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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

大橋可也&ダンサーズ『明晰の鎖』

2008年02月11日 | ダンス
2/10
終幕が近づく頃、2時間弱という今日の日本人によるダンス公演としては相当長い部類に入るだろうこの作品を、ぼくはずっと続いていてもいい、いや、ずっと続いていてくれと思った(願った)。それが答えだ。きわめてユニークでしかし明らかに純粋にダンスであることを目論んだ作品。一年前の『CLOSURES』は面白かったけれど、ぼくにとっては自分(大橋自身のあるいはダンサーズの)のパロディあるいはアイロニーを元手にしている気がした。今作はそうではない。ストレート剛速球の100球ストライク、というかダーツが延々と的の真ん中に吸い込まれていく、というか、徹底した狙いが夾雑物をそぎ落とし、ただただ純粋な思いだけを、澄んだ渓谷の清水みたいに流れさせた2時間弱、だった。

簡単に言えば、舞台に貫かれていたのは「わたしたちはものです、すべてのものと等価の」という発想だった。中規模の劇場、観客の真ん前、つまり舞台奥は巨大な扉が開け放たれてしまっていて、外と内が、つまり劇場裏の道路と舞台空間が繋がった状態になっている。始まる前から公演の前半終了あたりまで、観客は、往来するひとと車とを背景にダンサーの所作を見ることとなった。この劇場に空いた穴は、日常と非日常、つまり凡庸な世界と価値ある芸術世界の隔たりを意識するというよりも、反対に、両者は等価であることを、どちらもたいした違いはないということを、観客に意識させた。例えば、歩くひと、走る車の運動が、目の前のダンサーたちが構築しようする運動のリズムに介入し、阻害し、緊張を生んだりするとき、ここの身体と向こうの身体は等しく、観客の視覚をドライヴする。

冒頭(第1部)、2人のあまりうだつのあがらない感じの男たちが登場する、すると脇の壁に括ってあった4×3メートルほどの直方体のキューブが4.5メートルの高さからドスーンと大きな音を立てて床に墜落した。その驚きがこの舞台の開始を告げる合図となった。合板に薄く白く塗られた箱。その図体のこっけいさとからっぽさは、この舞台の全体のトーンを決めるものでもあった。箱に用いられた白い合板は、箱が墜落する下に敷かれてもいて、また10×6メートルほどのスクリーンにも転用されていた。その後、男たちはばらばらに、唐突で痙攣的な動作を反復的に行っていく。そこには、いわゆるダンス的なテイストはない。細切れなひとつひとつの動作は、何かある記憶を閉じ込めているように見える。その記憶が具体的には何なのか、像を結ぶ手だては与えられない。けれども、自分の意志ではない何かに勝手に動かされているといったその運動は、それが放つ記憶の断片を見る者に確実に突き刺していく。また、その痙攣には、独特のフォルムが立ちあらわれてもいる。「そうであり、それ以外にはない」必然性を帯びたフォルムに見える。

2人が箒を手に周囲を掃除し始めた頃、四人の女たちがあらわれる(第2部)。彼女たちの運動も、男たち同様、像の結ばない記憶を携えている。時折、極めて具体的な動作が入る。「服をちょっとめくりおなかの辺りを触り、笑う」とか、なかには「走り込んでヘディングシュート」を決め続ける者もいる。振り向く。急にあわてて走る。動作は皆、きわめて抽象的であるにもかかわらずきわめて具体的に見える。それが、同色でちょっとずつ違いはあるにせよ全員スカート姿の女たちによって、ほぼ平等に踊られる。つまり、ここには個々人に個性が与えられてはいない。具体的な個人的な記憶を察知させる割には、すべてのダンサーが同じ動作を共有している。「幽霊」的な何かと感じる。チェルフィッチュの『ゴーストユース』で感じたのに似た、幽霊性。その舞台が、日常の歩く身体と走る車とシンクロする。どの運動も等価に、ただのからっぽな「もの」の動作に過ぎない、などと思えてくる。すると、あの大きな箱の色と女たちの服の色とが重なって見えてきて、女たちがますます、なかが空洞な箱に見えてくる。このとき照明には、頭上の30個ほどの蛍光灯がひとつひとつ点灯される、ということが起きていた。その一個一個の点灯のリズムも、ダンスに思えてくる。ものが踊る。それによって一層、踊る身体がただのものに見えてくる。あと、舞台の真ん中の真ん前がぽっこり空いていて、途中からその中で強い照明が光り出した。すると、この舞台そのものの「もの」性がたち上がってきた。舞台って、ようは並んだ黒い板じゃん、って。

この事態がひたすら40-50分は続いただろうか。その間、音響は前半の後半になるまでずっと外の音がアンプリファイアされているだけ。この執拗な、一個のアイディアの極端な展開、その多様なリフレクションは、まったく退屈ではなく、むしろどんどんトランシーな状態へ導かれていく。物語(個々人の抱える生)の断片だけが延々投げつけられていく。反復的に。ときおり、動作がシンクロしたり、連動したりする。と、ここにはある権力が機能している、とも感じさせる。最近のニブロールの公演も同じトーンですべて覆うオールオーヴァーを感じさせるところがある。ただ、ニブロールのそれの場合、美術で言えば抽象表現主義のようなテイストであるのに対して、この作品からは、ロバート・モリスやソル・ルウィット、カール・アンドレらミニマル・アートのテイストを感じる。この分岐点は、大きな違いを両者に与えていると思う。一種の象徴的イリュージョンを際だたせていくか、あるいは身体のもの性を際だたせていくか。

身体がものだとしても、そこには記憶が蓄積されているし、感傷や自己顕示欲や羞恥心などを蓄積させてもいる。公演の後半、第3部、三台のカメラが舞台に設置され、それぞれがひとりひとり前にいるダンサーたちを撮影し、その映像がスクリーンやテレビなど複数のモニターに映し出される。カメラの前で、彼女たちはさっきのダンサーたちとはうって変わり、別々の衣裳を纏い、個々別々の動作を、かなり感情を込めた動作をする。強烈な孤独感が漂う。けれど、それを阻害するように、一人の若い女がぶらぶらし、ときに女たちの孤独な一人遊びをじゃましたりする。そうしたクールネスは、今作に貫かれていて、ことあるごとに、出来事の意味がある方向に一元化されるのを阻んでいた。

最後、カメラは舞台を飛び出し、劇場外の景色を舞台に映しだした。それは、なんの変哲もない、とりたててなんの魅力もない日常の断片。ぼくたちがいきている日常。ぼくたちの身体が行き来し、ひとと接触し、喜んだり悲しんだり、記憶を蓄積している現場。そこ、と、ここ。違いはない。そう思わされることで、ある感動が押し寄せてくる。この作品が丁寧に眼差し愛しみダンスへと変換した上でぼくたちに繰り返し見せていたのは、他ならぬ日常の自分たちであり、その延長物なのだった。「日常の延長物」としてダンスがあること。ただしそれは、ダンスがだらだらと素人的であればそれでいい、ということではない。むしろ、日常のぼくたちがもつ情報量や強度を正しく再生するエネルギーとテクニックとコンセプトがなければ不可能なことだ。その逆説に挑むこと。大橋がいま行っている賭は、多分そこにあって、そのひとまずの達成にぼくはちょっと、というかかなり興奮させられた。

吉祥寺シアターにて。
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