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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

東京デスロック「3人いる!」

2006年06月04日 | Weblog
を見た。

東京デスロック初見。小さなカフェスペースで、そのテーブルを使った3人芝居を観客がすし詰めでのぞき込む。萩尾望都『11人いる!』が元にあるらしい、部屋にいたら「自分」だと称する男が一人あらわれ、また同じことを言う女も一人あらわれ、誰が一体「自分」なのかと言い争う一時間。複雑でかつロジカルな分、身体のレヴェルでの出来事は希薄、でも小説でも恐らく映画でも成立しない演劇の「ここに体があること」の力で、複数の自分が居るという事態を説得する。それが一番効いていたのは後半、「「こいつ」がいて「おれ」がいるだろ、ねえ「こいつ」見える?」(とでも言うような)セリフをしゃべるとき、役者は「こいつ」「おれ」「こいつ」と言うたび自分の頭を指さしながらしゃべる、そのところだった。自分を僭称する「こいつ」もまた「おれ」も同じ身体をエージェントとしてもつ。それまでは、「こいつ」と「おれ」は二人の役者が別々にやっていたのだけれど、この瞬間「こいつ」と「おれ」はひとつの身体の内に重なってしまった。(多分、これだけの説明では何が何だか分からないだろう、な。非常に複雑な瞬間瞬間に関係性や論理が変化する舞台だったのだ、それを丁寧にトレースすることは出来ない)
演劇を批評(反省)する演劇。これは、ぼくから見れば、「代理=表象representation」そのものの演劇だ。誰が「自分」なのか、ここでは決して決することがない。それはそうだ、だってここでは「代理=表象」のレヴェルしか存在しないのだから。役と役を演じる身体との二つしかないのだから。それを捨象しても残る「自分」などはここにはない。演劇の哲学とでも言えるものを、存在しない「自分」というものをめぐる物語にすることによって「演劇らしさ」を残すことになった、それはともかく、最終的には「自分」は消えるものである以上、そして残るは役とその身体の緩いつながりである以上、出てくる形式がもつベクトルはチェルフィッチュの方法論がもつそれに重なる。などと言うことを考えた。

ところで昨日、NHKで「千年の帝国ビザンティン」という番組をやっていて、いまちょうど大学で中世美術を教えていることもあり見た。いやあ、モザイクというのは、すごいいいなあ。かけらの一つ一つが欠けた面を表にしてるそうで、そのせいで鋭い光をそれは反射しやすくなっているのだという。サン・ヴィターレ聖堂(ラヴェンナ)のユスティニアヌス帝のモザイクがドアップになった、それは実にグロテスクで美しいかけらの集まりだった。歯みたい?そう、「すきっぱ」みたいな、かけらとかけらの隙間が、連続の中のかなり大胆な非連続を示していて、その乱暴さがむしろ魅力的に見える。こんな映像(ちなみに写真は大帝の目のあたり)、本物見に行ったって見られない。カメラアイのデタラメ振りのなせる技でもある。


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