地下鉄「青山一丁目」で下車する。この駅で下車するのは初めてか・・・、あまりこの付近は来ることがない。神宮球場に来た思い出しかない。
青山通りを渋谷方面に歩いて行くと右手に低い立派な石垣(江戸城のものを運んだようです)が見えて来る、その先は4列の銀杏並木道、Mさんの話では、この銀杏の木は絵画館前に向かって低くなっているとのこと。この一帯は、明治神宮を中心とする国家プロジェクトで昭和初期まで整備されてきた。TVに度々出てくる並木道、TVドラマでは恋人同士が歩くシーンが多いが、この時期、外国人観光客でゾロゾロである。
青山通りに戻り外苑前駅を過ぎ右に曲がり高徳寺に行く。
途中、伊藤忠商事東京本社ビルがあり、社名の石碑に珍しいことに「ひとりの商人、無数の使命」とコーポレートメッセージが刻まれていた、今の時代、利益追求だけでなく企業の社会的責任、企業理念が必要で、公務員と似たところがある。
高徳寺は道路から煉瓦塀の参道が続き古さを感じさせる、中に入ると墓石が一カ所にまとめられている、いづれも刻印が薄れた墓石で都内ではこうした無縁墓石が多い。入った右手に「河内山宗俊」の碑があった、この寺は、河内山宗俊の墓所のようだ。 歌舞伎、講談、映画などで悪徳坊主のイメージがるが、何故か人気のある人物である。高徳寺を出て青山熊野神社へ。
青山熊野神社は、1644年に紀州徳川家邸内より現地に移遷され青山総鎮守となった。当時から盛大な祭礼でもしられ「江戸名所図絵」にも描かれている。熊野神社の前の坂道は、「勢揃坂」と言い「後三年の役」(1083)に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうときに、ここで軍勢を揃えて出陣していったという古い坂で、この坂道の途中、右手に國學院高校、左手に龍巌寺がある。元は名主屋敷から寺となったお寺であるが、廣重や北斎も描いた「円座の松」、芭蕉の句碑、義家が腰掛けたという「腰掛石」、安芸広島藩浅野家の大きい円形墓石4基などがある。お寺とは思えない境内で静寂な空間が伝わってくる。なお、山門から先は境内に入ることができません。勢揃坂を下ると「青山キラー通り」(愛称)に出る、変な名の通りであるが命名したのは作家堺屋太一氏で青山墓地から仙寿院までの通りで墓地があるので命名したと思われる。
その仙寿院は、変わっているお寺で、トンネルの上に墓石がありました。「青山キラー通り」から「外苑西通り」と続き国立競技場を通る都道でオリンピックのために着工された道路である。
仙寿院は、徳川家康側室である「お万の方」のゆかりのお寺で有名。
同じ千駄ヶ谷の榎稲荷(お万榎)に立ち寄りました。お万の方が信仰したと伝えられているが、こちらは瑞円寺の裏手にあり細い階段を上がって行きます、上がり口に江戸名所とありましたが今は榎もなく当時はどうだったのだろう。
上がった所が瑞円寺の境内となります。境内は綺麗に整備され梅林があり、皆、梅の時期に来たいネ。本堂脇に庚申塔2基ありましたが珍しい庚申塔(庚申塔→墓石?)でした。
瑞円寺を出て「観音坂」に、この坂の由来は、これから行く聖輪寺の本尊であった如意輪観音像からで、行基作と伝えられいますが戦災で焼失しています。聖輪寺に入って左手に身守り地蔵(火焔の跡が残る立像)、本堂左脇にキリシタン燈籠がある。本尊である観音には目玉観音伝説(目玉が黄金)として書物に残っている。
観音坂に戻りさらに歩いて行くと鳩森八幡神社に入る。千駄ヶ谷の総鎮守となっている、境内には富士塚がある、富士塚の前には池があり富士五湖を模している、都内に現存するもとのしては最も古く、富士塚の当時の基本様式を示している。また、古くはないが将棋堂があり将棋ブームのなかで人気のある鳩森神社である。
神社の隣にあるのが、将棋会館がある1階が売店、2階が将棋道場となり一般は2階までである、将棋関係者・ファンにとっては聖地でもある。次に予定している国立能楽堂に向かう、能楽堂は外観のみの見学の予定でしたが、資料展示室にて「野崎家能楽コレクション」の展示がおこなわれており鑑賞することに。備前岡山藩主・池田家から拝領した野崎家のコレクション(能楽資料)が東京で初めて展示された。能面の展示の多さは圧巻でした。コレクションの素晴らしさもさることながら、野崎家にも興味が、沿革によれば製塩業と新田開発で財を成した家で、現在は、倉敷市JR児島駅付近にある「野崎家塩業歴史館」「野崎家旧宅」などが見学できるようだ。
この後、新宿御苑を散策する予定でしたが、一服したいと顔に出ていたのか、喫茶店にて休息して帰路に。
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