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1997クルジャ(伊寧)事件――証言 武警隊員「何千人か殺害」 S-times

2007-08-16 23:35:20 | ニュース

(その2からつづき)

しかしながら、国家の暴力の記憶は力のある抑止力を行使する。
国境の町、伊寧に飛べば、中国の旅客機は灰褐色の山々から果樹園と農場に富む美しい谷へと降り立っていく、そこはウイグル人、カザフ人、ロシア人が入り混じった里。

漢族中国人の伊寧の居住者は自分たちの区域に固執している。
この町の街路に血が走ってから10周年になる、そしてその恨みはいまだ深い。

「私はその1997年の叛乱が勃発したときに、人民武装警察にいた。」
無愛想なある漢族の運転手は答えた、彼は生々しくかつ満足させる、この唯大虐殺であると知られていることの説明を行い始めた。

「少しの間、我々はコントロールを失った。」彼は言った。「暴徒は武器庫に突入して、我々の仲間を殺し、武器を強奪した。状況は混沌としていた。我々は軍を導入した。軍は公安の制服に着替えた、そして力は均衡した。中央政府は我々に暴徒を躊躇なく鎮圧するよう命令した。嘘じゃない、我々はそうした。」
「我々の何人かは死んだが我々は殺害した、数は正確に知らないが――彼らのうち数千人かを、彼ら(暴徒)は我々の力を知った。彼らによき厳しい訓戒を教えてやったのだ。」

ウイグル人女性事業家で政治家であって、現在は亡命中のラビア・カーディルさんは1997年に伊寧に調査に出かけたときに「よき厳しい訓戒」の恐ろしいビデオを見たという。
そこには武器を持っていない少年少女が銃弾の一成射撃で撃ち殺される様が映っていた、彼らの死体はトラックに投げ込まれた。一人の母親と5.6歳の子供達が銃弾の一成射撃の元に崩れ落ちていった。撮影された虐殺はずっと続いた、音声には漢人からの歓声の叫びと興奮した命令が入っていた。多分そのうちの1つは例の運転手のものであっただろう。

抑圧された静けさがこの街(クルジャ・伊寧)に及びつづけている。一人の漢人がこの街最大のモスクの近くの暗いカフェに踏み入れたときのムスリムからの詰めあい四川が彼ら自身の物語を語っている。漢人はすぐに去っていく。

今日、文明の衝突はカシュガルにおいて一番高く鳴り響いている。カシュガルは北京から2,400マイルの宗教、商業、文化の十字路である。この一月に南西方のたった48マイルで「対テロリスト」部隊が古代シルクロードが曲がりくねってパキスタンに入りゆく山々の中の訓練基地を急襲した。

この衝突は国営メディアによって賞賛された、メディアはこれを東トルキスタンイスラム運動(ETIM、東伊運)への一撃と呼んだ。しかし中国人の居住者はこの作戦は武装派を逃がして失敗だと言った。

「彼ら(部隊は)へまをやってそれらの人々(武装派)はまだいる。私たちは武装派が多くの密輸された武器をもっていることを知っている。」ある退役将校が言った。「それで私たちのほうは兵団(注、新疆生産建設兵団のこと)の中の訓練済みの人間に武器を供給している。」

彼は中国の新疆における経済活動を立ち上げ、いまだその事業を独占している、軍管理下の巨大な企業群を指して言った。

「カシュガルから南へ旅行するすべての車は砂漠を横切る部分の道路では武装警護が義務付けられている。」地方の旅行会社では言う。

中国はカシュガルを近代化するために何十億元も投資を続けていた、中心のモスクの前の広場を改装し、バックパッカーや高所得の西欧の旅行者を収容する為に新しいホテルを建てている。また中国は何千人もの漢族中国人を新しいアパートに収容するために移入させた、それは新疆中で行われている大量移入の形式である。

移入した漢族はムスリムからは効果的に隔離されて住む、ムスリムは彼らの古い土煉瓦作りの家、モスクそしてされたばかりの羊が吊り下げて売られている、臭いでいっぱいの路地を守っている。

中国共産党は政治を通じて統合を達成するためにその全力を尽くしている。カシュガル日報によると84%の地域のメンバーはウイグル人である。

「良好な関係は表面だけ」中国の女性ビジネスマンが言った。「それは実際ではない。」

中国人団体旅行者がエイティガール大モスクの境内を大声をあげながら歩き回るが、礼拝時間にだけはその外ですわって団体旅行者をむっとして見つめるウイグル人の男達に改心させられる。

(つづく

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