あらかじめ 記しておきたいことがあります。
昨日 一昨日と 更新できなかったため、 本日は 長めになると思います。
時間に余裕が、心に余裕がある時に 読んでいただけたらうれしく思います。
高校2年の秋、
主将として 初の公式戦。
地区予選を通過し、本大会では、夏に対戦したあの 多田野投手(現 インディアンズ傘下3Aバファロー)と再び 対戦。またしても 完全に抑えこまれ 惜敗。
そして、冬を迎える。
1年次の冬の経験から、冬の重要性はよくわかっていた。
が、肘の故障。秋から 肘に痛みを感じるようになった。
これは推測だが、あの人差し指のケガ以降、投げ方、リリースに何か違いが生じたのは確かで、これが影響したのだと思う。
結局、この痛みのせいで、遠投はできず、投げた後は、肘が真っ直ぐに伸びない状態だった。
これは ウェイトトレーニングにも影響した。
肘の故障。
肘の骨が やや欠けてしまっていた。虫歯状態だった。
結局 引退まで 遠投はできなかった。
送球の乱れも 増えた。また そこから守備全体のリズムも乱れた。
それ以前からだが、前回記したように 守備の全てが 2年次とは異なっていた。
2年次の安定感は どこにいったのか・・・・自分でも わからなかった。
打撃。肘の影響はここにも あった。
最悪の状態の時は、バットを振っても 肘は痛かった・・・。
しかし、バットはけっこう振り込んだ。冬から春 夏と。
家で ネットを張り、ティーバッティング(ボールを置いて 打つ)をほとんど毎日 帰宅後行った。コースごとにボールを置き、イメージして振り込んだ。
その成果か、春から夏にかけて、自分でも打撃の何かを摑んだような気はしていた。
実際、春の遠征、春の大会、 そして夏と結果は出ていた。
チームはというと、
やはりまとまりきれていない。
秋から冬、春、夏と、結局 最後まで まとまりきらなかったような気がする。
もちろん、当時の私なりに ベストを尽くしていたと思う。
だが、一番の問題が信頼関係。
部員同士が、そして監督と部員が お互いを信頼し合えるかどうか・・・。
私自身、監督と 一時 信頼関係はゼロに等しかった。
新チームに成り立て、ある勘違いから私は信頼を失う。
また、タイミング悪く、監督がいない時、私はもちろん 他の部員の行動を注意していたが、たまたま、監督が戻ってきた瞬間、他の部員がサボっていたり・・・そして 監督に呼ばれ、怒られる。こんなことが何度か あった。
でも、なんとか春から夏にかけては 徐々に信頼を取り戻したと思う。
では 部員同士はどうか?他の部員と監督は?
これは全て私の責任だった。私の力量不足だったということだ。
大会はというと、春もまた県大会で 多田野投手に抑えこまれ、敗戦。
しかし、この試合、私が前回記したように 楽しかった試合の一つだった。
もともと 大会は好きだった。良いグランドで おもいきり野球ができるし、観客もいる。
これこそ、私が私でいられる唯一の時間、思う存分表現できる唯一の場だった。
また、この大会で私の「理想のキャプテン像」に近いこともできた。
この試合、結局、チームで3,4本の安打だった。そのうち 2本は私だった。
これまで試合中、あまり技術的なことをアドバイスすることは少なかったが、この試合である後輩にアドバイスをした。その後の打席で、彼はヒットを打つ。
多田野投手は 当時から真っ直ぐは速い、スライダーはキレル。
そのため、まずこの真っ直ぐに差し込まれたくないという思いから、前で打とうという意識が強く、体重が前に突っ込み間がない、溜めがないバッティングになり 自分のスウィングができていなかった。 そこで 私は 「引き付けろ。自分のポイントで、タイミングで打て。詰ってもいい。」と 後輩にアドバイスした(おそらく彼は覚えてないだろうが)。結果、詰りながらもセンター前ヒット。その後 チャンスとなった。
試合は負けたが、シード権をとることができ、個人的には 楽しい試合だった。
そして、夏。
私は主将として、抽選会場に向かった。
この年は 記念大会で 千葉から2校 甲子園に行ける。チャンスの年。
会場に着くと、対戦したことのあるチームはある程度 顔をみてわかった。その一つに 成田高校があった。この成田高校、目についたのは 確かであった。
そして 抽選。
次々と 名前がトーナメント表に埋まっていく。
「お山」は シード校。箱から取るのではなく、テーブルに並べられた封筒を選ぶ。
「市立銚子高校 22番」
聞いた瞬間 22 「ニッニッ^^」で良いかもって思った。
また あの3大会連続で敗れた八千代松蔭は別のエリア。決勝まで当たらない。
そして 次々と、有力校が 名前を呼ばれ、比較的 離れた位置に名前が置かれた。
「おお、結構良い感じだ」と思っていた。
そして 次の瞬間、
「成田高校」
その瞬間、「あ・・成田がまだいたか・・・・」と思った。
シード校ではない有力校は もうほとんど終わったと思っていただが、成田を忘れていたため、
そういう気持ちになった。
実は、「まさか・・・・」と思っていた。
そのまさかだった。
成田高校の名前が、市立銚子高校の隣に置かれた。
帰ってくると、皆は あまり良い表情をしていなかった。
まるで キツイと言っているかのように。実際 口にしているものもいた。
そして 本番。
高校野球 最後の夏。
初戦は、99.9% 成田高校。
成田は1回戦 格下チームと対戦。結果、快勝で、2回戦へ。
昨年の夏と、逆の立場となっていた。
しかし、実際は、チャレンジャー。というのも、秋に対戦し、負けている。
チーム状態は、どうだったろうか。
できる限りのことはしたし、チームとしてやり残しはなかったと思いたい。
自分達の力さえ発揮できれば 十分 上は狙える。
発揮できさえすれば・・・・・・。
私は、とにかく夏のこの雰囲気が好きで、楽しかった。
グランドに出て、観客は満員だった。(相手の成田は全校応援だったし)
シード校ということで もちろんTV放送。
シートノックを受けていても、楽しかった。なんだか昨年のように のびのびしていた。
やっと羽を伸ばせる、自分の野球ができる、と。
が、この試合が、私の高校野球最後の試合となってしまった。
試合は、お山が先制。
相手のエラーにつけこみ、スクイズ。そして 私のタイムリーで2点を先取した。
しかし、我が2年生投手(背番号18)がつかまり、逆転を許す。
しかし、打の「お山」なら問題なし と言いたいところだが、抑えこまれる。
相手投手は、高校レベルでは 良いほうかな・・。悪くはないと言っておこう。
しかし、お山のレベルからして 打てない投手ではない。
しかし、不運も重なる。良い当たりは正面。相手の好プレー。
結果、私のタイムリー以降、点を奪うことはできなかった。
個人的には、楽しんでいた。
やはり昨年の経験が活きていた。他のメンバーよりも余裕もあったし、どんなに相手の応援がすごくても動じず、どんなにうるさくても バッターボックスで監督の声は聞こえた。
皆にも 声をかけ、緊張気味の選手をほぐすなど、先頭に立って、中心になって 闘っていた。
私らしく、またキャプテンらしくいれたような気がする。
2打席目、2アウトから 前の打者が3ベースで出塁。私にチャンスでまわってくる。
1打席目のタイムリーの後だけに、気分もノっていた。
しかし、レフトフライ。大きな飛球だった。完璧な内容ではなかったが、逆風にも関わらず、フェンス際までいった。
が、相手の強打者、当時2年の岩館選手(現 巨人)は レフトスタンドに叩き込んだ。
最終回、最後のバッターは 私だった。
2s-3Bからのアウトコース低めのスライダーをセンターに打ち返す。私らしいバッティングだった。打撃内容は完璧だった。私がずっと取り組んできたアウトコース変化球の理想的な打ち方だった。が、センターライナーに終わり、ゲームセット。
私の夏が、高校野球が終わった瞬間である。
相手の成田高校の選手は、抱き合いながら喜んだ。中には 泣いている選手もいた。
まるで、去年の私達を見ているかのようだった。
その後、成田高校は 決勝まで進み、惜しくも八千代松蔭、多田野投手の前に僅差で敗れる。
試合終了後、
スタンドに挨拶をし、私はグランドに別れを告げた。
私は 高校で野球を終えるつもりだった。右手でグランドの土に触れ、心の中で 「ありがとう」と言った。
ベンチ裏では、監督から話があった。
その時、ほとんどが泣いていた。が、私には涙がなかった。
前から、泣かないと決めていた。それは 去年の主将の姿でもあった。
すがすがしい表情で、語りかける姿があった。
私は、その後、父兄にも涙無しに 挨拶をする。
今だからいいだろう。そこで言った内容など 本心でもなんでもない。
そこで、「精一杯やりました。ベストを尽くしました・・・などなど」と言ったが、
本当なら、「悔しいです!!」と、または、皆に対して、「申し訳ない!!」という気持ちだった。高校に戻った時は、父兄には、今度はお礼の意を述べた。
結局、球場を後にするまで、涙一つ零さなかった。
同期の仲間、後輩に声をかけ、なんとか顔を上げさせた。
そして、バスに乗った。
皆が、バスの中で、落ち着き、寝入っている時、
私は窓の外を眺めながら、いろいろなことを思い出していた。
その時、目から涙が 零れていた。
誰にも 気づかれずに、一人 泣いた。
夏の記録
4打数1安打 1打点 出塁率.500(エラーで1つ出塁) 守備率1.000
昨日 一昨日と 更新できなかったため、 本日は 長めになると思います。
時間に余裕が、心に余裕がある時に 読んでいただけたらうれしく思います。
高校2年の秋、
主将として 初の公式戦。
地区予選を通過し、本大会では、夏に対戦したあの 多田野投手(現 インディアンズ傘下3Aバファロー)と再び 対戦。またしても 完全に抑えこまれ 惜敗。
そして、冬を迎える。
1年次の冬の経験から、冬の重要性はよくわかっていた。
が、肘の故障。秋から 肘に痛みを感じるようになった。
これは推測だが、あの人差し指のケガ以降、投げ方、リリースに何か違いが生じたのは確かで、これが影響したのだと思う。
結局、この痛みのせいで、遠投はできず、投げた後は、肘が真っ直ぐに伸びない状態だった。
これは ウェイトトレーニングにも影響した。
肘の故障。
肘の骨が やや欠けてしまっていた。虫歯状態だった。
結局 引退まで 遠投はできなかった。
送球の乱れも 増えた。また そこから守備全体のリズムも乱れた。
それ以前からだが、前回記したように 守備の全てが 2年次とは異なっていた。
2年次の安定感は どこにいったのか・・・・自分でも わからなかった。
打撃。肘の影響はここにも あった。
最悪の状態の時は、バットを振っても 肘は痛かった・・・。
しかし、バットはけっこう振り込んだ。冬から春 夏と。
家で ネットを張り、ティーバッティング(ボールを置いて 打つ)をほとんど毎日 帰宅後行った。コースごとにボールを置き、イメージして振り込んだ。
その成果か、春から夏にかけて、自分でも打撃の何かを摑んだような気はしていた。
実際、春の遠征、春の大会、 そして夏と結果は出ていた。
チームはというと、
やはりまとまりきれていない。
秋から冬、春、夏と、結局 最後まで まとまりきらなかったような気がする。
もちろん、当時の私なりに ベストを尽くしていたと思う。
だが、一番の問題が信頼関係。
部員同士が、そして監督と部員が お互いを信頼し合えるかどうか・・・。
私自身、監督と 一時 信頼関係はゼロに等しかった。
新チームに成り立て、ある勘違いから私は信頼を失う。
また、タイミング悪く、監督がいない時、私はもちろん 他の部員の行動を注意していたが、たまたま、監督が戻ってきた瞬間、他の部員がサボっていたり・・・そして 監督に呼ばれ、怒られる。こんなことが何度か あった。
でも、なんとか春から夏にかけては 徐々に信頼を取り戻したと思う。
では 部員同士はどうか?他の部員と監督は?
これは全て私の責任だった。私の力量不足だったということだ。
大会はというと、春もまた県大会で 多田野投手に抑えこまれ、敗戦。
しかし、この試合、私が前回記したように 楽しかった試合の一つだった。
もともと 大会は好きだった。良いグランドで おもいきり野球ができるし、観客もいる。
これこそ、私が私でいられる唯一の時間、思う存分表現できる唯一の場だった。
また、この大会で私の「理想のキャプテン像」に近いこともできた。
この試合、結局、チームで3,4本の安打だった。そのうち 2本は私だった。
これまで試合中、あまり技術的なことをアドバイスすることは少なかったが、この試合である後輩にアドバイスをした。その後の打席で、彼はヒットを打つ。
多田野投手は 当時から真っ直ぐは速い、スライダーはキレル。
そのため、まずこの真っ直ぐに差し込まれたくないという思いから、前で打とうという意識が強く、体重が前に突っ込み間がない、溜めがないバッティングになり 自分のスウィングができていなかった。 そこで 私は 「引き付けろ。自分のポイントで、タイミングで打て。詰ってもいい。」と 後輩にアドバイスした(おそらく彼は覚えてないだろうが)。結果、詰りながらもセンター前ヒット。その後 チャンスとなった。
試合は負けたが、シード権をとることができ、個人的には 楽しい試合だった。
そして、夏。
私は主将として、抽選会場に向かった。
この年は 記念大会で 千葉から2校 甲子園に行ける。チャンスの年。
会場に着くと、対戦したことのあるチームはある程度 顔をみてわかった。その一つに 成田高校があった。この成田高校、目についたのは 確かであった。
そして 抽選。
次々と 名前がトーナメント表に埋まっていく。
「お山」は シード校。箱から取るのではなく、テーブルに並べられた封筒を選ぶ。
「市立銚子高校 22番」
聞いた瞬間 22 「ニッニッ^^」で良いかもって思った。
また あの3大会連続で敗れた八千代松蔭は別のエリア。決勝まで当たらない。
そして 次々と、有力校が 名前を呼ばれ、比較的 離れた位置に名前が置かれた。
「おお、結構良い感じだ」と思っていた。
そして 次の瞬間、
「成田高校」
その瞬間、「あ・・成田がまだいたか・・・・」と思った。
シード校ではない有力校は もうほとんど終わったと思っていただが、成田を忘れていたため、
そういう気持ちになった。
実は、「まさか・・・・」と思っていた。
そのまさかだった。
成田高校の名前が、市立銚子高校の隣に置かれた。
帰ってくると、皆は あまり良い表情をしていなかった。
まるで キツイと言っているかのように。実際 口にしているものもいた。
そして 本番。
高校野球 最後の夏。
初戦は、99.9% 成田高校。
成田は1回戦 格下チームと対戦。結果、快勝で、2回戦へ。
昨年の夏と、逆の立場となっていた。
しかし、実際は、チャレンジャー。というのも、秋に対戦し、負けている。
チーム状態は、どうだったろうか。
できる限りのことはしたし、チームとしてやり残しはなかったと思いたい。
自分達の力さえ発揮できれば 十分 上は狙える。
発揮できさえすれば・・・・・・。
私は、とにかく夏のこの雰囲気が好きで、楽しかった。
グランドに出て、観客は満員だった。(相手の成田は全校応援だったし)
シード校ということで もちろんTV放送。
シートノックを受けていても、楽しかった。なんだか昨年のように のびのびしていた。
やっと羽を伸ばせる、自分の野球ができる、と。
が、この試合が、私の高校野球最後の試合となってしまった。
試合は、お山が先制。
相手のエラーにつけこみ、スクイズ。そして 私のタイムリーで2点を先取した。
しかし、我が2年生投手(背番号18)がつかまり、逆転を許す。
しかし、打の「お山」なら問題なし と言いたいところだが、抑えこまれる。
相手投手は、高校レベルでは 良いほうかな・・。悪くはないと言っておこう。
しかし、お山のレベルからして 打てない投手ではない。
しかし、不運も重なる。良い当たりは正面。相手の好プレー。
結果、私のタイムリー以降、点を奪うことはできなかった。
個人的には、楽しんでいた。
やはり昨年の経験が活きていた。他のメンバーよりも余裕もあったし、どんなに相手の応援がすごくても動じず、どんなにうるさくても バッターボックスで監督の声は聞こえた。
皆にも 声をかけ、緊張気味の選手をほぐすなど、先頭に立って、中心になって 闘っていた。
私らしく、またキャプテンらしくいれたような気がする。
2打席目、2アウトから 前の打者が3ベースで出塁。私にチャンスでまわってくる。
1打席目のタイムリーの後だけに、気分もノっていた。
しかし、レフトフライ。大きな飛球だった。完璧な内容ではなかったが、逆風にも関わらず、フェンス際までいった。
が、相手の強打者、当時2年の岩館選手(現 巨人)は レフトスタンドに叩き込んだ。
最終回、最後のバッターは 私だった。
2s-3Bからのアウトコース低めのスライダーをセンターに打ち返す。私らしいバッティングだった。打撃内容は完璧だった。私がずっと取り組んできたアウトコース変化球の理想的な打ち方だった。が、センターライナーに終わり、ゲームセット。
私の夏が、高校野球が終わった瞬間である。
相手の成田高校の選手は、抱き合いながら喜んだ。中には 泣いている選手もいた。
まるで、去年の私達を見ているかのようだった。
その後、成田高校は 決勝まで進み、惜しくも八千代松蔭、多田野投手の前に僅差で敗れる。
試合終了後、
スタンドに挨拶をし、私はグランドに別れを告げた。
私は 高校で野球を終えるつもりだった。右手でグランドの土に触れ、心の中で 「ありがとう」と言った。
ベンチ裏では、監督から話があった。
その時、ほとんどが泣いていた。が、私には涙がなかった。
前から、泣かないと決めていた。それは 去年の主将の姿でもあった。
すがすがしい表情で、語りかける姿があった。
私は、その後、父兄にも涙無しに 挨拶をする。
今だからいいだろう。そこで言った内容など 本心でもなんでもない。
そこで、「精一杯やりました。ベストを尽くしました・・・などなど」と言ったが、
本当なら、「悔しいです!!」と、または、皆に対して、「申し訳ない!!」という気持ちだった。高校に戻った時は、父兄には、今度はお礼の意を述べた。
結局、球場を後にするまで、涙一つ零さなかった。
同期の仲間、後輩に声をかけ、なんとか顔を上げさせた。
そして、バスに乗った。
皆が、バスの中で、落ち着き、寝入っている時、
私は窓の外を眺めながら、いろいろなことを思い出していた。
その時、目から涙が 零れていた。
誰にも 気づかれずに、一人 泣いた。
夏の記録
4打数1安打 1打点 出塁率.500(エラーで1つ出塁) 守備率1.000