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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

盗用

2008年09月04日 | Weblog
下に、DC2に関する新しい記事を書いたばかりですが、備忘録として。

ちょっと前の宮沢章夫「富士日記2.1」に、学生のレポートのことがあった。ぼくも2つの大学で7月の末から8月にかけて採点をしていた。400人分のレポートとかテストとかに目を通して、宮沢さんとほぼ同じ経験をした。ぼくの場合は、なんとぼくのHPからまるまるコピペした輩が出た。頭と尻尾にちょっとコメントしているのだが、それもほとんど内容に触れておらず、しかもその内容の部分で引用先がまったく記載されていなかった。つまり、その学生は自分が書いたことにしていたのだった。「それ、書いたの俺だよ」って言ってやりたいが、もう講義は終わってしまった。ホガースという美術家が書いた美術理論書にダンスのことが書いてあって、という非常にマイナーだがぼくにとっては大事なポイントについてメモしたもので、でもまさか学生がホガースのダンス論のことなどひとりで思いつくわけはなく(講義でも今回取り上げなかった)、誰の本を読んだんだ(誰もいないよな)?、、、と読み進めたら、文体に何だか見覚えがあるよ、ってこれ俺じゃん!

こんなレポートに単位をやるべきか。どうしたかはここでは触れないけれど、一個考えることがあった。学生はなんでこんなに簡単に、コピペした文章を大事な、自分の成績に関わるレポートとして提出してしまうのか。ばれないと思っているのかも知れないけれど、別件で、学生番号の近い、つまり学科の友人らしい2人組は、あからさま似ている内容の文章を提出してきたりして、それはどこかのHPから借用して、適当に自分の言葉に直して提出しただけだろーと、そんなのすぐばれちゃうじゃんってことを実に平気でしてしまったりするのもいた。レポートの1割弱は、そうしたコピペレポートだった(どこの大学かは明記しないでおく)。

何でこんなに簡単にコピペレポートを出してしまうのか、ばれないと思っている以外では、どんなことが考えられるだろう。

ひとつの仮説は、デスクトップに映るデータは自分の物という意識があるのではないかということ。windows95が出て、自分のパソコンとネットが繋がった時に、一番感動したのは、ネット上にあるデータを自分のパソコン内に所有出来るということだった。画像とかとくに。デスクトップには故に、自分の物と他人の物の区別がつきにくくさせる、というところがあるのではないか。

もうひとつの仮説は、自分の意見というのは、すべて他人の意見のコピーだから、他人の意見をコピペして自分の意見にしてもあまり気にならないということ。人間のレディ・メイド化。自分の考えなど、他人に同調することでしかない。コスプレみたいなもの。自分の意見は思い凝らしてえるものではなく(ネット上にあるものから)選んでえるものと考えているのではないか。

この夏の一番嫌な出来事だったなー。

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