子・清成に嫁がせ、736年には図書頭となり、後
に桓武天皇の寵臣となる藤原種継が誕生しています。
同時代に生まれ、渡来系秦を名乗る同族でもある朝元と嶋麻呂にどの程度の交
流があったかは判りませんが、従四位下の官位を得た嶋麻呂には朝元のように
あるいはそれ以上の権威を得たいという野望が芽生えたと思われます。
さらに秦氏の族長「太秦」となった嶋麻呂には伝承されてきた古の秦国の王族
の末裔というプライドが「山城の葛野を宮都に」「皇統に秦氏の血を」とふく
らんでいったとて不思議はありません。
幸いに娘もおり、藤原北家の御曹司・小黒麻呂を婿に迎えることに成功し、葛
野麻呂が生まれます。しかし嶋麻呂は747年に亡くなっており、孫の顔を見る事
はかなわなかったかもしれません。

太秦嶋麻呂の50年来の夢「平安京」を実現させたのは孫の葛野麻呂でした。


















































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