blue sky diary

子育てと仕事、時々趣味の何気ない日々の日記です。

沖縄旅行でゾッとした話

2017-05-22 12:21:05 | 日記

今年の5月15日で、沖縄が本土復帰となって45年が経ったそうですね。

それを聞いて思い出したことがあります。

 

私が沖縄へ行ったのは、一度しかありません。

20代半ばの時、高校時代からの友人達で沖縄へ旅行に行こうという話が持ち上がり、確か5人ほどで行ったと記憶しています。

20代のころは、この友人たちとよく旅行に行ったものです。

高校の同級生で、仲良くしていたメンバーが、私も含めて11人全員揃うときもあれば、5~6人の時もあります。

この時は、計画を立てたしっかり者のT子をリーダーに、Y子、H子、K子、そして私が行きました。

そして沖縄は、本土復帰20周年の節目の年だったように記憶しています。

時も5月。

でも若かった私は、おごそかな気持ちはどこへやら、待っているであろう暑い日差しと青い空、青い海にわくわくして、楽しく羽を伸ばすことしか考えていませんでした。

その頃の私たちは全員会社員。

私は広告代理店に勤務していて、気の利いたレイアウトが思いつかなければ出来るまで帰れない状況で、時間に追われ、怒鳴られるのもしょっちゅうの毎日でした。

旅行で気分転換するというより、とにかく息がつければ良かったのです。

それでも、若さって単純なのでしょうか。

準備の段階から楽しくなってしまって、日差しが暑いのを考えて、普段は被らない帽子を買ったり、お洋服もちょっと買い足したり、準備を万端整えて無事出発することが出来ました。

とにかく楽しい盛り、T子は「沖縄はパスポートいらないんだからね」と言って笑っているし、空港に降り立ち、沖縄の空気に触れると、その暑くて湿気の多い感じにテンションの高いY子は「沖縄が貼り付いて来たよ!」と独特の表現で笑わせました。

私たちは20代のテンションで会話も弾み、楽しく、まずはホテルへと向かいました。

でも、奇妙なことはそのあたりから起きていたのです。

ホテルに着いてチェックインしようとすると、ホテルの受付の人がすごく奇妙な目で私のことをじろじろ見るんですね。

部屋へ案内してくれるボーイさんも、まず私のことを奇妙な目で見てから部屋へ連れて行ってくれました。

でも、そういうところでは鈍感な私。

ちょっと気になりはしましたが、すぐに友達とのおしゃべりに夢中になり、ここはそういうところなのだろうくらいで、気にしないことにしました。

海で遊ぶことが楽しみで、それどころではなかったのです。

とりあえず荷物を置くと、私たちはタクシーで沖縄観光へと向かい、戦死者が祭られている場所へも立ち寄り花束を手向けました。

でも、その花を売っているおばさんにも、ものすごくじろじろ見られたんです。

何か変だなとは思ったのですが、理由が解らないためそのままにして今度は、日本兵が何人も戦死したという防空壕を見学しました。

ところで、一緒に旅行に来た友人H子は、一人だけ霊感のある子です。

この日も、防空壕の天井には電球が列になって吊るされてそれで明かりをとっていたのですが、私たちが中に入った途端、その電球がバチバチバチ!!っと激しく点滅したんです。

H子は、「ああ、あたし、いっつもこういう風になるんだよね・・・」と、慣れた様子でした。

当時の私はホラー大好き、オカルト大好物の能天気な女子でしたので、恐がるどころかかえって興味深くその様子を観察していました。

特にそれ以上、おかしなことにも遭遇せず、無事にホテルへと帰り着くことが出来ました。

待っていたのは、従業員の奇妙な眼差しでしたが。

夜はお風呂から出て、貸してくれる浴衣をみんなで着ました。

浴衣を着て食事になるのですが、私がどの柄の浴衣にしようか選んでいる間、従業員の男性が、すっごく見ていたのを思い出します。

なんか嫌だな・・・と思いつつも、食事をして、友達と語り合っているうちにそんなことはすっかり忘れて、その日はベッドに入って爆睡しました。

次の日の朝、H子は、ゆうべ窓の外にぼろぼろの服を着た日本兵の霊が何体も立っていて、金縛りにあってしまい眠れなかったとぼやいていました。

私たちの部屋は、上の方の階でしたので、浮いていたのでしょうかね。

H子の霊が見える話には慣れっこの私たちは、特に気にすることも無く、美味しい朝ごはんを食べると、海へと繰り出しました。

待ちに待った白い砂浜で、思う存分遊びました。

仕事のことなどまるっきり忘れて。

結局、私は、嫌な感じの眼差しには遭いましたけど、沖縄を満喫して、記念写真もたくさん撮って、お土産も買って、無事に帰ることが出来ました。

お土産の一部は、スーツケースに入りきらなかったので、ホテルのフロントで宅急便の用紙に記入して、送ってもらうことにしていました。

丈夫な白い袋に入れてあったので、係の男性が「このまま送っていいですか?」と言うので、そうしてもらいました。

でも、そうするべきではなかったのかもしれません。

帰宅して、その荷物も届いたのですが、袋の下の角がぐちゃぐちゃになって破れており、中身が一部抜き取られていました。

とても残念でしたが、仕方ないと諦めました。

記念写真は、焼き増ししてみんなに配ったり、もらったりしてたくさん集まりました。

それを見て、心霊写真を発見!・・・・・・することはありませんでした。

結局、変な感じは残ったものの、楽しい旅行となり、私は日常の忙しさに埋没して、その感じすら忘れて生活していました。

真実が解ったのは、それから10年も経ってからです。

私はその後、適応障害を患ってグラフィックデザインやイラストの仕事を辞め、全く違う接客業に就いて、精神的に苦しいながらも奮闘していました。

だいぶ良くなったので、部屋の大掃除を始めました。

それまでの着なくなった洋服を捨て、大量の本を売り、思い出の品に取り掛かりました。

そこで、沖縄の記念写真が出て来たんです。

そういえば今年は、沖縄の本土復帰30年目だって言ってたな、なんて思いつつ、写真をよく見てびっくりしました!

私の被っていた帽子です。

何の気なしに買った黒の野球帽。

その前の部分のロゴです。

白い文字でくっきりと「AMERICA」って書いてあったんです!!

思わずゾッとしました。

あの時、奇妙な目で見られていたのは、この帽子のロゴだったのですね。

やっと理解しました。

ということは、防空壕で電球が点滅したのも、H子に日本兵の霊が寄って来たのも、私のせいかもしれないんです。

沖縄の人たちに奇妙な目で見られながらも、良く無事に帰って来れたものです。

アメリカってロゴを付けたまま、よく戦死者のお墓に行けたものです。

本当に、良く無事に帰って来れました。

本当の怖さって、幽霊とかではないんですね。

 

あれ以来、沖縄へは行っていません。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする