唯物論者

唯物論の再構築

幸福論

2013-04-11 08:11:07 | 思想断片

 寺山修二によると、アランの「幸福論」は、不幸な個人に対し、自らの躓いた悲劇を、あたかも幸運のごとく解釈せよという内容である。言い直すとアランの幸福論は、いかなる不幸も実は幸福なのだと思いみなし、いかなる困難もチャンスと思いみなすというプラス志向の勧めである。寺山は、意識が現実を糊塗するこの観念論に対して欺瞞を感じる。なぜなら、どのように思いみなしをかけても、原爆やアウシュビッツが幸福になることは無い、もしくはそれらを幸福に思いみなすのは許されないからである。そのような思いみなしは、単なる自己洗脳であり、プラス志向という名の阿片であり、要するに宗教である。実際にアランも、自らの幸福論を想像力の阿片と称している。ただしこのような寺山の反発は、意識に規定的優位を与えた理屈に対する唯物論的憤慨ではない。寺山にとって過去は、常にかけがえの無い自らの原点となっている。同様に不幸な個人において、過去が不幸であればあるほどに、そのかけがえの無さは際立つ。それどころか過去の不幸こそが、不幸な個人の自己同一性を為している。当然ながら不幸な個人は、そのような過去無しに自分の幸福を考えることができない。だからこそ寺山は、アランが示す不幸への嘲笑に耐えられない。寺山のアランに対する反発は、過去の忘却に対する実存主義的拒否なのである。

 明らかにこのアランに対する寺山の立ち位置は、ヘーゲルに対するキェルケゴールの立ち位置と同じである。キェルケゴールの実存主義がヘーゲル弁証法の影だったように、寺山の幸福論はアランの幸福論の影である。ただしキェルケゴールと違い、寺山は救いの道を示さないままに、自らの「幸福論」を終えている。そのことは、覆水が盆に返ることが無い限り、悲劇の解決を無意味とみなすだけの終り方である。このために寺山の幸福論は、悲劇との対決から終始逃げ回っているかのようにさえ見える。もし不幸な個人が唯物論者であるなら、不幸な個人は自らの悲劇と対決し、その無効化または無害化を目指すであろう。しかし寺山にとって悲劇の無効化や無害化は、悲劇の忘却と同じなのかもしれない。そもそも彼は、悲劇と一体化した自己に酔い痴れている。救いを求めて町へ出たが、結局救いはどこにも見えなかった、というのが彼の幸福論の読後感である。とはいえ寺山の幸福論は、不幸を現れたままに理解し受容する点で、アランの幸福論を超えている。不幸を軽視するアランに対し、寺山は不幸と真摯に向き合うからである。人はパンのみに生きるにあらず。アランは不幸の原因を空腹に求め、そのように解釈することだけを薦める。しかし不思議なことに彼は、パンを食べることを薦めようとしない。一方でアランと同様に寺山も、パンを食べることを薦めようとしない。パンを食べても、過去の空腹は満たされないからである。しかし寺山において過去の空腹は、個人の尊厳に等しい。そしてこの解釈において、パンを食べずとも既に不幸は贖われているのだと、寺山は不幸な個人に伝えようとしているのかもしれない。
 取り返しのつかない出来事が、個人の死において無化されるほかに救われないのだとしたら、それこそ救いの無い話である。だとすれば不幸な人間は、悲劇との対決に自らの救済の一縷の望みをかけても良いのではなかろうか、と唯物論者は考える。もしかすると人は、パンを食べたら、そこで生きる勇気が湧くかもしれない。または、パンを食べられないのが判っていても、それを目指すことで生きる勇気が湧くかもしれない。
(2013/04/11)


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