ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

東日本大震災 怨霊に祟られた桓武天皇 3

2011-06-19 08:49:42 | 日本文化・文学・歴史
772年井上(いがみ)皇后は光仁天皇を呪詛(呪い殺すためのまじない)した罪で突然皇后の座を
奪われる。少々信憑性に欠けるという評判ではあるが、平安末期に成立した『水鏡』という歴史
書からあらましを紹介しよう。

 天皇を早く死なせて我が子他戸(おさべ)皇太子を帝位につかせたい井上皇后が「まじわざ」を
して井戸のなかに何かを入れたのを藤原百川が発見した。
また、皇后の側近8人が非道な事をしているので天皇の許可を得て罰したところ、皇后は天皇の所
に押しかけてきて天皇を罵ったという。それを聞いた百川が「皇后をしばらく閉じ込め謹慎させま
しょう。また皇太子も素行が悪いので世のために良くないことです」と進言する。
そこで処遇をまかされた百川は皇后位を取り上げようと井上に迫ったが一向に聞く耳をもたずに呪
詛を繰り返し天皇への暴言を止めようとしなかった。困惑する天皇に百川は「皇太子もしばらくの
間退いてもらって心を鎮めてもらうのはいかがですか」と言うので、天皇が了解すると百川は偽の
宣明を作って一挙に皇后と皇太子を廃してしまう。天皇は心中悔やんだが光仁天皇即位に世話にな
っている負い目から了解せざるを得なかった。

『水鏡』では忠臣・百川が天皇のために悪女と悪童の井上親子を排斥したように書かれているが、
当時64歳といえば老齢の部類にはいるわけで、聖武天皇のように我が子へ譲位する前例もあり、呪
詛する必要はないと思われる。まして他戸皇太子はまだ12歳の少年である。宮中という籠の鳥状態
で12歳の少年の素行の悪さなどたかが知れている。もし井上皇后が呪詛を行うとしたら、弟の安積
親王を毒殺した疑いのある藤原仲麻呂や光明子へまず向けられたろう。そのような気配は無いので
井上皇后と他戸皇太子を何としても廃したい藤原百川らの仕組んだわなのように思われる。

『水鏡』には色欲に溺れた悪女・井上をアピールする記事がある。

 天皇と皇后とが博打で遊んでいたおりに「私が負けたら皇后へ壮年の男をあげよう。皇后が負け
たら美女を斡旋してくれ」と天皇が賭けたところ、皇后が勝ってしまう。その後皇后は約束通りに
男を要求し続けたので、天皇は冗談だったのにと苦り切っていると「それなら山部親王(後の桓武
天皇)をあげなさい」と百川がいうので、父の命令と説得し山部親王を皇后の元へ行かせると、56
歳になる皇后は36歳の山部親王を溺愛し、手放さなかったので天皇は苦々しく思ったと記している。

この説話にも藤原百川が登場し天皇夫妻の不仲を印象づけようとしている。現代なら56歳の女性と
36歳の男性とのカップルはまれにあるが、10代半ばから20代が女盛りとされる時代に56歳の女性の
色欲とは信じ難い。山部親王を皇太子にしたい百川が井上を悪女にしたいがために流した風説で
あろう。幽閉された没官宅で同じ日に二人は亡くなっている。殺されたのか自殺したのか正史は
語らない。が、二人は怨霊となって生き続けることとなる。

その後、都では異常な現象が続き、暮れには藤原百川や光仁天皇の夢にたびたび冥界からの使者か
百人ばかりの鎧兜をつけてあらわれ二人を探しだそうとしたので、これは井上親子の死霊の仕業だ
と思い、光仁天皇は諸国の国分寺で金剛般若経を読ませたという。

『続日本紀』の記事を拾うと
 宝亀7年(776年)5月末 災変がたびたび起こるので大祓をし600人の僧をして宮中、朝堂で
              大般若経を読ませた
           9月  20日ばかり毎夜、京中に瓦石土塊が降った
 同 8年(777年)3月 宮中でしきりに妖怪が出るので大祓えをし、多数の僧を呼んで宮中
              で大般若経を読ませた

などの怪異現象が記録されている。
現代の常識では、怨霊の力で土石が降るとは信じがたく、多分竜巻が頻発する異常気象のとしであ
ったと思われる。私は20代のころ小さな竜巻を目撃したことがある。まさに一天にわかに掻き曇
り、雷鳴がし、風の唸りと共に木の葉や諸々の物が巻きあがっていく光景はじつに恐ろしかった。

 宝亀8年(777年)9月 井上廃后に百川とともに暗躍した内大臣・藤原宿奈麻呂(良継)が
              62歳で死亡。この冬には雨が降らず井水が涸れ宇治川の水まで涸
              れそうであった。
              また、山部親王が不予(病気)になった。

このような怪異現象は井上内親王の死霊が原因と怖れた朝廷は同年12月に井上の墓を改装し墓守
を置いた。

山部皇太子の病状は現代の診断でいえば精神的に不安定なノイローゼ状態が続き、翌9年の朝賀も
中止する有様であった。このような事態に井上の墓をさらに改装し、剥奪された二品の位に復位さ
せたりもしたが一向に回復せず、一年ちかくも鬱々とした日々であった。
  
山部皇太子が不予の間に怨霊を鎮める様々な試みもなされている。
淡路島で墳死した淳仁廃帝の墓を改装したり、病気平癒の祈願、天下に大赦を施し、伊勢神宮や
諸神への勅使派遣、畿内の各所に疫神を祀ったりあらゆる試みがなされたが、伊勢神宮への参拝を
果たした後に回復したらしく山部皇太子の不予の記事はなくなる。

 宝亀10年(779年)7月 参議従三位・藤原百川死亡。

井上内親王にとって最も憎むべき相手であろう藤原百川はどのような最後を迎えただろうか。
『水鏡』によると、
 ある陰陽師が宝亀10年(779年)7月に「この月の9日は厳重に物忌みすべし」と百川に告
げたところ、百川もこのところ夢見が良くなかったのでその忠告を守って戸を固く閉ざして籠って
いた。一方数年来百川に頼まれ加持祈祷をしていた僧の夢に「井上皇后を殺したことによって百川
の首を斬ろうとしている人」が出てきたので驚いて目が覚め、すわ御注進とばかり駆けつけたが、
百川は陰陽師の言いつけを守って戸を開けようとせず僧があきらめて帰ると、その日のうちに百川
は急死したという。

百川は48歳というまだ寿命と言うほどの年齢ではなかったので井上内親王の祟りと噂された。
このような怨霊による祟りとされる現象は桓武天皇から七代にわたって続き、貞観5年(863年)
清和天皇によって修された祇園御霊会の直接の原因となった。











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