働く母の現実逃避

アラフォーっていくつまで言えるの?
仕事はなんとか、育児はどうにか、家事はテキトーにやってます。

宮城・岩手再訪の旅

2012年05月06日 21時12分12秒 | 行事
1泊2日でGWに旅行に行った。

目的は、2年前に訪れた宮城・岩手の地を再訪し
私たちが見た風景がどのように変わってしまったのかを
見ておかなければならないと思ったからだ。

2年前に訪れたのは、宮城では牡鹿半島、石巻、女川。
岩手は気仙沼。

どこも津波できっと変わってしまった場所。

私たちは、行きたいと思った。
そして、お金を使いたいと思った、この復興しようとしているその土地で。

旅に行って、思ったことは新聞、メディアその他で報じられている通り
今まで町のあったところは1年以上たった今でも変わらず何にもない、ということ。

そして、町の人たちはそこを離れず、暮らしているということ。

私たちが2年前に訪れた風景は、変わっていた。
だけど、どう変わっていたのかがあまり思い出せない。
なぜならば、すっかり建物がなくなっていたから。
幾分かでも建物があればその建物をヒントに思い出せるのだが
何にもなさ過ぎて思い出せない。

思い出せないことが、罪悪感を感じてしまう。
どうして、思い出せないのだろうと。

でも、牡鹿半島ではいくらか思い出すことがあった。

2年前に泊まった「割烹旅館 めぐろ」。
そこのそばに行った。
その旅館は少し高台にあり、津波は免れたのでその建物は変わらずそこにあった。
だけど、朝早く長男と行ったその下にある漁港は見る影もなく
私たちが釣りをした処は、もうなかった。
まわりはがれきだらけで、その漁港を見渡すこともできなかった。
けれど、漁港のそばに半分だけ流されなかった遊具が今もなおそこにあり、
長男と次男は「あれで遊んだよね」と言っていた。

「おしかホエールランド」は壊れたままだったけれど、いまもなお
そこに同じ姿があった。
確かそこで写真を撮った、とか次男は大砲でクジラを撃った、とか話した。
そしてプーさんと次男と私との3人でずっと前に行った食堂の建物はあって、その中はがらんどうだったけれど、思い出すことができた。そのとき次男は鯨の刺身をうまいうまいと言って食べていた。

帰りにプレハブで営業している海辺の食堂で遅い昼ご飯を食べたか。
場所は牡鹿半島の大原浜付近。ホエールランドから5kmほど女川方面に戻ったところ。
「かんた」と名付けられたその食堂の場所、注文をし待っていたら思い出した。

あ、朝早く釣りをするのに必要なイソメを買った場所だ。
確か小さいパックに「300円分だけ」とお願いしてちょっとだけ買った。
外に出ると確かにその場所だ。
下のコンクリートの具合がまさに同じ。
私はご飯を食べ終わり会計をするときに話しかけた。
「ここ、以前イソメ売ってましたよね」
するとお店の人は
「そうです。今も売っていますよ」と、外の小屋を指さして言った。

あ、ほんとだ。イソメの箱がある。
嬉しくなって「今も買えるんですね。私2年前に旅行がてら釣りをするのに
寄らせていただいたことがあるんです」というと
「また買いに来てください」と笑顔で返された。

なんだか嬉しくて、でも涙が出そうになった。
「また来ます」と言って私は店の外に出た。
釣り竿持って、また来なくちゃな、と思った。

こんなに何にもなくなった集落でもまた同じように生活しようとしている。
どうにかして応援しなければ、と思った。
でもその時イソメは買えなかった・・・すみません。

石巻の「石ノ森萬画館」は建物はそのままあったが下のほうがやられていて
開館はしていなかった。
でも秋には再開するそうで。
良かった。

気仙沼では町中にふかひれラーメンを食べに行った。
気仙沼の港は他と同じく結構建物がない状態だったが、なぜか私達が食べに行った食堂は今もそのままで営業を再開していた。

なぜ?不思議。
周りの建物はほとんどなく、多分2階くらいまで波が押し寄せてきただろうに。
でもほとんどそのままの建物の姿。
これが一番不思議だった。どうしてなんだろう。



ざっと書いたのだが、ここには書けない思いがいろいろあった。
私が書くのはおこがましい、という思いがある。

体験していなければ分からないことがある。
「がんばれ」なんて頑張っている人にいうには失礼だ、って思いもある。
なんと言えば思いが伝わるのだろうか?

でも、私は何らかの形でかかわっていきたいと思っている。
毎月の寄付だけでなくモノを買ったり、食べたり、そして訪れたりして。

また行く。復興の地に。


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