本当のヨーガを体得しましたので皆さんにご紹介したいと思い、これからいろいろと活動していきます。

 私の体験したヨーガの創始者はゴータマブッダ、即ちお釈迦さんで、日本には大正時代に中村天風によってもたらされました。

般若の知恵についての概論

2013-07-31 15:58:38 | 日記
 般若(知恵)とは、正しくは、四禅の第三禅に於いて自身の実態、真実の自我を見通す能力を言う。しかし、これを体得するのは空(=涅槃)に至るより難しい。

 現在仏教で言う処の般若とは、これとは全く異なり、文字通りの智慧をいう。だから、般若の智慧という言葉を持ち出したら、それは偽物である。

 釈迦在世時の人々と現在の日本人とでは理解力が違うし、迷信度も違う。釈迦の仏教や道元禅、中村天風の安定打坐法にしても本人が亡くなると急速に衰えてしまう。それはなぜか?迷信を否定するからである。

 人は、迷信を嫌う。しかし迷信を排除した思想、哲学、宗教、その他の社会活動は創始者が居なくなると消滅する。人は迷信や、見た事も声を聞いた事も無い神仏に縋ろうとする生き物なのである。

 さて、釈迦が死んだ後、弟子達は急速にバラモン教化して行った。だから、上座部だのバラモンだのと、階級を作ったのだ。
 後の大乗仏教においても聖者だの上座だのと階級を作った。元の木阿弥である。しかし、只バラモン教に返ったら、バラモンたちの下に位置しなければならないから、そこは工夫して避けた。

 どうしたか?まず、仏陀は釈迦一人である、とした。これにより、自分達の無能力を肯定したのである。

 次に智慧を得て解脱したものを阿羅漢と言う事にした。阿羅漢とは最高の智慧を得たものである。

 その頃仏教教団内に於いて、既に上座部と大衆部との軋轢があったようであるが、第二結集に於いて意見が合わず、ついに教団は2つに割れた。
 その時の、意見の違いに於いて顕著なのが「智慧を得て解脱した阿羅漢と言えども、森や川の名称など知らない事が有るではないか?」というう点だった。この時点において彼らの言う智慧は釈迦の般若(=パンニャー)とは、完全に違っているのが分かる。

 これまでの仏教者、仏教学者は釈迦の4禅を研究せず、それまでに築きあげられてきた寄木細工のような理論を誰よりもうまく解説しようと努力してきたので何一つ成果が上げられなかったのだ。

 さて、当時の仏教にはもう一つ重要な問題が有った。それは自我(=アートマン)は実在するものなのか?という問題である。バラモン教はこの宇宙の創造者をブラフマンと考え、人間の実態、魂をアートマン(=プルシャ)と考えた。そしてこの二つは本来同一のものであると考えたのである。
 カーストとはブラフマンにアートマンを供えた時、ブラフマンの身体の一部から次々に生まれ出た階層の(人々の)事である。

 当時の人々は、この世の苦しみについてこう考えた。
「この世は輪廻転生を繰り返しており、それゆえ人々は苦しむのである。そこから抜け出すにはアートマンを掴んで(=体得して)自身がブラフマンと一体化する事が必要なのだ」

 だから人々は何とかアートマンを体得しようと出家し苦行に打ち込んだのだ。彼らは自身の体内や身体の一部、外界の山河や貴金属その他にアートマンを見いだそうとしたのである。

 他方、出家しない人達は沙門に布施(=食物を提供する事)して助けた。そうして自身の解脱を目論んだのであろう。

 それに対して釈迦は「君達がアートマンだと考えているものは真実のアートマンでは無い。貴方達が考えているものにアートマンは居ない」と無我を説いた。
 
 釈迦は「アートマンは存在しない」と言ったのではない。彼は「貴方が外界だと感じているもの全ては、貴方の六根によって心の中に作り上げられた六境、即ち五蘊でしかないのだ。それらは、涅槃に於いて空に成るのもなのだ。そんなものに執着するのは愚かな事だ。」と、説いたのである。

 ところが、4禅が出来ず憶念も、精進も、般若も会得できなかった不出来の弟子達は「元々、アートマンなどというものは存在しないのだ」と決めつけた。そうすれば4禅をできない自分達を正当化できるし、ブラフマンやアートマンを重要視するバラモン達を貶める事が出来るからである。

 その後、アートマン(漢訳は自我)にもう一つの意味を持たせた。それは万物に不変の本質(=アートマン)があるのか?という事である。
 彼らは、全てのものは千変万化しており、いつまでも同じように存在しているという事は無いではないか?と考えた。
 
 これにより、一切の事物には不変の、固定的本質(アートマン、自我)は無いと決定したのである。これは仏教が根本分裂する前の事である。だから南方、北方両仏教共に「全ての存在は無我である」という考えを持っているのだ。

 しかしこれは容易には受け入れられないテーマである。北方大乗仏教はこの点を掘り下げて行った。すると益々泥沼に入り込むように、奇々怪々な理論理屈が誕生してきた。それらの、一部の考え(=頌)を取り上げまとめたのがナーガルジュナ=ルナリュージュ=龍樹である。

 彼はこう言った。
 この世のすべての現象は何時も変化している。それは縁起を繰り返しているからである。全ての存在は一時として一定の状態には無い。つまり固定した本質は無いのだ。無我とはこの事をいうのだ。空とは無我の事である。万物は空なのである。これを智慧によって悟れば解脱できるのだ。

 この屁理屈に従来の仏教者、仏教学者が引きずり回されてきたのである。

 さて、釈迦の四禅が出来なかった弟子達は、智慧という概念を持ち出したがゆえに、次々と難問がやって来た。そこでもっと完成された智慧、最高の智慧を得れば良いのだ、と考え「完成された智慧」、即ち「般若波羅蜜多」と言う概念までも持ち出した。般若経には、アーノクターラ―サンミャクサンボディーなどと言う名称まで登場している。

 経緯からしても、仏教の言う般若、般若波羅蜜多という概念こそ、釈迦の仏教を捻じ曲げてきた事の証明である。ただ、般若経の最初期のものと言われる八千頌般若経には般若波羅蜜多という名の元に釈迦の四禅が残されている。

 現在の仏教研究によって四禅の概略も分かっている。これに中村元博士が研究されたヨーガと仏教の原始経典口語訳(岩波文庫)、さらに哲人天風のヨーガ体験を一括して研究されれば厚い雨雲が急速に流れ晴れ間がやって来るように釈迦の仏教が見えてくるはずである。

 仏教研究者の方は、私の言う考えによってこれまでの経典訳を見直されたら、かなりの成果が出せるものだろうと考える次第である。




  










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