齋藤百鬼の俳句閑日

俳句に遊び遊ばれて

論争―ミヤコ・ホテル

2007年10月03日 | Weblog
どんな分野のジャーナリズムも「論争」が好きである。そして喧嘩は高みの見物と決まっていて、当人同士は血みどろになって満身創痍なのだが、これほど面白いイベントはない。だからこれをやると売れるのである。そこにジャーナリズムの歴史的に内包する「不純」が頭を擡げる。
つまり、だいたいは編集者が裏で仕掛けるのだ。

俳壇史で、もっとも盛大にこの喧嘩が行われたのが、昭和9年の例の日野草城の「ミヤコ・ホテル」を巡る論争だったと思う。
この論争がどんな実りを残したのか、いやまったく不毛の論争だったかというような評価は、ひとまず置くことにする。ただただ、高みの見物に徹して、リング上の熱き戦いを実況解説してみよう。リングサイドの解説は楠本憲吉さんにお願いする。

すでにご存知のことと思うが、草城の問題の連作をまず紹介する。
  けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
  夜半の春なほ処女(をとめ)なる妻と居りぬ
  枕辺の春の灯は妻が消し
  をみなとはかかるものかも春の闇
  薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ
  妻の額に春の曙はやかりき
  麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
  湯あがりの素顔したしく春の昼
  永き日や相触れし手はふれしまま
  失ひしものを憶へリ花曇
現今、この程度の句では、若者にはまず見向きもされない。「麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく」など、なんで「はづかしい」の? と言われるくらいが堰の山だが、これが大反響を巻き起こした。賛否両論、俳壇以外からも飛び入り参加してしまった小説家もいた。発表誌「俳句研究」をはみ出し他誌にまで及び、いわば場外乱闘の態となったから、仕掛け人は笑いがとまらなかったことだろう。
どんな論戦だったか。導火線となったのは、室生犀星のヨイショであった。以下は楠本憲吉氏のアナウンスで・・。

犀星の応援論文。
「日野草城氏の俳句作品としての表現意力は実によく迫ってゐるのだ。三十枚くらゐの小説でもよくこれだけに迫ることが出来るかどうか疑問だ。(中略)けふこれだけの柔らかい自在な言ひ廻しで抜き手を切るといふことは、全く呼吸づまる俳壇をほっとさせたものに違ひあるまい。・・・作家はいつも何かを切りひらくことや改易することや、また別のものを掘り当てなければならぬものとしたら、日野氏はそれの仕事の一つをやって退けたのだ。つまり「ミヤコ・ホテル」の正味は、今日に於ては明瞭に俳句精神が老年者の遊び文学でなかったことを意味するのである。」(俳句研究「俳句は老人文学ではない」)

『俳壇外からの室生氏の一文が導火線となって「新潮」に草田男が「尻尾を振る武士」を発表し、「都ホテルとは厚顔無恥な、しかも片々として憫笑にも価しない代物に過ぎない。何といふ救ふべからざる石鹸玉のやうな、はかなくもあはれなオッチョコチョイの姿であらう」「俳句は短歌よりも、内容に於いて更に特殊なる芸術である。俳句は俳句と称へられる限り、如何に新しく変らうとも、単なる十七音詩ではなくして、同時に本質的意味で自然諷詠詩なのである」と激越な語調で詰った。』

『その貶斥に答へて草城は同誌八月号に「瞋(いか)れるドン・キホーテ」で「君はついせんだって学校を出たばかりの青年だ。如何に君が客気に逸り後輩の礼を忘れた振舞に及ぼうとも、相手になって喧嘩するにはどうも余りに立場が違ひ過ぎる。これから僕の述べんとするところをよく聴き、よく味はい、そして反省を悋しまないでくれたまへ」「俳句は今や未曾有の転換期に直面してゐる。季節の支配を受ける人生の諸事象のみならず、季節の支配を受けない人生、支配を受けてもその支配と詩因とは関係のない人生の諸事象もまた僕たちの俳句の詩因でありうるのだ。かくして僕たちは既に無季俳句に到達した」と半ば諭すが如くに応酬した。。更に「俳句研究」誌上で、草城「無季俳句綱要」、草田男「長生アミーバ」なる論争にまで展開したのである。』

『かうなると室生氏も黙ってをれず、草田男に対して「文藝春秋」八月号の文壇時評で「私の蒙を啓発された中村草田男といふ名前すら私には耳新しい。氏の草城論は嫌悪と反発とから出発されてゐていやらしい感じがした。たとへ天下の俳人を向こうに廻しても、日野氏のためによき理解者となりたい」と書いてこれに駁論を試みてゐるのである。』

『一方「新潮」四月号の「新しき俳句の道」の久保田万太郎と水原秋桜子の一問一答の中で万太郎は「室生君が問題の都ホテルを褒めてゐるのは、あれは室生君の洒落ですよ。あんな流行小唄程度の感傷しかもたないものを、室生君がほんきでほめるわけがありません」と言ってゐるが、それについて室生犀星は都新聞の学芸欄に発表された「俳句と文壇」で、「私は洒落を言へない男である。(中略)久保田氏が室生の洒落だと言はれてゐる言葉の内容に何か私の見識の謬りをかばうてゐられるところがあり、室生があれを褒めるといふことがないと断言してゐられる裏には、何か私の俳句観について、やはりかばってゐられるところがある」「私は草城氏を褒めることで、実際には私の俳句観もそんなに陳腐になってゐない自覚さへおぼえた」「都ホテルを三誦してゐると、この作者が発句といふ形式にのりかえた小説にぶつかるのである」「何人もなしとげなかったものをなしとげたところに英雄の魂があるとすれば、「都ホテル」の使命は充分になし遂げられてゐるのである」と終始賛美の言葉をつらねて草城擁護文を書いている』

一読して感じられることは、みんなムキになって、カッカとして論敵に向かっていることだ。草田男などはまだ二十代だから頭に血がのぼるのは分かる気がするが、他の連中もなのだ。これは何を意味するのだろう。ひとつは俳壇に新しい風が起こり、その風に対する期待感があったからに違いない。俳壇が若返ったともいえる。今の俳壇の「静かなること林の如く」「動かざること山の如し」と比べると、これは幸福な時代だったと言えなくもない。

このような反響を呼び起こした草城の「ミヤコ・ホテル」は、なんと創刊第二号の『俳句研究』だったのである。
同誌編集部は、おそらくこれで三年は大丈夫だと思ったのではなかろうか。そんな気がする。なお、この編集部のなかに石橋貞吉がいた。若き日の山本健吉である。

【追伸】この日野草城だが、ミヤコ・ホテル発表に先だって俳誌「青嶺」を創刊している。さらに興味深いのは、この「青嶺」の前にある野望? のようなものがあったらしい。楠本憲吉によれば、
「草城は・・・「京大俳句」に対しては草城独自の期待と構想を持ってゐたやうで、東に「東大俳句」、西に「九大俳句」、それに中央の「京大俳句」とこれら三者を育てあげ、時期を見て三者合併の上「大学派」を起こし、一つの新しい俳句運動の母胎としようとしてゐたやうである。しかしこれは草城の夢想に終わった。」
と記している。学生、つまりインテリゲンチャを主体とした前衛主義ともいうべきもので、これは挫折するに決まっている。それに自分の出身母体である「京大俳句」を中心に置く、つまり自分が核になるというところが、稚気に溢れていて面白い。まあ、これくらいの元気がなければ事を起こすなど出来はしないのだが。

10 コメント

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論争、それもまたよし (草野ゆらぎ)
2007-10-03 16:59:46
とても興味深い俳壇史の一幕をご紹介いただき、ありがとうございます。私自身、この一連の句を見たときは、むしろ上品だな(笑)、思ったくらいで、こんな論争が起こっていたとは知りませんでした。ご指摘のように、上も下も関係なく談論風発したところは、いいことですね。最近ではのぞめないことです。昭和のはじめは、まだ自由闊達な空気がありましたね。

お礼が遅くなりましたが、俳壇目安箱を長きにわたり、ご紹介いただき、ありがとうございました。楽しませていただきました。
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ミヤコホテル (九分九厘)
2007-10-03 17:57:06
「都ホテルを三誦してゐると、この作者が発句といふ形式にのりかえた小説にぶつかるのである」に賛成します。普通の散文で書くとひどい三文小説が、五七五にまとめて俳壇に投げ込んだ所が立派です。五七五にすると上品になって、詩情豊かになるところを狙ったものでしょう。ただしこの一連の句が、それほどの詩情性があるとは思えないようですが、ここら辺が原因となって、論争が巻き起り、他の俳人の攻撃が始まったのでしょう。もっと詩情性の高い句で誰にも文句をつけられないようにすればよかった!
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Unknown (Unknown)
2007-10-03 19:24:26
草城にはホトトギスの花鳥諷詠に対する反発が、まずあったと思います。そこで勢いこのような新婚初夜のフィクション俳句をばーんと出して、俳人たち、とくに若い作家たちの蒙をひらきたいという思いだったのでしょうね。作品のレベル以前に。僕の推測では、このあたりにジャーナリズムの何かがあったように思われるのです。僕も、わりと昔やったものですから。笑。
俳句を始めて、二ヶ月くらいで、僕も連作「未亡人」を、あるところでやりました。その時、しーんとしてしまった中で、九分九厘様だけがコメントをしてくださいました。それも好意的なものを。うれしかった!
その後、主宰から直接電話があり、連作は禁止されてしまいました。
もう一年も前になりますね。コメントを有難うございました。
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九分九厘様へ (百鬼)
2007-10-03 19:36:04
その折の連作です。自分で懐かしくなってしまい載せます。しかし読み返してみると甘ちゃんですねえ。

 <寡婦>
山茶花の散るにまかせし寡婦の家
寡婦の弾く曲や乱れて冬の窓
冬靄に爪切る寡婦の脛白し
時雨きて見上ぐる寡婦の蒼き喉
枯萩にもつれて髪のそよぎおり
短日に寡婦夫の蔵書売る
ワイン買う寡婦の目妖し冬の月
散りし花踏みて間夫来る冬の雷
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草野様へ (百鬼)
2007-10-03 19:44:15
コメントの順番が狂ってしまいゴメンナサイ。
新興俳句の勃興期です。みんな新しい俳句を模索して、若い連中が張り切っていた時で、雑誌も創刊したばかり。時代背景は決して明るいものではなかったはずですが、俳句に何か求めていた雰囲気がありましたね。すこし荒っぽいところもあって洗練とまではいっていませんが、生命力の躍動を感じます。「弾んでいる」という感じです。今はねえ・・・
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Unknown (阿部)
2007-10-04 10:40:29
登場人物が著名人なので驚き、興味深々でした。
正に事実は小説よりも奇なりですね。
ご紹介いただいたことに感謝します。
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阿部様へ (百鬼)
2007-10-04 16:39:41
コメントを有難うございます。
この事件? をきっかけにして、有季無季、連作の是非など、いろいろな問題について2、3年くらい侃々諤々の論争が続いたようです。その後は「戦争俳句」の是非、そして弾圧事件があり、俳壇は逼塞し、復活するのは戦後となります。
面白おかしく取り上げられるけれど、本質的には重いものを内包していたようです。
読んでいただき感謝です。礼。
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面白い (旅人)
2007-10-04 20:04:13
楽しく、と言っては失礼ですが拝読いたしました。草田男の批判文は激越ですが、感情に走っていますね。百鬼様は「二十代」と書かれておられますが、草田男は明治三十四年うまれですので、この時は三十代半ばに差し掛かっていたと思います。精神性の病気で大学卒業が遅れたうえに、たしか学部も転部しているようです。草田男は戦後も、金子兜太らと論争をしておりますが、文体も饒舌にして粘着性で、激する傾向がありますね。俳人としては珍しいタイプです。そして激した後は落ち込み、金子との論争の後、半年近く『万緑』を休刊してしまったりしましたね。犀星の純情そのものの擁護論も面白かった。万太郎のとぼけた対応も彼らしく思いました。
しかしミヤコ・ホテルの連作は、あまり感心しませんでしたね。
また面白いエピソードなどありましたらご紹介ください。戦前のことはまるでわかりませんので。お願いいたします。
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旅人さんへ (百鬼)
2007-10-05 05:35:44
お初にお目にかかります。
有難うございます。
調べましたらご指摘のとおりでした。草田男は、もう壮年ですね。訂正いたします。
まだ、続きますので、ご意見などありましたら書き込みをお願いいたします。励みといたします。感謝。
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ネットの永遠の海へ (ナンネル)
2015-02-10 14:18:47
「ミヤコホテル」検索で漂着。
いやなに、京都旅行で宿をたまたまウエスチンにし、天神さん縁日のついでに地蔵院でも・・・椿はまだか?みたいな。
東京生まれの京大、ソウジョウ先生のうわさは、もともと銀座あたりで仕入れたのですが、成程、やきもち焼かれる対象だったてことね~
うちでは「夜半」とくれば巴人、で、以下
 夜半亭鮟鱇妻は未だオトメ♡
ネットの永遠の海に、漂いま~す!
あ、ふざけているんではなく、時代の流れです。私は興味を持ち、やってみるだけまだ健全。
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