4月11日(水)、銀座7丁目の「じゃぽね」という居酒屋で、久しぶりに高校時代の同窓生11人にめぐりあった。数週間前に久しぶりに、同じクラスで、高校の剣道部も一緒だった谷口君から僕のCD「あなたならきっとできるよ」の注文がメールで寄せられたことに端を発した集まりだった。そのころちょうど、6月23日(土)に東京の高井戸倶楽部で公演予定だった「東京ライヴwith Kenjiro」(会場の都合により10月27日(土)に延期)の観客動員にアイデアを絞っていた頃だったので、谷口君にも一役買ってもらいたいという思いと、なぜかとても懐かしく、会ってみたいという強い衝動から、一度飲もうということになったのである。僕は、谷口君をはじめとする数人に個人的に会えれば嬉しいぐらいに思っていたが、谷口君曰く、「俺は人を区分けできない性格だから、とりあえず、連絡が付くやつにはみんな連絡したんだ」といきな計らいをしてくれた。
当日は、年度始めの平日の夜、それも銀座という少々条件の厳しい中にもかかわらず、11人の同窓生が集まってくれた。これも、すべて、谷口君と大塚さんが連絡を取ってくれたらしく、本当に感謝している。ありがとう。
高校を卒業して以来で顔を会わせる仲間も多く、みんな、相当変わっているかもしれないと思っていたが、いざ顔を会わせてみると、当時のまま変わっていない仲間がほとんどで、なにやらひどく嬉しかった。
僕らは、高校を1980年に卒業、60年安保はほとんど意識無く、70年代の学生運動も小学生の時の思いでの一遍でしかない世代だ。しかし、バブル絶頂期に社会にデビューし、そのバブル崩壊に直面、様々な挫折や失望もあったに違いない。三無主義という言葉が横行していた中、我々の卒業した県立国府台高等学校は、進学校であるにもかかわらず、文化祭は高校生活の相当な比重で熱を入れて実現していた数少ない熱い高校だった。
大変恵まれていたのは、基本的にどの生徒も何事にも熱心に取り組む気風があったことだろう。大げさに言えば、国府台高校での3年間がなければ、今の吟遊打人・塩原 良は無かったかもしれないのだ。
45歳の誕生日を経て集まった仲間からは、どの社会の分野でも、中堅として活躍していて、今の立場を勝ち取るには、それなりにハードルを越えてきたのだというエネルギーみたいな物があった。夫婦のこと、親子のこと、両親のこと、職場の人間関係のこと、そして、今の自分が目指す物・・・・そのどれもをみんな経験したうえで、今、再び出発点を確認しあったようなさわやかで、大変勇気づけられる時間であった気がする。
教員、銀行支店長、大手建設会社、市役所職員、薬剤師、映像クリエイター、自営業、道はそれぞれだが、いままで闘い抜いて生き残ってきた仲間に会えたような、闘い抜いてきたたくさんの自分の分身に会えたような、痛烈な懐かしさと、久しぶりに感じることのできた同世代感に身も心もゆだねながら、うまい焼酎を飲みかわした。
「ひとりではない」その実感がまた味わえた、暖かな銀座の春の夜だった。
かつて恋をした大切な人とも歌声を共にできたし、この暖かな仲間と再び離れて、信州伊那谷にもどることに何も躊躇無く、自分のわがままにたどってきた道にも、わずかながらでも自信めいた物も感じられ、そして何よりも、貴重な友情に感謝感激した。
1980年県立国府台高等学校卒業、3年4組のみんな、素敵な熱い時間を本当にありがとう。
不肖塩原、死んでも太鼓のバチを離しません。
谷口君、年に1回ぐらい、集まりたくなったよ。第6回東京国際和太鼓コンテスト、大太鼓の部、ノミネートされたら連絡します。応援に駆けつけてください。
哲君、5月12日は、名古屋公演追い込みのため、プールサイドの応援には駆けつけられないが、健闘を祈るよ。再び泳ぎ始めた哲君のエネルギー、しっかり受け止めました。
みんな、本当に生きるエネルギーをありがとう。
当日は、年度始めの平日の夜、それも銀座という少々条件の厳しい中にもかかわらず、11人の同窓生が集まってくれた。これも、すべて、谷口君と大塚さんが連絡を取ってくれたらしく、本当に感謝している。ありがとう。
高校を卒業して以来で顔を会わせる仲間も多く、みんな、相当変わっているかもしれないと思っていたが、いざ顔を会わせてみると、当時のまま変わっていない仲間がほとんどで、なにやらひどく嬉しかった。
僕らは、高校を1980年に卒業、60年安保はほとんど意識無く、70年代の学生運動も小学生の時の思いでの一遍でしかない世代だ。しかし、バブル絶頂期に社会にデビューし、そのバブル崩壊に直面、様々な挫折や失望もあったに違いない。三無主義という言葉が横行していた中、我々の卒業した県立国府台高等学校は、進学校であるにもかかわらず、文化祭は高校生活の相当な比重で熱を入れて実現していた数少ない熱い高校だった。
大変恵まれていたのは、基本的にどの生徒も何事にも熱心に取り組む気風があったことだろう。大げさに言えば、国府台高校での3年間がなければ、今の吟遊打人・塩原 良は無かったかもしれないのだ。
45歳の誕生日を経て集まった仲間からは、どの社会の分野でも、中堅として活躍していて、今の立場を勝ち取るには、それなりにハードルを越えてきたのだというエネルギーみたいな物があった。夫婦のこと、親子のこと、両親のこと、職場の人間関係のこと、そして、今の自分が目指す物・・・・そのどれもをみんな経験したうえで、今、再び出発点を確認しあったようなさわやかで、大変勇気づけられる時間であった気がする。
教員、銀行支店長、大手建設会社、市役所職員、薬剤師、映像クリエイター、自営業、道はそれぞれだが、いままで闘い抜いて生き残ってきた仲間に会えたような、闘い抜いてきたたくさんの自分の分身に会えたような、痛烈な懐かしさと、久しぶりに感じることのできた同世代感に身も心もゆだねながら、うまい焼酎を飲みかわした。
「ひとりではない」その実感がまた味わえた、暖かな銀座の春の夜だった。
かつて恋をした大切な人とも歌声を共にできたし、この暖かな仲間と再び離れて、信州伊那谷にもどることに何も躊躇無く、自分のわがままにたどってきた道にも、わずかながらでも自信めいた物も感じられ、そして何よりも、貴重な友情に感謝感激した。
1980年県立国府台高等学校卒業、3年4組のみんな、素敵な熱い時間を本当にありがとう。
不肖塩原、死んでも太鼓のバチを離しません。
谷口君、年に1回ぐらい、集まりたくなったよ。第6回東京国際和太鼓コンテスト、大太鼓の部、ノミネートされたら連絡します。応援に駆けつけてください。
哲君、5月12日は、名古屋公演追い込みのため、プールサイドの応援には駆けつけられないが、健闘を祈るよ。再び泳ぎ始めた哲君のエネルギー、しっかり受け止めました。
みんな、本当に生きるエネルギーをありがとう。