大阪府高齢者大学校 2013年度 考古学研究科

2013年度考古学研究科がスタートしました。
この一年を、楽しい学習の場にしていきましょう。

考古学研究科校外学習;八尾市埋蔵文化財調査センター見学

2014年01月28日 | 日記
日 時:平成26年1月16日(木)Pm2:00~3:00
テーマ:八尾の古墳時代             
はじめに:八尾埋文センターは秋季企画展として、「やおの古墳時代」『邪馬台国時代のムラとくらし』を開催中。この企画展では、邪馬台国が大和盆地南東部にあったという調査成果をもとに邪馬台国時代(3世紀初頭~4世紀前半)の八尾市域の集落動向を通じて、中河内地域の役割を紹介している。
{邪馬台国の女王 卑弥呼:239(景初3)年、魏に使いを送る。魏の皇帝は「親魏倭王」の称号と印綬を授け。銅鏡100枚、刀剣などを与える。卑弥呼247年頃に亡くなる。(魏志倭人伝より)}
見学:原田学芸員から説明をうける。

Ⅰ、邪馬台国時代の河内平野
1、河内平野は沖積平野であり、3C初頭には河内湖があった。北から淀川水系、南から大和川水系の河川が注ぎ、上町台地北端付近で西方の瀬戸内海と繫がる。また、河内湖に注ぐ河川は「小阪合分流路」「萱振分流路」「久宝寺分流路」が確認されている。遺跡はこの河川沿いに成立していた、この遺跡からは外来系土器が多数出土している。
これは全国各地の人達との交流が頻繁であったことが分かる。特に久宝寺遺跡では外洋航海が可能な準構造船(3C中葉)が発見された。 
当時の中河内地域が河内湖を介して水上交通の要衝の地で、西方からの到達点であり、また、東方の大和盆地南部の「人」「物」「情報」の中継地であることを物語っている。

Ⅱ、邪馬台国時代の市域のムラ{河内湖に注ぐ大河川沿いに成立した集落}
1、小阪合流路周辺の集落
大和川の本流で 旭ヶ丘付近で「萱振分流路」と分岐していました。この流域に多数の集落が成立していた。河川は川幅150m以上と想定され、内陸部まで海上交通が可能であり、港湾的な性格もあった。
また「刑部土抗」からは吉備地方の特徴を持つ大量の土器や最古段階の河内型庄内式甕が出土。
2、久宝寺分流路周辺の集落
久宝寺分流路は川幅が約150mの大河川で流域の自然堤防上、後背湿地を中心に集落が広っていた。(3C初頭~4C前半)
これらの集落から「吉備」「山陰」「播磨」「阿波」「讃岐」「東海」「南関東系」の他、朝鮮半島系土器類が出土。生産域としては、久宝寺分流路から導水した水路に沿って水田や畑がある。これらの水路に関わる堤防構築のために、朝鮮半島の起源を持つ「敷葉工法」が採用されており、これらの開発に渡来人の人々が関わっていた。ことが分かる。
3、邪馬台国時代のムラの成立
3C前半の集落は弥生時代後期後半から継続する集落は少なく、庄内期に成立した「庄内型集落」が大半を占める。この外来系土器の増加は初期前半段階に中河内地域で開発に携わった人々の多くが移住民であった、と思われる。
4、邪馬台国時代の墓制と墓域
この時代のお墓は居住域に接近したやや湿潤な後背地に設けられています。

Ⅲ.邪馬台国時代の土器
1、庄内式土器の成立
その存続時間は土器編年や年輪年代測定法などから概ね西暦200~270年前後の数十年と推定。河内平野を中心とする「河内型庄内式甕」と大和盆地南東部を中心とする「大和型庄内式甕」がある。共に体部内面にヘラケズリ技法を用いて薄手で丸底を志向する甕ですが、体部外面のタタキ方向に違いがある。(河内:右あがり、大和:右さがり)
2、河内型庄内式甕の変遷の説明
その形状から弥生形甕をベースとしたA型式と庄内式甕として確立したB型式がある。それらをあわせて「最古(成立期)-古(完成期)-中(盛行期)-新(衰退期)」の4段階の変遷がある。
{最古段階}
体部外面成形にタタキ技法を用いる機内第Ⅴ様式甕と吉備地方の内面ケズリ技法とが融合した折衷型の「A1型式」と連続タタキ技法で製作された河内型庄内甕「B1型式」がある。また、成立期の「河内型庄内式甕」には平底の底部で、胎土に「生駒西麓産」を示す「角閃石を含むもの」と、含まない「在地産」がある。
{古段階(完成期)}
 球胴化が進み底部が尖底を持つ「A2型式・B2型式」に変化。この期以降、B2型式段階で生駒西麓産が成立し、以後大半を占める。
{中段階(盛行期)}
 B型式は、さらに丸底化が進行し、体部中位以下のタタキをハケにより消すB3型式が主体を占める。
{新段階(衰退期)}
 B3型式に比べてタタキの原体幅が細くなり、タタキを施す範囲が上位のみに限定されてB4型式が主体。
 古墳時代前期前半の布留式古相に普及し、中河内地域では、「布留式傾向甕」や「布留式甕」と共伴する。
3、河内型庄内式甕の広がり
河内型庄内式甕が西日本各地に分布した。北は島根県、東は福井県、南は和歌山、西は佐賀県におよぶ。

Ⅳ.邪馬台国時代の土器の特徴と変遷
土器様式には「庄内式」・「布留式」がある。「庄内式」は3世紀初頭に成立。河内型や大和型と呼ばれる庄内式甕が出現。また、口縁部を中心に装飾を施す「複合口縁壷」が出現。「布留式」は3世紀後半に成立した土器様式で布留式甕や小形の精製土器類が中心です。
1、古墳時代初頭前半(3世紀前半の土器)
 特徴:河内型庄内甕の成立から、角閃石を含む生駒西麓産の「河内型庄内式甕の量産体制の確立。
2、古墳時代初頭後半(3C中葉)の土器
 特徴:河内型庄内甕B型式の量的増加や布留系甕の祖形となる、ハケを多用する甕が出現。
3、古墳時代前期前半(3C後半~4C前半)の土器
 特徴:布留式甕の成立や小形精製品種の小形器台、小形丸底壷、小形有段鉢が揃う。

Ⅴ.邪馬台国時代の地域間交流と外来系土器
中河内の各地で集落増加に伴って、他地域からの外来系土器が増加する。外来系土器には、山陰、吉備、摂津、阿波、讃岐、大和、丹波、近江、北陸、東海、南関東地方のほか、朝鮮半島南部のものがある。なかでも、山陰、吉備、東部四国(讃岐、阿波)地方のものが多く、河内湖を介した水運による交流が考えられる。布留式古相が7割以上あり、3C後半~4C前半の交流が盛んであった。
1、外来系土器の主な搬入地域と特徴
1)山陰系
  山陰東部(鳥取県―因幡・伯キ)、山陰西部(島根―石見)から持ち込まれた。庄内式新相以降のものが大半。
2)吉備系
  岡山県南部の足守川、旭川流域から持ち込まれて、庄内式古相から布留式古層にかけ継続していた。
3)東部四国系
  讃岐地方(香川県)及び阿波地方(徳島県)のものがある。搬入時期は庄内式新相~布留式古相が中心、量的には阿波系が大半。
4)その他の地域
  東海(愛知)近江(滋賀)その他。
2、外来系土器からみた各地域の足跡
1)阿波系地域と関わりを示す「10型中央土抗」が発見された竪穴住居。
2)渡来系の土器が発見された 渡来人のムラ(久宝寺、加美)。久宝寺遺跡で3C中葉の「台脚付短頸壷」と「把手付鉢」が出土。共に朝鮮半島南部系土器で、台脚付短頸壺が「軟質炉形土器」、把手付鉢が「軟質両耳甕」の特徴をもつ。土器の鉱物から、朝鮮半島南部から移住した人が久宝寺の土で作った土器であることがわかった。この付近一帯に渡来人のムラが存在したことが推定できる。
   
Ⅵ.邪馬台国時代の中河内地域の役割
1、外来系土器と中河内地域との関係
  土器は移住者の日常雑器や交易品の容器として持ち込まれたと推定。特に、小阪合遺跡や萱振遺跡で出土した、特殊器台、特殊器台形埴輪が中河内地域を介して邪馬台国の中心地であった大和に運ばれたと考えられ、初期の大型古墳に導入された 特殊器台、特殊器台形埴輪を用いた葬送儀礼の成立に中河内地域が関与していた可能性を示す。
2、中河内地域の役割
1)河内湖南岸に位置した、中河内地域は瀬戸内海や河内湖を介した水上交通の要衝の地として西日本一帯の文物集積地の中継点であり、また、大和川水系を通じて邪馬台国の中心部であった大和盆地南東部に向う玄関口でした。
2)中河内地域の遺跡群が邪馬台国時代に急激に増加するのは、このような地理的・交通的要件を備えた地域であったと考えられる。しかし、4C中葉を境として邪馬台国の衰退に連動して中河内も遺跡数が減少する傾向にある。以上から、中河内の遺跡群は、邪馬台国の成立期より参画して邪馬台国を支えた有力な国の一つであったと考えられる。

{コラム} 特殊器台から特殊器台形埴輪へ
『特殊器台は吉備地方で弥生時代後期後半に成立し、特殊壺と共に主に葬送儀礼に使用された祭器です。時期により形状や文様に違いがある。
一般的には「立坂型―向木見型―宮山型」と変化し「都月型」とよばれる特殊器台形埴輪 を経て円筒埴輪へと変化したものと考えられます。
邪馬台国時代に大和盆地南東部で築造された初期の大型古墳には、特殊器台の「宮山型」や特殊器台形埴輪の「都月型」が見られ、吉備地方を中心に発生したこれらの葬送器物が新たな時代の古墳祭祀を象徴する埴輪として変化したようです。』

入手資料:(参考資料)
1、八尾埋文センター 平成25年秋季企画展 展示案内「やおの古墳時代」。
2、八尾埋文センター情報誌「八尾・よろず考古通信」9号。以上。
(写真及び図は上記資料より引用しました)
3班 O・T


                     




『発掘された日本列島2013』展を見て:高槻市立今城塚古代歴史館にて

2014年01月27日 | 日記
2013年12月12日


  仁徳天皇陵古墳より出土の人物形埴輪「女子頭部」が私の最大の注目でした。普段はレプリカしか見ることは出来ないが、今回は本物です。この発掘列島展は考古学授業の一環としての訪問でした。
  この展示会は、皆様御承知と思いますが、文化庁が主催で行われ平成7年より毎年開催されています。現在全国で毎年約8千件にも及ぶ発掘調査され、その中より注目度の高いものが展示されています。文献だけでは知りえない事が目の前の実物や現場写真により紹介されています。今回は宮内庁との共催で「陵墓の埴輪」をテーマした展示があり、「女子頭部」はそのコーナーに展示されていました。
 
  私自身は現在堺市に住み仁徳天皇陵古墳は身近です。この「女子頭部」は仁徳天皇陵古墳出土品の代表的なものですので、機会があれば是非本物を見たいと思っていましたので良い時間でした。思ったより綺麗で丹精の顔立ちです。もう少し汚れがあるのだろうと思っていたのだが意外な感じでした。 
  島田髷(まげ)に似た髪型から女子と考えられ、巫女の姿を表現しているとされます。5世紀の造成とされているこの古墳よりこのような人物形埴輪が出土される事は珍しい。
  うり二つの女子頭部は訪れた展示会場の「今城塚古墳」からも出土しているのは注目です。造成期が400年代だと想定される仁徳天皇陵古墳と後の500年代の今城塚古墳では、約百年の時間差がある。何故に良く似たこの「女子頭部」が両古墳から出土との疑問が涌きました。
  さらこの頭部の下の部分も含め全身像がどのようになっていたのかの疑問も改めての涌いてまいります。いずれにしろこの日本最大の仁徳天皇陵古墳の中に埋められていた事は当時の政治体制が巫女による影響力も大きかった事を示しているのでしょう。巫女は神との交信をして支配者はその啓示により政治を司っていたのでしょうか。魏志倭人伝の卑弥呼と言う巫女王の存在にも繋がるかも知れません
  又 宮内庁による大陵墓のレーザー測量による詳細は過去の調査よりは精密に古墳の形を知る事が出来ました。なかにはびっくりするほど昔の姿の残っているものや、地震や後世の城址の影響で古墳が破壊されているものも見られ、今までに見たその形の違いに感心させられた1日でした。
       
(1班 O・K)


近つ飛鳥博物館及び奈良方面校外学習

2014年01月24日 | 日記

1、用明天皇陵
 近つ飛鳥博物館に予定時間よりも早く着くので、植田先生の提案で用明天皇陵を見学しました。
 用明天皇は、聖徳太子の父親でこの地域の推古朝時代の重要な地域であることが感じられた。
  
2、近つ飛鳥博物館
 近つ飛鳥博物館では、「考古学から見た推古朝」の特別展が開催されていました。
 推古朝は古代史では大変重要な時代で、難波から飛鳥に至る大道や大和や河内に池を作るなどの開発を行い、国際的には遣隋使の派遣により中国より最新の文化を摂取した。また冠位十二階の制定や十七条の憲法を作り律令国家の基礎が作られた時代です。
    
3、唐子・鍵遺跡
 唐子・鍵ミュージアムでは秋季企画展「弥生遺産~唐子・遺跡の土器~」が開催されていました。
      

 唐子池では池の水が引き抜かれていたので、全員が池に入り靴が泥だらけになりながら弥生時代の土器を楽しみながら採取しました。
  
4、天理参考館
 天理参考館では「青銅のまつり」が開催されており、弥生時代の銅鐸をはじめとする国内出土品(一部複製品も含む)や中国や朝鮮半島、タイなどの青銅製品が展示してありました。
    
 各地の銅鐸の違いも詳しく展示してありました。

5、西山古墳
 西山古墳は前方後方墳の上に前方後円墳が作られた大変珍しい古墳でした。


遠足・野洲市歴史民族博物館(日本最大の銅鐸の里帰り)を訪ねて

2014年01月11日 | 日記
 
 
 11月14日、晩秋の滋賀県野洲市にある野洲市歴史民族博物館を訪れました。
 ここは日本最大の銅鐸出土地で有名な場所で、別名「銅鐸資料館」ともよばれてます。入場するとすぐ野洲市のマスコット”ドウタク君”が迎えてくれました。

  野洲市の山中でみつかった日本最大の銅鐸(どうたく)が、130年ぶりに出土以来はじめて東京国立博物館より里帰りしている事もあり、館内は結構にぎわっていました。
 
 高さ134.7㎝重さ45.47㎏の日本最大銅鐸から、栗東市の下鈎(しもまがり)遺跡で出土した高さ3.4㎝重さ、重さ5.2gの日本最小のかわいらしい銅鐸まで計13点が展示されていました。
 銅鐸は約2000年前の弥生時代に造られた青銅器で、まつりのカネとして使われていましたが、やがて大型化が進み、鳴らすものから祈りを込めて飾るものへと変化していきました。
 近畿式のものは、【耳あり型】、三遠式のものは【耳なし型】と特徴があります。鋳型鋳造をしていた遺跡は見つからないので、近畿式は近畿地方、三遠式は東海地方のどこかで鋳造して運んできたのではないかと考えられています。共同社会から権力社会に移行するに従い銅鐸の時代も終わりをつげ鏡の時代へと移っていきます。

★最初銅鐸を発見したのは、明治14年14歳と16歳の少年がかわせみの巣穴を探していて偶然みつけたそうです。
★銅鐸は古代のなぞとロマンに満ち満ちていました。

  資料館の周りには、弥生の森歴史公園があり竪穴式住居や高床式倉庫、古代米の水田、古代大賀はす等が見られ古代の人の生活がかいま覗けた気がします。
 又その近くには大岩山古墳群があり、紅葉も見ごろの山に登って野洲川流域の景観を一望しました。甲山古墳、丸山古墳、天王山古墳も見て回り家型石棺などに実際に触って体験学習いたしました。
(3班 N・T)