北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

府中刑務所その2

2014-12-31 03:21:11 | 日記
網野善彦さんは、刑務所は「アジール」で、その中はある意味での「芸能の世界」である

と書いていました。(この「芸能の世界」は難しい、、、。) おそらく中世から近世初頭

までは、「寺院」が刑務所のような役割を兼ねていたらしく(江島さんが高遠藩の「絵島

の囲み屋敷」に、お預かりになったように、身分によっては「寺院」にお預かりになる

ケースもあったようなんです。)、それまでは、小伝馬町の「牢屋敷」のようなものはな

くて、(「裁判」や「検察」もあったんだか、どうなんだか)「寺院」でない場合は、佐渡

や隠岐や八丈島などに「遠島」していたようなのです。(とにかく、現世の娑婆からは、

居なくなってしまえ、と言う事か、、、。)


私は、この「寺院」のケースと、近代の刑務所の「中門」が関係あるのではないかな?と

睨んでいます、、、。



写真は網野善彦さんです。








府中刑務所は、妹尾河童さんの「河童が覗いたニッポン」の最後の方に、例の緻密で詳細

な全体の俯瞰イラストがあって、「中門」と河童さんも手書きで書き込んでいます。




その「中門」と庁舎の部分です。







全体は、たしか文庫本にもなっていたと思いますので、お求めいただくか図書館で探して

ご覧下さい、、、。






まだまだ、つづきます、、、。と言うか、

年越してしまうかも知れません、、、。

良いお年を、、、







追記  現代にも残っている、もう1つの中門に茶庭の露地の中門があるのですが、これ

    はなかなか手強くて、以前から考えたりはしているのですが、、、、。




追記の追記  横須賀刑務所の中門。右手に面会室あります。


       

『YUKIの結晶』http://blog.livedoor.jp/yukiyuki0719/archives/51063306.htmlより



追記その3  桑田圭佑の音楽寅さん『網走刑務所慰問ライブ』 5:10 あたりから『中門』

       らしき鋼製扉(「面会室3の左側」)の中に入るシーンがあります。残念

       ながら『中門』の標識は見えませんが、扉(もちろん錠前2段で内開き)の

       脇の『中門認証システム』の機器にボカシがかかっているのが判ります。


       



       
       面会室はあくまでも娑婆の世界です。


       



追記その4  奈良少年刑務所の紹介動画


       



       1分50秒あたりで出てくる扉なんですけど


       



       変に新しいアルミのドアみたいで、認証システムみたいな機器は付いているのですが

       中門のような?そうでもないような、、、。






       
                        



府中刑務所その1

2014-12-31 02:28:24 | 日記
ネットで見つけたのですが、いずれかの大学のゼミ(たぶん法学部の学生さん。)による、

府中刑務所見学の文章です。


   
   以上のような説明を受けた後、いよいよ刑務所内に入る。バッチを付けた

   見学者を2つの班に分け、2列に並ぶ。女性はそれぞれの列の先頭に並んだ。

   先代の刑務所長の下では、女性の見学は刑務所内の秩序維持の上で認められ

   ていなかったそうであるが、今の府中刑務所長は女性の見学も認めている。
 
   並んだ後、再び人数を確認され、庁舎の2階へ行った。2階には「中門」と

   呼ばれる通路があり見学者も受刑者も例外なくここを通って刑務所内に入る。

   つまり、ここが一般社会と刑務所の境目にあたるのである。扉は鉄扉であり、

   通常は出入者控簿などに名前を記載し、厳重にチェックするようであるが、

   我々が学生だったせいか、背広姿だったせいか、そのようなチェックはなか

   った。この中門の脇には面会室が8部屋ほどあったが、非常に狭そうで古い

   部屋だった。2000人を越える刑務所にしてはやや少ない気もする。
 
   中門では、刑務官の人が敬礼しつつ、バードウォッチングに使うカウンター

   を用いて我々の人数を数えていた。全員が入ったのを確認して、案内をする

   刑務官の人が言う。「ここからが、『刑務所』です」



「中門」が3回出てきます。「中門」は刑務所の中に、生き残っていたのです、、、。


何年か前までの、府中刑務所の写真です。今では、放射状で中央で監視出来るように

なっている「パノプテコン」タイプの「舎房」はありません。(全部、平行になってしま

っています、、、。)写真の時に、すでに半分なくなりかけています。(「パノプテコン」

については、ミッシェル・フーコーの『監獄の誕生』を参照。)




写真の真ん中の下の方の、街路樹の植わっている前面道路に面した、長方形の3階建ての

RCの建物が、府中刑務所の「庁舎」で、実は「庁舎」はまだ「娑婆(シャバ)」なのです。

(塀で他とは区画されています。)この「庁舎」の後ろやや左の二階に、おそらく空中廊下

のように「中門」と呼ばれている、刑務所本体への通路があるはずなんです。(僕は残念

ながらお世話になった事はないので、写真などで推測するしかないんです、、、。)



府中刑務所その2 に続く、、、





追記  最近の府中刑務所の空中写真と思います。庁舎が、ファサード前面ガラス張り

    の超現代建築風に建て替わっています。


    
















火野葦平『糞尿譚』と池袋東武東上線

2014-12-25 16:34:52 | 日記
【閲覧注意】 以下、食事前および食事中などの方は読むのをおやめ下さい。


『糞尿譚』は火野葦平さんの芥川賞受賞作。北九州、若松の話。「糞尿」をめぐる小説で

はあるのですが、大正の終わりか昭和の始めに実際に北九州で起こった「糞尿騒動」を

題材にしたものだとばかり思って、調べてみたら判らない。大正14年の「鶴見騒擾事件」

のような、総勢2000人が二手に分かれて、スペインの「トマト祭り」のように、「糞尿」

を投げ合う「糞尿争奪合戦」かと思っていたら、全然違う、、。最後にチョコッとそんな

シーンがあるだけ、、、。(でも確か、そんな「騒動」があったような、、、。つまり、

当時は、それほど貴重品だったと言う事。)


スペインのトマト祭り






青空文庫『糞尿譚』

http://www.aozora.gr.jp/cards/001488/files/51168_53838.html



池袋東武東上線は気の毒で可哀想なんです。昭和30年代の、新宿の小学校の悪ガキ共は

親の世代から聞いたのか、「東上線は『肥溜め列車』だ。」と、吹聴しておりました。

調べてみたら、同様の事は西武池袋線でも、京都の蹴上から大津に行く京阪電鉄でも行わ

れており、東武だけではないのに今では社史からも抹殺されているようなのです。(でも

一時期とは言え、京都の街中の東山と山科のど真ん中を昼日中から、そんなものが走って

いたなんて、、、。戦争は、恐ろしい、、、。)





写真は当時の西武鉄道の「おわい列車」です。(東武鉄道のではありません。)下部の車台

は西武鉄道のものですが、上部の「木箱」はあくまでも東京市(当時)のもののようです。

(フェルディナ・ド・ソシュールの一般言語学講義の「シニフィアン(signifiant)」と

「シニフィエ」(signifié)みたいだ、、、。上部構造と下部構造で所有者が違う。)

「おわい列車」が運行されたのは、太平洋戦争末期と敗戦後何年かの、トラックなどの

運搬車両の燃料不足だった10年弱のことらしく、西武鉄道の場合は、東京市内の糞尿処理

の惨状(あふれてしまった、、、。)に「義」を感じた堤康次郎さんが「協力」したと言う

のが真相のようです。



京阪電鉄や池袋東武東上線で、行きは野菜を積んで、帰りは屎尿を積んでいたと言うのは

どうも本当のようで(衛生面はどうなっていたんでしょうかね?)、ジェーン・ジェイコブ

ズさんがこれを知っていたら、3Mのテープとかブラジャーの例を持ち出すよりも、もっと

明快に、都市と、その周辺との関係を説明できたのではないでしょうか?(しかし残念なが

ら、欧米はもちろん日本以外の東アジアにも、「糞尿」を肥料とする「文化」「習慣」は

ないらしく、ジェーン・ジェイコブズさんには、気が付きようもなかったのでしょうけれ

ど、、、、。)


敗戦前後の一時期とは言え、行きは「野菜」帰りは「糞尿」を運んでいた路線が、今では

行きは「睡眠不足のサラリーマンとOL」帰りは「草臥れ果てたサラリーマンとOL」を運ん

でいます、、、。当時、野菜畑だった埼玉県のあちこちが、今では東京のベッドタウン

です。(つまり、ベッドタウンー郊外ーと言うのは、本質的には野菜畑と同じかも知れな

いのです、、、。そう言えば、郊外の団地や分譲地やマンションは、見た目も、なんとな

く野菜畑みたいに見えなくもありません。)

「都市」と言うのは、ビルがたくさん建っているから「都市」ではないのです。「都市」

は「関係性」の中にしかありません。ジェーン・ジェイコブズさんが「都市の原理」の中

で言いたかったのは、そう言う事なんだろうと思います。



追記  「郊外小説」って「野菜畑小説」? 九州には「お花畑」と言う駅があるけ

    ど、、、。須磨ニュータウンの少年は、どうして「汚い野菜共」とか「一週間

    に三つの野菜を」なんて書いたんだろう?



写真は「事件」のあった、「須磨ニュータウン」。












水上勉とジェーン・ジェイコブズ

2014-12-25 14:44:21 | 日記
ジェーン・ジェイコブズさんは2006年に亡くなりましたが、アメリカの都市計画運動家の

ような方で、女性ですが、本人か旦那さんがユダヤ系の方ではないかと思います。



KILL THE XPRESSWAY NOW !のプラカードを

胸に付けている ジェーン・ジェイコブズさん。







最近、ドキュメント映画にもなったようです。








『アメリカ大都市の死と生』(1961年、最初は黒川紀章さんの訳でした。)が有名なので

すが、もう一つ日本で翻訳されている本で『都市の原理』(1969年)と言う本があるので

す。たしか、3Mのテープとかブラジャーか何かの縫製を例にして、ルイス・マンフォード

の『歴史の都市 明日の都市』などの、集落が段階的に発達して大都市になる、と言う

都市の考え方を批判して、「都市があるから田舎がある。」「田舎があるから都市があ

る。」「都市が田舎を作り出す。」「田舎が都市を作り出す。」(「田舎」を「非都市」

と言ってもいいのかも知れません、、、。)と言うような内容だったと思います。(この

辺りは、『ユダヤ人と疎外社会』を書いたシカゴ社会学派のルイス・ワースを思わせる

ものがあります。都市の発生にはゲットーなどのユダヤ人の疎外社会が関与していると

言うのですから、、、。ルイス・ワースさんもユダヤ系なのかな?)


水上勉さんは、福井県若狭本郷の岡田集落の「さんまい谷」が在所で、その小説は、最後

に主人公の女性が不幸になるストーリーが凄く多いんです、、、。それも、もともと京都

の人でない女の人が、京都の街に関わって(関わったが為に、男も絡んで)不幸になってし

まうんです、、。最後は保津峡の鉄橋から飛び降りたり、木津川の木船の上で死産したり

、、、。この場合、京都は「都市」で、女主人公の「在所」の若狭や三国や越前は「田舎

」(または非都市)でしょうか? (とにかく物語の中で、女性と男は必ず絡みます、、。

絡まないと物語りになりません、、、。)


高倉健さんの映画「夜叉」では、大阪の「ミナミ」が「都市」で、三方五湖が「田舎(こ

の場合は漁村)」でしょうか?(でも、映画では田中裕子さんも、いしだあゆみさんも最後

に死んだりするほど不幸にはなりません。降旗監督、どうして?)





着物の後姿が田中裕子さんです。



水上勉さんの在所から、車で多分30分もしない所に、網野善彦さんの本に「縁切り寺」と

して出てくる、「萬徳寺」があります。(「無縁所」つまり「アジール」です。ヨーロッ

パの「ゲットー」も、一種の「アジール」なのでしょうか、、、?)遠敷川を挟んで向い

は、二月堂のお水取りで出てくる若狭彦神社上社です。「萬徳寺」があるのは「金屋」と

言う集落です。(水銀などと関係する山伏の活動、もしくは金工などの金属加工と関係が

あるのでしょうか?)



若狭小浜の萬徳寺です。



本当は、山門から遠敷川の風景が朝倉氏庭園跡みたいで良い感じなのですが、よい写真が

ありません。萬徳寺は庭園もあるのです。


それにしても、京都の街の女の人は、この若狭小浜の萬徳寺まで駆け込むのは大変だった

のではないでしょうか? 江戸の女の人が鎌倉の東慶寺や利根川の満徳寺に駆け込んだり

するよりは、ずっと大変そうに思えます。




追記  萬徳寺庭園です。


    


    


















「能舞台=中門」説?

2014-12-24 21:31:14 | 日記
またまた呪術的思考で申し訳ないのですが、私は一時期、「能舞台」は芸能の変遷に伴っ

て、不要になった「中門」が「舞台」として転用されたものではないか?と考えていた時期

がありました。「中門」のついている「書院」が移築されたりするときに、すでにそこで

古式の「儀礼」などが行われることもなくなっていたのであれば、その頃の新興芸能の、

「猿楽」などの芸能集団に、当時のパトロンなどの階級が自分達の楽しみの為に「舞台」

として提供したのではないか?と考えたのです、、、。(そして「書院」からは、「中門」

はなくなってしまうのです、、、。)



もう一度、西本願寺の北能舞台です。




前の記事の写真とは別角度の写真です。




園城寺光浄院客殿の中門です。





間口は京間の3間ですから約6メートルです。(北能舞台は古式?なのか、少し狭いで

す。6メートルは約20尺。ちなみに、大相撲の土俵は昔は直径16尺、今は15尺で4.55m。

僕の好きなボクシングのリングは一辺18フィート~24フィートで5.47m~7.31mです。)


ですが、この話を日本建築に詳しい同級生のK君にしたところ、(彼は、能楽の盛んな北陸

のある街の女子高で、実際に能楽堂の設計施工をしているのです。) 「能楽堂と中門じ

ゃ、作りが全然違うよ(実際は京都弁で「ちゃうでっ!」)、ディテール(建築では部分の

詳細のこと。)が違い過ぎるよ(過ぎるんちゃうか?)。」と言われてしまいました、、、。




デイリースポーツオンライン 2012 0628 より



(K君は札幌生まれの山形市内育ちなのですが、若い時分から京都に行ったら、とても上

手な京都弁を喋るようになって、とても適応順応能力が高いんです、、、。そう言えば

K君の京都の建築会社の大工さん達も、京都出身の大工さんは案外少なくて、北陸だった

り、中国地方や熊本、三河や青森だったりして、水上勉の小説みたいなんです、、、。)


と言う訳で確かに較べて見ると、あちこち随分と違うのです。(残念!)今では一人で勝手

に、この「不思議な説?」を、取り下げております、、、。(「ひょっこりひょうたん島」

みたいに「中門」がドンブラコ・ドンブラコと何処かに流れ着いて行くみたいで気に入っ

ていたのですが、、、。持つべきものは友達です、、、。)





追記  能舞台の解体保存修理報告書などで、中門の連子窓の痕跡とか、落縁の差込み部

    分の痕跡とか、母屋の書院との接続部分との痕跡でも出てくれば、話は別なので

    すが、残念ながら可能性は低そうです、、、。遺構の数も少なそうですし、、。

    (なんて未練がましいんでしょうか、、、。)