Ali'i Drive Breeze

The Big Island
ハワイ島で体験した思い出を写真とともに綴る旅日記

フルーミン・ダ・ディッチ<Flumin' Da Ditch>#3

2007年04月02日 | 北コハラ地区

コハラ灌漑用水路の歴史

20世紀初頭、北コハラ地区には7つのサトウキビ農園があり、約10,000エーカー(約1,263,030坪)にも及ぶサトウキビ畑を経営していました。
その当時、コハラ農園は毎年のように干ばつに悩まされていました。
雨不足の為、コハラ地区のサトウキビ農園は例外的な凶作に見舞われ、経済的にも困難な状態でした。

サトウキビ栽培には多量の水が欠かせません。
1パウンド(約453g)の精製砂糖を生産するのに、500ガロン(約906リットル)もの水が必要なのです。
コハラ農園では干ばつの影響で、通常なら2年しかかからないサトウキビの収穫期間が4年もかかるような状態でした。

サトウキビの収穫にかかる期間を少しでも短縮し、更に収穫量を上げるには安定した農業用水の確保が必須でした。
同じ北コハラ地区でも、渓谷の奥の方では年間降水量が150~300インチ(約3、810~7,620ミリ)もあったのですが、農園のある平野部では年間降水量がわずか15~25インチ(約381~635ミリ)しかありませんでした。
この水不足を解決する概念は簡単で、単に、渓谷の豊富な水を農園のある平野部まで運んでくればよかったのです。
しかし渓谷の大雨、険しい地形、軟弱な地盤などの為、実際にこの計画を実行するのは著しく困難でした。
渓谷の治水権を持つビショップ財団は技師に命じてこの灌漑用水路計画の調査をさせましたが、多くの技師はあまりの難しさに計画に反対したのです。

サトウキビ農園のオーナーの一人だったジョン・ハインドは、ビショップ財団の技師たちの反対にもかかわらず、この北コハラ地区の灌漑用水路計画を進めることを決心しました。
工事資金を調達するために他の農園のオーナーたちにも働きかけましたが、残念なことに、ある者はこの計画の成功を信じず、またある者は協力しようにもそのような資金はありませんでした。

ジョン・ハインドは苦労の末、ついにこの計画に資金を出してくれる投資家、サム・パーカーを見つけました。
彼はパーカー牧場の創設者ジョン・パーカーの孫に当る、裕福な道楽者でした。
総工費の半分をパーカーが負担し、残りはジョン・ハインドと数人の小口投資家が投資しました。
開発グループは、著名な市民であり、かつこの分野に優れた技師であったM・M・オショーナシーにこの事業の計画と監督を委ねました。

こうして1905年に、サトウキビ農園まで水を引くこの灌漑用水路計画はスタートしました。
M・M・オショーナシーはこの工事ために約600人の人夫を雇うことにしたのですが、その大半は日本からの移住者で占められました。
M・M・オショーナシーは「このような仕事は日本人移住者が好んでやりそうだ」と当時発言しています。

工事が完成した時には57のトンネル、19の水路橋からなる全長22.5マイル(約37.5キロ)の用水路になっていました。
全行程の半分は渓谷にあり、残りがサトウキビ畑のある平野部にありました。
渓谷は、大雨と軟弱な地盤の為に、何度も地滑りを起こしました。
トンネルは北コハラのホノプエ、ホノケア、ホイカネイキ、ホノカネヌイ、そしてポロル渓谷の垂直に切り立った崖に沿って、1,050フィート(約320メートル)の高さに位置しています。

渓谷の厳しい気候と湿度の中で人夫達は谷底にある掘建て小屋に住み、トンネルのある現場まで毎日崖を登って通いました。
トンネルはダイナマイトとピッケルやシャベルを使い、手作業で行われました。
掘り出された土砂は手押しのトロッコに積まれ、トンネル壁面の穴から谷へと捨てられました。
トンネルの壁面には手で切った石を並べて、それをセメントで固定しました。
地盤の軟弱なところでは天井をコンクリートで固めました。
作業は困難で危険なものでした。
険しい地形の為、いかなる機械を用いることも事実上不可能でした。
この灌漑用水路工事中に、600人中17人もの労働者が亡くなりました。

事故や死者まで出すような逆境にもかかわらず、ついに用水路は1年半の工期と当時のお金で694,239.19ドル(現在なら50億ドル相当、1ドル130円として6,500億円)の巨費を費やして完成しました。
そしてこの難工事は人々に技術力の驚異と称賛され、広く喝采を浴びたのです。
オショーナーはこの工事を完成させた技術力を高く評価され、後にサンフランシスコ市のチーフエンジニアとして迎えられました。
彼は在任中にシェラネバダ山脈の豊富な水をサンフランシスコにもたらした水道工事の総監督としても後に名を残しています。

灌漑用水路からの安定した農業用水の供給により、サトウキビ農園は断続的な干ばつを克服することが出来ました。
収穫までに4年もかかっていたのが2年で済むようになり、収穫量も3倍から4倍に増えました。
サトウキビ農園の経営も順調になり、そこで働く労働者もその恩恵を享受できるようになったのです。
そして北コハラ地区はハワイ州でも最も豊かなサトウキビ生産地域の一つとなりました。
灌漑用水路工事に従事した人たちの苦労が、北コハラの繁栄と幸運の大部分に寄与することとなったのです。

北コハラ地区のサトウキビ農園は人件費の高騰により1975年に閉鎖されました。
それ以来、農園と灌漑用水路の歴史は人々の記憶から忘れ去られてしまいました。
コハラ・マウンテン・カヤック・クルーズは1996年12月22日より、観光客とハワイの住民の為にこの忘れられていた用水路のツアーを始めました。
このツアーの目的の一つは、コハラを訪れた観光客とハワイの住民に忘れられた歴史を知っていただくことにあります。

灌漑用水路に関する完全で正確な歴史の記録を収集するにあたり、工事に従事した勇気ある労働者や不幸にも殉職された方々の氏名を掘り起こすことは、私達にとってとても重要なことです。
これまでの調査の結果、残念ながらこの工事に従事した労働者の名簿は無くなってしまったことが判明しました。
なぜ紛失してしまったのかは全くの謎です。
この灌漑用水路工事に従事した人々の名前を調査し始めて以来、600人の労働者のうち、わずか3名の労働者名と1名の殉職者名を発見できたに過ぎません。
灌漑用水路の歴史は、この工事に従事した全ての労働者の名前を解明するまでは決して終わることはありません。


以上が、ツアー参加時にもらったそのままの文面です。
ツアーが終了した以上、今後はこの歴史も、ガイドブックなどで紹介されなくなるのかもしれませんね。



追記:
2006年の地震によって催行中止となっていた用水路カヤックツアーも(2012年)現在、再開中。

親子で安全に楽しめるカヤックツアーです。
注意点は、日本語のガイドは付かなさそうだということと、
山の上なので、季節によってはかなり体が冷えること。
参加前は水分を控えることと、トイレは充分に済ませておくことをお勧めします。





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