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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『新人類の主張』(野々村文宏)

2009年08月15日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
野々村文宏『新人類の主張』(駸々堂出版、1985.7.25)

広義の新人類は、八〇年代なかばに20歳前後(若者)だったひとたち、ということになるだろうけれど、狭義には中森明夫、野々村文宏、田口賢司の3人を指す。この3人からさらに枠を拡げて生まれたのが前述した「新人類の旗手たち」といえるだろう。

中森明夫
野々村文宏---「新人類の旗手たち」(木佐貫邦子、平田オリザ含む)---世代としての新人類
田口賢司

ネット的には、80年代半ばに大活躍した西武ライオンズの若手選手を「新人類」と称すのが目立つ(清原ら。物怖じしない振る舞いを称して)。けれども、狭義の3人が思想的な基礎となったのは間違いない。

ということで、野々村の『新人類の主張』を読んでみる。

本書は、現在和光大学表現学部表現文化学科の教員である野々村の最初の著作である(もちろん、ぼくのこのノートは、過去のまた今日の野々村氏を誹謗中傷するつもりは全くありません。当時の言説のモードを本書から抽出してそこにどんな思考のOSが作動していたのか、それを分析することが目的です)。所収されているのは、「新人類の逆襲」「新人類の主張」「秘孔宣言」「私たちは新人類じゃない」「大リーグボール3号的言説へ向けて」「KYON2の書記法をめぐって」「RGBの共通領域」「クラフトワーク・ユーゲント」「テクノポップと未来派」「関係妄想機械」「怪獣図鑑的想像力」「ソフトビニール人形に愛をこめて」など(すべて論考のタイトル)。歌謡曲、テクノ、怪獣、マンガあたりが中心的な考察の対象。タイトルはほぼすべてすでにどこかでつけられたタイトルのパロディ。自分の言説をつくり出すのに、既出のものに身を隠しながらするというのが、まず特徴として見えてくる。

◎「新人類の逆襲」「新人類の主張」
この二本は、野々村について中森と田口が語り合うという鼎談。自分たちのアイデンティティを明記するのに、スペシャルズやYMOやセックス・ピストルズや鴨川つばめやイーターや『週刊プレイボーイ』やディーボやイーノやトーキングヘッズの名が次々とあげられてゆく(pp. 8-9)。「知ってる」ということが、自分の存在をかたちづくる。しかもひとつの対象の内に深まっていくと言うよりは、あれこれと話が飛んでいって深まっては行かない、その移動自体が彼ららしい身振りを示しているようだ。

「田口 誰がいちばん好きなの?
 野々村 もはや、そういう質問が死語と化しているところに、超ミーハー化社会の構造的不況があるわけだ。あえて言うなら、とんねるず!違うか、じゃあKYON2!違うか、じゃあ、風見慎吾!じゃあ、岡田有希子!ええい、網浜直子!!(笑)
 田口 イーノでしょ。
 野々村 僕、イーノに会ったんだよ。いや、東京で、エヘヘ。」(p. 17)

領域横断的に(歌謡曲も現代音楽あるいはニューウェイブも等価に)ミーハーであること。あいつもこいつも結局等価なんだよね。イーノに握手してもらったけど、全然感激薄くて、KYON2に会ったときの方がアガったなんて台詞も出てくるのだけれど、こうした発言には、等価じゃないはずのものが等価になっているという固定した差異が前提になっているからこその価値の逆転やそこへと感激というものあるのだ、ということが描かれている気がする。差異を決定的なものとしないという思考は、おたくの差異こそが重要とみなす思考と明確に異なるところだろう。彼らにかかれば、ドゥルーズもカントも花粉症の野々村も、「ビョーキ」という点で等価とみなされてゆく。

「田口 野々村が野々村っぽいことの決め手は、やっぱり「鼻」にあるな。
 中森 アレルギーや花粉症って、新人類の必須アミノ酸と化してるんじゃない?
 田口 鼻がつまるっていうのは、すごくドゥルーズに通じるものを感じるぜ。ドゥルーズがぜん息で常に脳細胞を刺激されたりしているとか、カントが常に偏頭痛で頭を刺激されてたように鼻がつまるっててせかいことだよ。ビョーキの勝利。」(p. 23)

こうした言説で本が出てしまうというところが、当時らしいのだろう。勢いに任せて書いたものがもてはやされた時代なのだな。大学生のレポートなどでも強引にあるものとあるものとを連関させて論じる類はいっぱいあるのだけれど、野々村の本書に載っている文章というのは、ほとんど大学生の勢い任せのレポートと変わらない。

「野々村 コミュニケーションってさ、僕はいわゆる言語的な意味のうけ答えってつまんなくてさ。別にボディ・ランゲージみたいな風にとられても困るんだけどさ。しゃべりながら無意識のうちに机をたたいている自分の行為とかさ。精神病患者が自分にしかわかんない文字とかつくったりするじゃん。文字の意味が解体していってちがう意味をもったりするとかね。すっごいよくわかるわけ。仕事しててつかれたりするとさ、文字が見てる前で、バラバラになるカンジがあって。
 KYON2で好きなのは、小鼻を指で上げるじゃない。それで同時に別のコミュニケーションが成立するようなことがあるのよね……これはものすごく好きだね。」(p. 31)

いろいろと語っているが、要は、アイドルが小鼻を指であげるという非アイドル的振る舞いをするところに、既存の振る舞いを超えた何か(別のコミュニケーション)が生じたと喜んでいるわけだ。80年代は、こうした解体を喜ぶ程に、固定した何かがあった時代なのだと思わされる。ズラしの時代。

「田口 んじゃ、野々村さ「前衛性」の問題やろーか。要するに文化人やる場合にしてもさ、クリティックにしても物書くにしても、言葉の前衛性・先端性をとりまぜた「コトバの前衛性」みたいなことがかかわってくるじゃない。そういうことに対する考えってどう?
 野々村 田口も難しいコト聞くね。も少し説明して。
 田口 うーん、自分自身への問いというか、内省のようなものがあるとか。
 野々村 何を答えていいのかよくわかんないけど、自己言及性っていうのは僕の場合はスゴクあるよ。だから僕ってすごいプレモダンな形のものを持っていてそれをやってることは確かだよ。けっこう恥ずかしいことやってるよね。
……
 野々村 モダンが欠落した思考のサーキットを使ってるんだよね。
 田口 「欠落したモダン」ってカッコイイ言い方だね。
 野々村 ポスト・モダンじゃないのよ。欠落したモダンの状態で子どもたちがこれから出てくるんだよ。怪獣って欠落したモダンだからね。
 田口 焼きそばとお好み焼きが合体したみたいなヤツ、ひとつの欠落したモダン焼き!
 野々村 焼き入れたろか、ホンマに。しかし、ニューアカ・ブームが終わった今、すごーく恥ずかしいものがあるな、この会話には。」(pp. 39-40)

まず「ニューアカ・ブーム」は、85年には終わっていたことが確認できる。83-84年に消費された「ニューアカ」。「ボスト・モダン」じゃないという発言は、結構気になる。「欠落したモダン」=「怪獣」=「子どもたち」。モダンのなかで「モダン」を欠落させた怪物的存在が自分たちだ、というのは、既存の規範には従わないけれど、「ポスト・モダン」じゃないということか。プレモダンだ、という発言もある。よく分からない。けれども、ここに浅田の「スキゾ・キッズ」との微妙な距離を感じる。「パラノ」じゃない僕は、「スキゾ」というよりは「怪獣」。そうか、そういうことじゃないのか。

新人類の主張=「パラノ」じゃない僕は「スキゾ」というより「怪獣」ですなんちゃって

「スキゾ・キッズ」は、本来、差異の差異性を徹底的に推し進める存在として描かれていたはず。「スキゾ・キッズ」というあり方に大いに刺激を受けたはずの「新人類」は、しかし、差異を「モダン」/「欠落したモダン」の差異へと固定したところで生まれる「怪獣」として自分をアイデンティファイする。「スキゾ・キッズ」と「怪獣」の距離が気になる。この「怪獣」として自己をアイデンティファイするというのは、村上-椹木的な振る舞いと似てはいないだろうか。ぼくは『REVIEW HOUSE 02』に寄稿した「彼らは「日本・現代・美術」ではない」で、Chim↑Pomや遠藤一郎のことを村上・会田・椹木ラインの「日本現代美術」とは似て非なるものだと論じた。そこで考えたのは、90年代の椹木のアイディアである「シミュレーショニズム」が90年代末に「日本・現代・美術」論へと変容していったという事態だった。「悪い場所」として「日本」を同定することと、「シミュレーショニズム」のポテンシャルは、別に一致させる必要のないものではないか、と思った。シミュレーショニズムのラディカルさ(徹底性)が、「悪い」/「良い」という固定した差異によって歪められてしまうのではないか。村上や会田や椹木がその振る舞いを意図的にやっているのならばいいとしても、少なくとも、彼らよりも若い世代の活動をそう切り取られてしまってはかなわないゾという思いが、ぼくにあの論考を書かせた。

Chim↑Pomや遠藤一郎を語るのに、80年代の文脈を導入するのはやめてくれ!

というのが、ぼくの思いだったのかも知れない。あらためて、80年代の言説をこうやって読み直してみるとぼくはいまのところ、こう言ってみたくなっている。

Chim↑Pomや遠藤一郎を語るのに、80年代半ばの文脈(「欠落したモダン」、固定した差異が生む怪獣)を導入するのはやめてくれ!


◎「おたく」との差異
では、「スキゾ・キッズ」と似て非なる「新人類」は、あらためて「パラノ」とどう違うのだろうか。

「野々村 「イリュージョニズムの発生装置」とか、「内なる外部」みたいなことって僕は相当興味あるからね。だからもう一つは外側に向かってどうやってプレザンスしていくか、中沢さんの言い方を借りて言えば。
 田口 ル・プレザンタシォンね。
 中森 そう言った方がカッコイイ。
 野々村 僕はさあ、イデオロギー操作されやすい人だと思うのね。のめりこんじゃう方だし。
 田口 わかるわかる。
 野々村 あきやすくて、ガサツでだらしないから逆に救われているとこもあるけど。
 中森 おたくになんなくてよかったよね。」(p. 46)

もう本当に、軽い(軽薄)だよなー、と思わされてしまう部分ですが、それは置いておいて(表象文化論の外部にいるからこそ、出てくる発言ですよね、「カッコイイ」って。インサイダーにならないミーハーということなのかな)、最後の中森の「おたくになんなくてよかったよね」という結論は、どう読むことができるのだろう。「あきやすくて、ガサツでだらしない」自分たちは、だから「救われている」(おたくにならないですんでいる)ということなんでしょうかね。一方「イデオロギー操作されやすい」「のめりこんじゃう」という率直な発言は、充分「パラノ」的な側面のあることが分かる。けれども、それがほどほどで、すぐに飽きて、別のものへと次々「のめりこんじゃう」のは、最も重要な価値観が「カッコイイ」か否かにあるからだろう。

とくに、アイドル歌手について言及するところは、「おたく」と共通する点だと思うんですけれど、違いはどこにあるのだろう。『おたくの本』にあったのは、C級のアイドルを追っかけするのおたくやパンチラを求めるカメラ小僧。彼らと野々村が違うのは、「スタア」に興味があるところか。スターシステムという本流に対して、アンチの身振りを無意識的にしてしまう小泉今日子に反応する新人類。

「トロトロ走るところから"カメ吉号"と命名された彼女の愛車が転倒している写真。そして路上には亀のように四ツン這いになった小泉今日子がいる。
 むろん、これは本当の事故ではない。事故をスキャンダルとして排除しタブー化するスタア=芸能人類に対して、反スタア=芸能非人類を標榜し、"あたらしさ"を路上で演じさせてみようとするハプニングの計画。」(p. 64)

「KYON2のクセは、欲望のままに、だらしなく挑発すること。
暗に何度も強調してきたように、彼女はなーんにも考えていない。「なーんにも考えていない」にも関わらず、僕らを驚かせてくれるその並はずれた才能。
 ひとつ付記しておこう。KYON2の無意識が、戸川純の無意識を気取る自意識とはまったく違うものであることを。無意識の無意識と、無意識を気取る自意識。」(pp. 64-65)

「スターシステムというゲームの規範にノリつつも、たえずはずしをかけていくKYON2の必殺ワザ」「小泉今日子の身のこなしの軽さと不確定性は、スター・システムのルールを無視した小田急沿線(ルビ:ノマドロジック)の相模原台地的で自由な運動性によってもたらされていたのだ。」(p. 69)

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