Dream

~Baseball is my Life~

私の野球人生 ⑨ ~高校編 Ⅶ ~

2005-05-25 16:41:11 | 野球
あらかじめ 記しておきたいことがあります。
昨日 一昨日と 更新できなかったため、 本日は 長めになると思います。
時間に余裕が、心に余裕がある時に 読んでいただけたらうれしく思います。


高校2年の秋、
主将として 初の公式戦。
地区予選を通過し、本大会では、夏に対戦したあの 多田野投手(現 インディアンズ傘下3Aバファロー)と再び 対戦。またしても 完全に抑えこまれ 惜敗。

そして、冬を迎える。
1年次の冬の経験から、冬の重要性はよくわかっていた。
が、肘の故障。秋から 肘に痛みを感じるようになった。
これは推測だが、あの人差し指のケガ以降、投げ方、リリースに何か違いが生じたのは確かで、これが影響したのだと思う。
結局、この痛みのせいで、遠投はできず、投げた後は、肘が真っ直ぐに伸びない状態だった。
これは ウェイトトレーニングにも影響した。

肘の故障。
肘の骨が やや欠けてしまっていた。虫歯状態だった。
結局 引退まで 遠投はできなかった。
送球の乱れも 増えた。また そこから守備全体のリズムも乱れた。
それ以前からだが、前回記したように 守備の全てが 2年次とは異なっていた。
2年次の安定感は どこにいったのか・・・・自分でも わからなかった。

打撃。肘の影響はここにも あった。
最悪の状態の時は、バットを振っても 肘は痛かった・・・。
しかし、バットはけっこう振り込んだ。冬から春 夏と。
家で ネットを張り、ティーバッティング(ボールを置いて 打つ)をほとんど毎日 帰宅後行った。コースごとにボールを置き、イメージして振り込んだ。
その成果か、春から夏にかけて、自分でも打撃の何かを摑んだような気はしていた。
実際、春の遠征、春の大会、 そして夏と結果は出ていた。

チームはというと、
やはりまとまりきれていない。
秋から冬、春、夏と、結局 最後まで まとまりきらなかったような気がする。
もちろん、当時の私なりに ベストを尽くしていたと思う。
だが、一番の問題が信頼関係。
部員同士が、そして監督と部員が お互いを信頼し合えるかどうか・・・。
私自身、監督と 一時 信頼関係はゼロに等しかった。
新チームに成り立て、ある勘違いから私は信頼を失う。
また、タイミング悪く、監督がいない時、私はもちろん 他の部員の行動を注意していたが、たまたま、監督が戻ってきた瞬間、他の部員がサボっていたり・・・そして 監督に呼ばれ、怒られる。こんなことが何度か あった。
でも、なんとか春から夏にかけては 徐々に信頼を取り戻したと思う。
では 部員同士はどうか?他の部員と監督は? 

これは全て私の責任だった。私の力量不足だったということだ。

大会はというと、春もまた県大会で 多田野投手に抑えこまれ、敗戦。
しかし、この試合、私が前回記したように 楽しかった試合の一つだった。
もともと 大会は好きだった。良いグランドで おもいきり野球ができるし、観客もいる。
これこそ、私が私でいられる唯一の時間、思う存分表現できる唯一の場だった。
また、この大会で私の「理想のキャプテン像」に近いこともできた。
この試合、結局、チームで3,4本の安打だった。そのうち 2本は私だった。
これまで試合中、あまり技術的なことをアドバイスすることは少なかったが、この試合である後輩にアドバイスをした。その後の打席で、彼はヒットを打つ。
多田野投手は 当時から真っ直ぐは速い、スライダーはキレル。
そのため、まずこの真っ直ぐに差し込まれたくないという思いから、前で打とうという意識が強く、体重が前に突っ込み間がない、溜めがないバッティングになり 自分のスウィングができていなかった。 そこで 私は 「引き付けろ。自分のポイントで、タイミングで打て。詰ってもいい。」と 後輩にアドバイスした(おそらく彼は覚えてないだろうが)。結果、詰りながらもセンター前ヒット。その後 チャンスとなった。
試合は負けたが、シード権をとることができ、個人的には 楽しい試合だった。

そして、夏。
私は主将として、抽選会場に向かった。
この年は 記念大会で 千葉から2校 甲子園に行ける。チャンスの年。
会場に着くと、対戦したことのあるチームはある程度 顔をみてわかった。その一つに 成田高校があった。この成田高校、目についたのは 確かであった。

そして 抽選。
次々と 名前がトーナメント表に埋まっていく。
「お山」は シード校。箱から取るのではなく、テーブルに並べられた封筒を選ぶ。

「市立銚子高校 22番」

聞いた瞬間 22 「ニッニッ^^」で良いかもって思った。
また あの3大会連続で敗れた八千代松蔭は別のエリア。決勝まで当たらない。
そして 次々と、有力校が 名前を呼ばれ、比較的 離れた位置に名前が置かれた。
「おお、結構良い感じだ」と思っていた。
そして 次の瞬間、
「成田高校」 
その瞬間、「あ・・成田がまだいたか・・・・」と思った。
シード校ではない有力校は もうほとんど終わったと思っていただが、成田を忘れていたため、
そういう気持ちになった。
実は、「まさか・・・・」と思っていた。
そのまさかだった。
成田高校の名前が、市立銚子高校の隣に置かれた。

帰ってくると、皆は あまり良い表情をしていなかった。
まるで キツイと言っているかのように。実際 口にしているものもいた。

そして 本番。
高校野球 最後の夏。

初戦は、99.9% 成田高校。
成田は1回戦 格下チームと対戦。結果、快勝で、2回戦へ。
昨年の夏と、逆の立場となっていた。
しかし、実際は、チャレンジャー。というのも、秋に対戦し、負けている。

チーム状態は、どうだったろうか。
できる限りのことはしたし、チームとしてやり残しはなかったと思いたい。
自分達の力さえ発揮できれば 十分 上は狙える。
発揮できさえすれば・・・・・・。

私は、とにかく夏のこの雰囲気が好きで、楽しかった。
グランドに出て、観客は満員だった。(相手の成田は全校応援だったし)
シード校ということで もちろんTV放送。
シートノックを受けていても、楽しかった。なんだか昨年のように のびのびしていた。
やっと羽を伸ばせる、自分の野球ができる、と。
が、この試合が、私の高校野球最後の試合となってしまった。

試合は、お山が先制。
相手のエラーにつけこみ、スクイズ。そして 私のタイムリーで2点を先取した。
しかし、我が2年生投手(背番号18)がつかまり、逆転を許す。
しかし、打の「お山」なら問題なし と言いたいところだが、抑えこまれる。
相手投手は、高校レベルでは 良いほうかな・・。悪くはないと言っておこう。
しかし、お山のレベルからして 打てない投手ではない。
しかし、不運も重なる。良い当たりは正面。相手の好プレー。
結果、私のタイムリー以降、点を奪うことはできなかった。

個人的には、楽しんでいた。
やはり昨年の経験が活きていた。他のメンバーよりも余裕もあったし、どんなに相手の応援がすごくても動じず、どんなにうるさくても バッターボックスで監督の声は聞こえた。
皆にも 声をかけ、緊張気味の選手をほぐすなど、先頭に立って、中心になって 闘っていた。
私らしく、またキャプテンらしくいれたような気がする。

2打席目、2アウトから 前の打者が3ベースで出塁。私にチャンスでまわってくる。
1打席目のタイムリーの後だけに、気分もノっていた。
しかし、レフトフライ。大きな飛球だった。完璧な内容ではなかったが、逆風にも関わらず、フェンス際までいった。
が、相手の強打者、当時2年の岩館選手(現 巨人)は レフトスタンドに叩き込んだ。

最終回、最後のバッターは 私だった。
2s-3Bからのアウトコース低めのスライダーをセンターに打ち返す。私らしいバッティングだった。打撃内容は完璧だった。私がずっと取り組んできたアウトコース変化球の理想的な打ち方だった。が、センターライナーに終わり、ゲームセット。
私の夏が、高校野球が終わった瞬間である。

相手の成田高校の選手は、抱き合いながら喜んだ。中には 泣いている選手もいた。
まるで、去年の私達を見ているかのようだった。
その後、成田高校は 決勝まで進み、惜しくも八千代松蔭、多田野投手の前に僅差で敗れる。

試合終了後、
スタンドに挨拶をし、私はグランドに別れを告げた。
私は 高校で野球を終えるつもりだった。右手でグランドの土に触れ、心の中で 「ありがとう」と言った。

ベンチ裏では、監督から話があった。
その時、ほとんどが泣いていた。が、私には涙がなかった。
前から、泣かないと決めていた。それは 去年の主将の姿でもあった。
すがすがしい表情で、語りかける姿があった。

私は、その後、父兄にも涙無しに 挨拶をする。
今だからいいだろう。そこで言った内容など 本心でもなんでもない。
そこで、「精一杯やりました。ベストを尽くしました・・・などなど」と言ったが、
本当なら、「悔しいです!!」と、または、皆に対して、「申し訳ない!!」という気持ちだった。高校に戻った時は、父兄には、今度はお礼の意を述べた。

結局、球場を後にするまで、涙一つ零さなかった。
同期の仲間、後輩に声をかけ、なんとか顔を上げさせた。

そして、バスに乗った。

皆が、バスの中で、落ち着き、寝入っている時、
私は窓の外を眺めながら、いろいろなことを思い出していた。
その時、目から涙が 零れていた。
誰にも 気づかれずに、一人 泣いた。

夏の記録
4打数1安打 1打点 出塁率.500(エラーで1つ出塁) 守備率1.000 



夜空には・・

2005-05-22 15:25:31 | カリフォルニア 


今日はやや 明るい気がする
周りのアパートの電気のせいか、または ただの気のせいか・・・

ふと、夜空を見上げてみる

そこには 月
満月ではないが、キレイな月が ちょうど 私の正面にあった

だから 明るく感じたのか

そういや 月を みるのは 久しぶり
昔 夜に外を走ると 月が 追いかけてきた
このことを とても不思議に また なんだか怖くも思ったあの頃
大抵 野球の帰りだったかな
走っても、走っても ついてくる 
怖かったなあ

日本は 今 太陽かな
夜空の向こうに ふと日本を思い浮かべる

夜空に月
ちょっと 癒された気がした

私の野球人生 ⑧ ~高校編Ⅵ~

2005-05-21 16:36:09 | 野球
高校2年の夏まで、私の高校野球は、実に 楽しいものであった。
もちろん、辛いことも 苦しいこともあったが、目標に向かって努力し、自分の野球ができていたように思う。私らしく野球ができていたし、そういう点では、自分を評価できる。

キャプテンに就任以来、私は野球を楽しんでいたのかどうか、正直、わからない。

私のキャプテン像は、
「プレーで引っ張る」が中心にあった。
ベストは、口でどうこう言うよりも、プレーで引っ張ることだった。
レギュラーで打って、守って、頼れる主将。これまでの主将のように。

しかし、現実は、理想とはかけ離れていた。
打てないし、守備でもミスが目立つようになる。全てが不振に陥った。
以前は、自分が打つ、ゴロをさばく、ということ一つ一つに うれしさを感じていたが、もうそれはなかった。打って当然、守って当然なんだ と思っていたからだ。
だから ミスが出ると、「何やってんだ・・俺は!!」と強く自分を責めた。
また、「キャプテンなのに・・・・」という自分に対する不甲斐無さ、情けなさの中で、野球をしていた。

楽しさ、うれしさは、ない。 がむしゃらさもない。
もう私らしさは、なくなっていた。

それでも、なんとかチーム力をアップさせ、甲子園を目指した。
先輩達がサボって、ごまかしていたダッシュの本数も1本もごまかさなかった。
ごまかした分、負けた。ごまかさなければもっと上にいけると、考えた。
練習中は、誰よりも声を出し、そして皆を叱咤した。
とにかく、チームとして後悔のないよう、やり残しのないようにと思った。

個人的には、打撃向上を目指し、家でネットを張り、ティーバッティングを毎日 繰り返した。
結果、打撃は向上した。
今まで以上に、やることはやっていたが、それに対する考え方は全く違っていた。
うまくなりたい という気持ちとは 違っていた。


2年夏以降、私が 純粋に野球を楽しめたのは、
あえて挙げるなら、春の県大会、夏の最後の大会だけだったように思う。
それ以外は、苦悩の日々。腹立たしい日々だった。

実際の試合等の結果は、次回に。








5月だけど・・・

2005-05-20 17:16:45 | カリフォルニア 
ヨッシャ~!!

と、当時 近鉄の監督だった佐々木監督がドラフトで福留選手をくじで引き当ててた瞬間の雄叫び。
結局、この雄叫びもむなしく、福留選手は 社会人に行くことになってしまうのですが、数年後、佐々木監督が、中日のヘッド?コーチになり、共に闘うとは ある意味、ヨッシャ~!!だったかも?
ということで、本日は、この熱い雄叫びに関連して 暑いカリフォルニアについて、記したいと思います。

暑いです。
まだ5月半ば過ぎですが、もう夏です。
私も、練習で日中はずっと外にいるわけで、どうも冷たいものに手がすぐ伸びてしまい、
お腹を心配する日々が続いております。気をつけているため、今のところ、まだお腹を壊すには至っておりませんが、注意が必要です。がぶ飲み注意です。
が、どうも、パワー不足、エネルギー不足を感じています。
暑さに負けているのか・・・どうも、食も進みませんし・・。

こういうのって、もしかして、夏バテってやつ?
夏バテの前兆というか、こういう傾向から夏バテに陥るのではないだろうか。

待てよ・・・・
そうだ、大丈夫だ。
だって・・
だって、まだ・・・・夏じゃない!!

暑さは、夏だけど~
夏じゃなかった~!!

と、「となりのトトロ」での
夢だけど~   夢じゃなかった~!! (by サツキ and メイ)

という感じで、元気を取り戻しました。

5月だから 夏じゃなかった~!!
だから 夏バテじゃなかった~!!


サツキばりに、メイばりに 叫んでみたところ・・・

んん?!あれ?

5月・・・・皐月・・・サツキ!!
5月・・・・May・・・メイ!!

そうかあ。
あのお父さん、こういうふうに名前付けたんだなあ。
もう一人、子供がいたら、なんて付けたんだろう。

5月だから・・・・・夏じゃなかった~
・・あ・・  待てよ・・・・・・
5月は春だけど、春じゃなかった~!!

暦のうえでは、夏でした。

ということに気づいた私でした。

私の野球人生 ⑦ ~高校編 Ⅴ~

2005-05-19 15:56:13 | 野球
では、さっそく。。。

夏の大会がスタート。
ケガはしているものの、さほど気にならず、というか気にしている場合ではなかった。
とにかく2回戦。
と、その前に1回戦がある。
相手は、格下のチーム。だが、やはり初戦の固さもあり、皆、いつものプレーができない。
勝ったは、勝ったのだが、内容は最悪だった。
私はというと、いつも通りだった。打撃面も守備面も特に問題なし。

そして、2回戦。春の優勝校 東海大浦安。
この日のためにと言っても過言じゃない。そのくらいこの試合にかけていた。
相手は 意表を突いたのか知らないが、なぜか1年生投手を起用。
ま、実際に、その投手が出てくるという予想は誰一人としてしていなかったが、結果からいうと、これが逆に私達を発奮させ、初回から打線も繋がり、そして 春から本格的につくった投手である元ショートの主将が完投勝利。最終回は、1,2アウトと、私がさばき、最後はサードフライで、優勝候補 Aシードを倒したのだ。このときは、最高でした。最高にうれしかった。

これで波に乗ったお山は、順調に勝ち進む。
Aシードとの対戦ということでTV放送だったため、その後もずっとTV放送。
そのせいか、学校では、今まで話したことのない先輩や同級生からも 声をかけられたり、応援してくれたり、校内ではちょっとした有名人?だったかも。
この間、私も好調で、期待されていない打撃でもタイムリーを打つなど 勝利に貢献した。
(千葉の新聞で写真が載ったり、千葉県大会を総括した雑誌にも 載った。)


そして、舞台は、「千葉マリンスタジアム」
ベスト8をかけた戦い。相手は 「八千代松蔭」
人工芝用のスパイクで守り、打つときは普通のものに履き替える。ちょっとしたプロ気分だった。
ここでも、主将が先発。序盤 先制するも、中盤以降、逆転を許す。
打線は、現 MLB インディアンズの多田野投手(当時2年)に抑えこまれ、敗退。
(今後、この大会含め、3大会連続で 多田野投手の前で敗退することになる)
ここで 私の2年次の夏は終わった。

私は、この大会を楽しんでいたと思う。
スタンドには、大勢の観客。アルプス席からは応援の歌、声(ちなみに 私は猪木のテーマでした)。なんともいえないこの雰囲気。楽しかったです。
そして、こういう雰囲気での試合、燃えました。
もっと、もっと闘っていたかった。この雰囲気の中で 野球がしたかった。
でも、ここで終わった。ベスト8を前に涙を呑んだ。

私は、試合後、目を真っ赤にして泣いた・・・・先輩の顔を見ると、涙が溢れてきた。
試合に負けた悔しさと、もう共にこの先輩達と野球ができない寂しさもあった。
何も気にせず、泣いた・・・・。
そして、マリンスタジアムを去るとき、「またここへ・・・」と誓った。

試合後、地元、お山のグランドに戻り、先輩から我々1,2年生への引継ぎが行われた。
その前に、主将、副主将を1,2年生で決めた。
そこで、中心になっていたのは、私。
「じゃ、まず キャプテンから・・・」と言ったのは、私。
その次の瞬間、「やっぱこういうのは 自分からだろ」という声。
自分もわかっていたし、そのつもりでもいた。そこで、
「キャプテンは、俺」(正確には覚えてないが、たぶんこんな感じ)と、手を挙げた。

この瞬間、お山・齋藤世代が誕生、スタート。
入学時、名前も、顔も知られていない サブグランド出身の主将の誕生だった。

2年 夏の大会 成績 <5試合フル出場>
 1回戦 4打数2安打 1盗塁    対船橋豊富  8-1
 2回戦 3- 0   1犠打    対東海大浦安 6-3 
 3回戦 3- 2   1四球?   対柏日体   9-5  
 4回戦 2ー 1   1打点    対市川南  11-1(5回コールド)
 5回戦 1- 0   2四球    対八千代松蔭 1-4 敗退

 TOTAL 13-5<.385>  1打点 1盗塁 1犠打 3四球 
 <守備率 1.000>
 

もうすぐ・・

2005-05-18 16:00:31 | その他
え~、そうですね、今日は何を書いたらいいのでしょうか。。。。。

じゃ、突然ですが予定を変更して、JAPAN ドリームチームを作ってみたいと思います。


1.RF イチロー         P ; 上原浩二、松坂大輔、斎藤雅樹、野茂英雄、
2.SS 松井稼頭央          角盈男、金田正一、稲尾和久、江夏豊、  
3.1B 王 貞治         
4.3B 長嶋茂雄
5.LF 松井秀喜
6.DH 原 辰徳         ベンチ;清原和博、古田敦也、新庄剛、宮本慎也、
7.2B 篠塚利夫(現 和典)       八木裕、斎藤健史、 
8.C  城島健司
9.CF 松本匡史
 
どうでしょうか?見事にジグザグ打線ですね。
おっと・・・・1,2,8を除いて、巨人になってしまった・・・・・

ここで、スタメンについて
原選手はご存知ですよね、若大将です。
O.Nも OKですね。
篠塚選手は、銚子出身の巨人の名セカンド。引退後 巨人でコーチ。首位打者もとってます。あのショートの頭の上を越すヒット、この流し打ち、芸術でした。
松本選手がよくわからない人が多いのでは?巨人のセンターで一番。かなりの俊足でした。「青い稲妻」と称され、セリーグのシーズン最多盗塁76は未だに破られていない。(ちなみに日本最多盗塁は 世界の盗塁王福本豊選手の106です。)まさかこの盗塁記録を巨人が持っているとは、、と思った人もいるのでは?今の巨人からは想像もできないですからね。

クリーンアップは、ONですよね、やはり。
と言っても、私自身、ONの現役時代をリアルタイムで見たわけではないのですが・・。

あ、話は変わりますが、
先日、長嶋さんのHPでのコメント、拝見いたしました。
そこには、直筆の 5/15 2005 そして 名前の下に 「3」 。
もうすぐ長嶋さん、チョーさんの元気な姿が見れるかもしれません。
無理はしてほしくないのが、本音。でも、見たいですね、チョーさんスマイルが。

今日は、結局、まとまりのない書き込みになってしまいましたが、
ただ言えることは、もうすぐ帰国だということです。
いつかは、まだ謎にしておきます。
実は、もう日本?ってことは ないと思います。

では、また~。

    

私の野球人生 ⑥ ~高校編 Ⅳ~

2005-05-17 15:42:01 | 野球
皆さん、こんにちわ。いつも元気な?KJでございます。
高校編、予定では 4部構成でしたが、おそらく7部構成になりそうです。

では、前回の続きから・・・・・
実は、このケガをしたのは、大会3週間前だったようです。
私は、待合室でいろいろなことを考えていました・・・・。
そして、診察・・・・・・。
「ん~・・・・ひどいね・・・・でも、骨には異常はないし、縫わなくても・・・大丈夫でしょう・・・・・」とのこと。
不幸中の幸いか、最悪の事態にはいたらなかった。
監督からは、「治せ!!治らなきゃ1年を使う」と言われた。
実際、治すしかないのだが・・。

我がチームは、千葉県よりも茨城県の強豪(常総学院など)とよく練習試合をしていたのだが、
結局、このケガのせいで、楽しみにしていた、当時水戸商の井川投手(現阪神エース)と対戦することはできなかった。今 思うと非常に残念である。

このケガ以降、左手1本でのティー打撃、軽いランニング、筋トレのみ。
落ち着かない、腹立たしい日々が続いた。
なんとかして1日でも、1秒でも早く治そうと、
常に、人差し指は直立。さらにこの人差し指をマッサージもした。
願いをこめて・・・・・。

思いは通じるものである。
縫わなかったことも、良い方向に行き、順調に回復。なんとか投げられるようになった。
もちろん、人差し指には、テーピング。痛みをなるべく感じないように、患部に影響がないように巻いた。しかし、この時点で70%くらいだっただろうか。
投げれるは、投げれるが・・・・本来の私の送球には遠く及ばない・・・。
指先の感覚はないに等しいし、指は引っかからないし・・・・。

打撃はというと、人差し指は、直立で、握れない。右手がこうだと、左手の人差し指も直立。しかし、打撃面は 特に問題はなかったと思う。
問題は、得意のバント・・・・影響は・・?
そんなになかったかな・・・・正直、あまり覚えてない。
やはり、守備、送球に対する不安、影響が大きかったからだろう。

なんにせよ、なんとか試合に出れるまでにはなった。
ギリギリ、間に合ったのだ。
そして、とうとう、メンバーの発表。
・・・・・・・・・
背番号「6」 齋藤
・・・・・・・・・
1年の秋、自分の部屋に貼った「背番号6」という目標が、達成された。
声には出さなかったが、心の中で、
「ヤッター!!」と大きなガッツポーズ。

大会直前には、状態も80%くらいになり、このケガにも、テーピングをした状態での送球にも慣れてきた。(今 思えば、この状態に慣れないほうが良かったかも・・・)

大会開会式
緊張と期待が入り混じった中、私は、汚い話で申し訳ないが、アレを踏んでしまった。
自分では、「運がついた」と気にしなかった。

実際、そうだったと思う。
ケガからの回復も、またこの状態でのケガの影響を感じさせないプレー。送球ミスもなく ノーエラー。運が良かったのだと思う。

そして、試合はというと、
この私の運に 反して くじ運は・・・・・。
実は、2回戦、春の優勝校 「東海大浦安」との対戦が待ち構えていた。

良いのか、悪いのか・・・
まあ、良い点といえば、おかげで 2回戦から TV放送ってことか。

対戦が決まってから、この2回戦にすべてを集中。ここしか見ていなかった。
ビデオを見て、相手の特徴をつかむ。投手の特徴、打者の特徴・・・。
相手を研究し、勝つための対策を立てる。
このバッターの時は、こういう守備位置・・・この打者には こういう配球で・・・・。
守備はここが弱い・・・・・この打者は要注意・・・・などなど。
この時、私は、勝てる!!と思った。
そう思う以上に、楽しかった。
今でも、この時のこと、大会直前のことはよく覚えている。
楽しかった。

そして、開会式でも 隣同士。
すでに戦いは 始まっていた。反対側の1回戦の相手など見てもいない。。。。。


さて、結末はいかに・・。
1回戦で、思わぬ事態にならなければいいのだが・・・。

続きは、後ほど・・。




私の野球人生 ⑤ ~高校編 Ⅲ~

2005-05-15 16:31:49 | 野球
さてさて、日本では、交流戦 真っ只中ですね。

さてさて、高校編 Ⅲ です。
前回は、たしか1軍定着、で終わりでしたよね。

あの1年の秋以来、1軍に定着するわけですが、
その後、高校野球 初の冬を越え(これはしんどかった・・・・特に正月合宿・・)私の守備は安定感が更に増した。下半身は安定し、守備範囲も広がり、肩の強さ、送球の精度も上がった。

秋から、そして2年の春にかけて、起用方法は、単なるショートの2番手というものではなく、出場する可能性がとても高い2番手だった。というのも、前回、記したように、ショートの主将の抑えプランが実行されるようになったため、練習試合第1試合(レギュラー組み)でも、7,8回からの出場が多かった。また、練習試合2試合目には、確実にスタメン出場していた。

このころから、チームからも、監督からも評価、信頼を得ていたように思う。
それもあり、体操時に 主将とともに、輪の中心にいた。
ここにいるのは、見ての通り、中心選手である。私は、いつの間にか2年の代表・中心になっていた。

そして、春の大会。前回の秋に続き、ベンチ入りを果たし、背番号は「16」だった。
地区予選では、主将のケガというアクシデントもあり、予選は、1、2試合出場。
予選を難なく突破し、私もそれなりに仕事はしたと思う。本大会では、主将が復帰し、出場機会はなかった。試合展開も、私が出るような場面もなく、負けてしまった。
春は、夏のシード権がかかっているのだが、結局、シード権を獲得できずに終わった。

その後、またしてもアクシデントが起きる。
エースの肘の故障。これはチームにとってかなり痛い出来事。
だが、私にとっては、かなり大きなチャンスであったように思う。
この故障により、ショートの主将の本格的な投手起用の方向性が強まった。
それにより、私の出場機会は増えた。ただの守備固めとは違ってきた。
準レギュラーとして、練習試合第1試合にスタメン出場することも少なくなかった。
その度に、やることはやり、信頼度は増していったように思う。自分自身は、ただひたすら頑張ることしか、頭になかった。いつものように、毎日 しっかり練習をし、試合でベストを尽くす。

しかし、実際、エースの他にも投手はいる。その控え投手も 夏に向けてレベルアップをし、安定感が増し、十分エースとしてマウンドに立てるまでに仕上がっていた。
また、本来のエースも復活に向けて始動。
そうなると、主将は、本来のショートに集中するのでは、との見方もあった。
だが、ある日、主将が外野練習を始めた。もうショートで練習することはなくなった。
ノック時には、私がショートの先頭。ショートは 私である。
地元の新聞でも、強固なセンターラインとして、ショートに私の名があった。
実際、1軍に定着以来、エラーの記憶はない。それほど安定感はあった。
(結局、本来のエースは、夏に間に合わなかった。夏は、この控えだったエースと主将の2枚で闘うことになった。)

夏の大会まであと1ヶ月というところで、またアクシデントが起こる。
夏前の最終合宿。練習試合。
もちろん、レギュラーとしてスタメン出場。守備は問題なし。
攻撃面はというと、私の武器の一つは、確実なバントだった。
守備と同様、バントには自信があったし、監督も信頼していた。
そのため送りバントはもちろん、スクイズも多く、ある意味、0or1アウト3塁で私の打席では、90%スクイズだった。
この試合でも、そのスクイズの場面が訪れた。
しかし、ここで大きなミスをする。
低めの真っ直ぐ、やや難しいボールをバントした。しっかり転がっている。役目は果たした。が・・・・・・・・・・・・・しかし・・・
バントした瞬間、右手人差し指に熱い感覚が・・・・。
1塁まで、走る。その熱さ・・・・どんどん増していく。
1塁を駆け抜けた時、ユニフォームが血まみれになっていた・・・・。
人差し指が・・・・破裂していた。
・・・・指でバントしてしまったのだ・・・・・・・・・。

そのまま、病院へ直行。
指の痛みはほとんどない、というか感覚そのものがなかった。完全に麻痺していた。
それ以上に、心に突き刺さるショック、痛みのほうが強かった。
やっと、摑んだレギュラーで、夏の大会出場・・・・。
病院の待合室で、一瞬、応援席で応援している自分の姿が思い浮かんだ・・・・。
次の瞬間、その映像を振りはらい、人差し指に目をやる・・・・・。
「なんで・・・やっと、摑んだチャンスなのに・・クソ!!」と、心の中で叫んだ。
と同時に、目から零れそうになった涙をぐっとこらえ、目を閉じた。

この時、私は知る由もない・・・
このケガが、今後の私の野球人生に大きな影響を与えるということを。

ただ、ただ、祈るしかなかった・・・・。

夏の大会まで あと1ヶ月・・・・。

Long Beach 49ers ~リーグ戦 終盤へ~

2005-05-14 17:02:38 | Coaching
我が Long Beach大学 チーム名 49ers 
こっちでは、このように大学にチーム名がついているんです。
ユニフォーム(ホーム)は、ヤンキースと同じピンストライプ。
今、リーグ戦終盤に突入。熱い戦いが続いています。

ここで、簡単にリーグについて説明。
私達は DivisionⅠに属し、これは大学で一番上のレベルです。(DivisionⅡ、Ⅲとその下にあります)これは、もちろんレベルもそうですが、年間の試合数でも規定があり、そのため2月から試合が始まります。これはリーグ以外のチームとも行うため、時には違う州にまで遠征に行くこともあります。これが大体1月末から3月までで、4月からはリーグ戦が中心になります。そして、リーグ戦とそれ以外のトータルの勝率でランク付けされるという仕組みです。
最近は、リーグ戦のみで週末(金土日)のみですが、4月くらいまでは、火曜日にも試合があり、学校と試合とでかなりハードだと思います。
ちなみに、今 49ersは、先週の取りこぼしのせいで、10位から12位に落ちてしまったのです。
リーグ戦は、毎週 金土日の3連戦。総当り形式(8チーム)で行われます。
そして、リーグ上位2チームが、プレイオフに進みます。(たぶん、3位は、他のリーグ3位と勝率で争い、良いチームが進出すると思う)

リーグ戦も残すところ今週と来週のみとなった。
先週、格下に1勝2敗と負け越してしまったため、今後の上位チームとの対戦(今週、来週)が非常に重要になってきました。安定感抜群の2人の投手(私がキャッチボールした)が崩れたので、心配です。
今週の練習は、そういう意味で注目してました。この状況で選手はどうなのか?
選手達は、一段と集中力が高く、やはり先週の試合、そして今後に対する思いが伝わってきました。

そして、今日が大事な3連戦初戦。相手はランク19位。リーグでは、試合数の関係もあるが、2位。(LBは3位)
先発は左のあのエースです。
結果は・・・・・・・9回2/3 1失点無四球。
最終回に1点を失い、交代した。調子は、完璧とは言い切れませんでしたが、持ち前のコントロールで、単発6安打に抑えた。
打つほうは、初回に2アウトランナー無しからヒットと四球、そしてタイムリーと送球がそれる間にさらにもう一人ホームに還り、2点を先制。
このタイムリーを打った5番は、今週の練習でも良い感じで打っていた。
左投手のスライダー、カーブをセンターからライトに練習でも打っていたため、その練習での打撃を見ていたマシン係の私は、とても期待していた。そして、期待通りの結果となった。
そして、更に2回、ノーアウトで四球のランナーを置いて、バスターをしかけ、ライト前ヒット。
0アウト1,2塁で、またバスター!!そして、2塁ランナーが生還し、3点目。
このバスターも、今週、多くの選手がよく練習していた。その練習がそのまま試合に出た。
それにしても、思い切った作戦だった。でも、これがピタリと はまった。

中盤は、緊迫した投手戦となった。
実際、我がチーム、そして相手チームのピッチャーは注目の左投手であり、スカウトも多く来ていた。
また野手にも注目が集まっていたため、スピードガンだけでなく、ストップウォッチを持ったスカウト達が目を光らせていた(ストップウォッチは、打ってから1塁までのタイムなどを計るため)
それに混じって、私もそこで、球種や配球等をメモ。少し、スカウト気分だった。

さて、試合は投手戦。
そこで、私が「ここは、ポイントだ!」と思ったところがあった。
結局、そこから49ersが、追加点を取って、試合を決めた。
3番のヒット、4番のヒット(これで27試合連続安打!スゴイ!)で 0アウト1,3塁。
ここで初回、タイムリーの5番。監督が 相手がタイムをとってる間に、バッターを呼ぶ。
そして、初球。セーフティースクイズ!!
これは、普通のスクイズではなく、3塁ランナーは、バントの転がる方向を見て、判断し、行けると思ったら、ホームに行くという高度な攻めだが、とても有効なもの。(高校のとき 私のチームもやっていました)
バッターはストライクのみをやり、ライン線を狙う。ボールは見送る。送りバントと一緒だ。
ランナーは、判断ミスは許されない。
この時、バッターは、初球をバントし、ライン線とはいえないところへ転がった。
だが、ランナーの判断は良かった。転がったところは、左投手の左サイド。投手は逆シングルで捕球した。結果、3塁ランナーは、ホームイン。セーフティースクイズ成功である。

相手は左投手。その左サイドへのバントは、一歩目がやや遅れ、捕球までに時間もかかる(大抵の投手は左投手なら右方向に、右投手は左に身体が流れやすいため、特に外人)。

このダメ押しを呼び込んだのは、ピッチャーだった。
この攻撃の前の守り(相手の攻撃)を、簡単に抑えた。
この回は、実は、相手に流れがいきそうな雰囲気があった。というのも、この守りの前の攻撃で、完璧に相手投手に抑え込まれたのだ。
ここで 相手の攻撃をピシャリと抑えたことで、相手に流れがいかず、またこっちに流れを呼び込んだ。

また今日は、守りでも、エースを盛り上げていた。随所に良いプレーがみられた。

結果は、4-1で勝ち。初戦をとった。これで波に乗れる。

こうやって、試合を観ていても、
練習中の選手の様子も知っているし、どんなプレーをするのかもわかっているため、
ただ試合を観ているのとは少し違う。
場所はスタンドだが、チームの一員となって、観ている、応援している。
だから、勝つと本当にうれしい!!

これで私が足を運んだ試合は 負け無し!!
明日ももちろん、明後日も行く予定。
ここで3連勝すれば、プレイオフ進出の可能性はかなり高い。
頑張れ!! 49ers!!

私の野球人生 ④ ~高校編Ⅱ~

2005-05-13 16:32:22 | 野球
それでは、高校編 Ⅱ でございます。

前回は、高校1年秋、新チームスタートまででしたよね。
その話に入る前に、私の高校、「お山」は、良いのか悪いのかはさておき、
上下関係がそれほど厳しいものではありませんでした。非常にやりやすい環境でした。
それは私が1年の時も、また3年になっても変わりなく、先輩後輩が仲良かったですね。

と、では話を戻します。
私は、一番下からのスタートだったわけです。
しかし、そこからどうにかして、監督に目をつけてもらおう、試合で少しでも使ってもらおうと、アピールが始まります。
まず、「元気」です。元気のある選手は、代打等でチャンスを与えられていました。
ですから、まず練習中、声を出し、アピール。とにかく、声を出し、移動もテキパキと心がけました。・・・・・しかし、そうすぐ良い方向にはいきません。
結局、夏の東京遠征では、2軍チームでの参加となりました。ここでの結果は、さほど良いものではなかったように思います。が、私の記憶が確かならば、たしかこの遠征後、地元に戻っての練習試合で、第2試合目に出場するようになりました。おそらく 遠征での姿勢やある程度の結果とそれ以前からの練習態度等がチャンスを与えてくれたのでしょう。
実は、監督の前で試合に出るのは初。しかし・・・私はミスを連発・・。
私は、自慢の守備でミスを・・・・。おそらく野球人生で初めてだったでしょう。エラーをして、交代させられたのは・・・。
そのとき、監督に「お前はもう絶対使わない!!」って言われたのをよく覚えている。
しかし、凹むのは一瞬でいい。実際、兄に「使わない選手に 本当に使わないとは言わない」とも言われ、「もうやるしかない!!」と逆にパワーに変えた。

結局、秋の県大会地区予選(秋、春はそれぞれの地区で勝ったものが県大会に出場する)は、ベンチに入れなった・・・・同じ1年で4,5人はベンチ入りしていた(3人はレギュラー)。応援席でジャージで観戦。チームは難なく予選突破を決め、地区予選決勝へ。
しかし、この決勝で負けてしまうのですが、実はこの試合が私にとって大きなポイントとなったのだ。

この決勝の相手は、すぐ近くの「横芝敬愛」という私立高校でした。
力的には、お山が上。勝って地区優勝で県大会にいくと思っていた。が、負けた。
敗因は、左ピッチャー。左投手を打てなかったのだ。
スタンドで見ていた私は、「なんで、皆ああやって打つんだ・・左投手は、こう打たないと・・」
と苛立っていた。「皆、知らないのか、レギュラーでもそうできないのか?」とも思った。
さらに、「これではダメだ。俺がいくしかない、俺がやらなきゃいけない!!」と強く思った。
そこには、使命感に近いものがあった。

そして、ここから私の戦いが始まった。
予選後、毎日、家で素振りをし、守備ではなく、打撃でのアピール。(実際、打てないと使ってもらえない状況にもあった) 自分の部屋にも、目標を書いた紙を壁に貼り付けた。(たしか、「背番号6」だったかな・・)
また、さらにチャンスが。
監督から「このままではダメだ。ベンチメンバー、レギュラーも白紙」そして、「紅白戦」というアピールの絶好の場が訪れたのだ。
私は、一方のチームで先発出場。相手の先発は 同級生の左投手。そう、左である。
ここで、私は左投手の打ち方を披露する。センターからライト方向。
この試合、ノーエラーで、たしか、少なくとも2本はヒットを打ったと思う。
印象に残っているのは、真ん中よりインコースよりの低めのカーブをライト方向にヒットを打ったこと。
この紅白戦の結果より、私はベンチ入りの候補になった。もう一人、セカンドの同級生と争ったのだが、最後に私が選ばれた。ここでは、打よりも守備を買われたと思う。
そう、やりました。とうとう背番号を手にしたのです。
「背番号20」
これが 私が初めて高校野球でつけた背番号です。

そして、県大会。
私は、シートノック終了後 鼻血を出してしまいました。興奮していたのでしょうか。
そして、試合開始。私はベンチで戦況を見守ります。
相手は 全国区「拓大紅陵」でした。しかも 左投手。
実は、この大会前から、ショートの主将の投手プランが実行されていました。中継ぎ、むしろ抑え的な役割としてです。つまり、そうなると、私が出場する、ということ。そういう意味もあり守備を買ってのベンチ入りだったのでしょう。
実は、この試合で、抑えではなく、ただの2番手としてショートがマウンドへ。
そうです。この試合で、初のベンチ入りながら、高校野球公式戦デビュー。
守備機会はさほどなく、難なくこなした。しかし、打撃では・・・・・・・。
おそらく監督も、私の打撃には期待していなかったでしょう。
が、私は、途中出場ながら2打数2安打という結果を残す。前評判の良い左投手からセンターに2本のクリーンヒットを打ったのだ。
ここで、予選決勝 スタンドで苛立っていた思いをプレーで吹き飛ばし、証明してみせた。やっている時は、無我夢中だったけど、でも、この時、打撃好調で、ボールが良く見えていたんだ。 
しかし、試合は結局 完敗だった。
試合終了後、ベンチ裏で、監督から皆の前で、
「これから上を狙うには、齋藤のような選手がどれだけ出てくるかだ・・」と。

この地区予選からベンチ入りまでの練習、そして県大会でのデビューと、この期間は、私にとって、私の野球人生において、とても大きな期間であった。そして、とても充実していて野球が楽しかった。おそらく「私の高校野球ベスト5」に入ると思う。


この夏、新チームスタート時は、ショートの一番下の④番手でガチガチのサブグランドで練習していた私だったが、この時、1軍の中でも評価された。

ここから、私は1軍に定着するようになる。