とりあえず80歳へ  『古希からの田舎暮らし』も10年目になろうとし、喜寿も過ぎてゆき、さて……。

定年後は田舎志向。69歳のとき三木市で「田舎暮らし」をはじめました。田舎にとけ込もうと心掛け、菜園をたのしむ日記です。

温室をつくろうと思ったけど、いいのがありました。

2016-10-31 01:26:22 | 日記
 冬に草花の鉢植えを入れられるよう、材木とポリカの波板で「一坪大の温室を作ろう」とこの数年ずっと思っていました。
 先日買い物に出掛けたとき、ホームセンター・ナンバに簡単な温室が売ってあります。自分で作る気持ちが急にしぼんで、買うことにしました。何年前だったら「やっぱり自分で作ろう」という気になったかな。
        
 写真の温室は売ってある温室の〈大・中・小〉でいえば〈中〉です。棚を中につくって鉢植えを入れたり、苗を育てたりします。
 去年、渋柿の「蜂屋柿」を明幸園で買いましたが今年はまだ。道の駅で買った「西條柿」と村の人にもらった柿を干し柿にしました。今年は天候の加減がちょうどいい。コマバエもつかず順調。夜はキッチンの前に入れ、動物ネットを張ってアライグマからまもります。

 スイス・バーゼルのテニス大会。何を言っても愚痴になる。 ……

「負けを覚悟したけど」錦織決勝戦へ

2016-10-30 01:24:47 | 日記
 スイス・バーゼルのテニスの大会で錦織圭は決勝戦へと勝ち進みました。
 夜中にテレビ観戦。相手はサーブが強烈で、第2セットでは「マッチポイント」まで追いつめられました。ぼくは「負けを覚悟」しました。
 このたびはランキング上位の選手が次々負けてるし(ランキング3位のワウリンカも)、明日この大会の決勝戦が終わると11月1日からパリ大会があり、錦織も出場義務がある。ここは「負けても仕方ないか」。
 ところが錦織は粘って第3セットに持ち込んで勝ちました。この精神力の強さ! いままでの日本の選手とちがう。多くの日本のファンは夜中に手に汗握って応援したでしょう。
 明晩の決勝戦ももちろんテレビ観戦します。

 図書館と買い物に出て、道の駅「みき」で渋柿(鳥取産の西條柿)を買いました。アライグマは甘い物大好きなので、防ぐためにウッドデッキの一部に動物ネットを張ります。
 





錦織圭が勝ちました。

2016-10-29 03:56:15 | 日記
 夜の12時に起き出して、テレビでテニスの試合を見ました。錦織圭とデルポトロの対戦です。錦織はいままでデルポトロに勝ったことがありません。4戦4敗でした。しかし今日は勝つ予感がしていました。 ひいき目でなく、客観的に見て。ぼくの「客観的」はあやしいですが、とにかく錦織が勝ったからうれしい。スイスは遠く離れていてもライブで「勝ち」を体験できました。いい気分です。
 次は準決勝戦でミュラーという選手と対戦します。錦織が勝つ。決勝戦は多分ワウリンカと。全米では負けましたが今度は勝ちます。スイスの大会で初優勝。その姿が83パーセントくらい見えてきました。

 きのうは雨。ぼくは散髪に出掛けたり、母のショートステイの様子を見に寄ったりしました。道子さんは大豆畑トラスト時代より前から付き合いのあるふるい神戸の友だちに来てもらい、おしゃべりの花がいっぱい咲いていました。気心の知れたふるい友だちとゆっくりおしゃべりするのは、こころのぜいたくですね。
 今日は裏山の花見デッキでBBQ。うちは場所をお貸しするだけですが、気持ちよく使ってもらえるよう落ち葉やドングリを掃除しておきます。

きのうは耕運機が「大働き」しました。

2016-10-28 09:11:42 | 日記
 今日は雨が降るという予報です。寒くなって畑が乾きにくくなりました。
 「雨の前に耕運機をかけて畝をつくっておきたい」
 天気予報を見ながら/タマネギ/エンドウ・ソラマメ/の畝をつくりました。まず 石灰を入れて耕運し、一週間ほど間をあけて元肥の鶏糞を入れて耕運しました。畑の土の状態は〔良〕です。
          
 南瓜の畝を片づけ、草を刈り、荒く耕運して土をほぐし、石灰を入れてまた耕運。きのうの「元肥入れ」耕運と合わせて10往復はしているでしょう。雨が降って畝が水を含んだら、タマネギやエンドウを植えるまで黒マルチをかけます。きのうは全部で10畝(サツマイモを掘った畝とか山芋を掘った畝とか)を耕運機で耕しました。

 毎年大豆の刈取りは文化の日(11月3日)を目途にしていましたが、今年の刈取りは遅れそうです。今年はまずサチユタカを直播しました。ところが雨が多かったせいか芽が出ませんでした。そこでうちのタネ(タマニシキ)を7月に入ってから苗立てして10日頃に移植しました。
 タマニシキは晩生種かどうか、まだ葉をつけています。
          
 写真の背の低い大豆はサチユタカでもう全部葉っぱが落ちています。向こうの葉の付いているのがタマニシキです。葉っぱが落ちて、刈り取るのは来月10日頃になるかも。

また錦織圭の試合が見られる。

2016-10-27 09:02:48 | 日記
 いまスイスのバーゼルでプロテニスの大会があり、錦織圭が試合に出ています。9月終わりにジャパン・オープンで怪我をして途中でリタイアしましたが、怪我が治ってATP500の大会で復帰したのです。
 試合のライブ放送は夜中になりますが大丈夫。「宵の口に寝入って夜中に起きる」のがぼくの生活パターンです。12時頃に起き出して見ています。1・2回戦と勝ち進み次は準々決勝。多分難敵のデルポトロ(彼には一度も勝ったことがない)と対戦するでしょう。いまの錦織圭なら5分5分の試合になります。
 それにしてもプロ・テニス選手の生活は厳しい。怪我してもすぐに治して復帰しなければランキングはどんどん下がります。注目されなくなり、プレーも冴えなくなります。
 世界でも数人のトップテン選手のなかに錦織圭がいる。グランドスラムやATP1000・マスターズの常連になり、世界の人々から応援されている。そういうことが起こっている時代に、ぼくはたまたま居合わせてしあわせです。
 スイスの大会が終わるとすぐパリでATP1000・マスターズの大会。つづいてランキング・トップの8人の選手だけで行われる〈ツアー・ファイナル〉。酷な日程ですし、夜中の試合がつづきますが、ぼくにはしあわせな日日になります。
 
 錦織も頑張るのだからぼくも畑仕事に精を出そう。何の関係もないけど。
 タマネギの畝づくり/薩摩芋や落花生を掘ったあとの畝づくり/大豆や黒豆を刈って干して脱穀/野菜ゴミの焼却/曼珠沙華の球根植え/など仕事がつづきますが、自分へのご褒美の蟹もチラチラ見えて。
 

口吉川小学校の子どもたちとグランドゴルフをしました。

2016-10-26 02:27:58 | 日記
 24日(月)、口吉川小学校の児童と地域の老人が交流する「グランドゴルフ会」があって、うちの村と隣村から6人の老人が参加しました。
          
 子どもたちはボールを打って向こうに転がると走って追い掛けます。老人たちはボールを打ってから歩いて追いつきます。でも不思議に気持ちがかみ合って、児童も老人もゴルフをたのしみました。ぼくもスコアはダメでしたが、快晴の秋の陽をあびて遊びました。
 口吉川小学校の校庭には、すごく大きなカイヅカイブキの樹が2本立ってます。
          
 枝ぶりはいいし、子どもならいかにものぼりたくなる。「よくのぼるの?」とたずねてみようと思ってそのまま。

草刈り機で「芝生刈り」をします。

2016-10-25 00:20:25 | 日記
 元は竹藪だった裏山の登り口に数年前芝生を張りました。その芝生を毎年少しずつ広げて、いまでは写真のようになっています。
               
 家の裏窓から眺めるのに具合のいい広がりです。春から秋まで芝生はよく伸びます。本格的な張り方ではありませんから雑草や笹も生えてきます。デコボコもあります。
 そこで芝生刈りをしようと簡単な「手押し式芝刈り機」を買ったのですが、うまく刈れません。伸び放題では雑草が勝ってしまうしムシや蛇もはびこるかも。
 で、草刈機で芝生を刈ることにしました。地面から2センチ浮く「歯押さえ金具」を草刈り機につけて地面を滑るように刈ります。「芝生の刈り方」を読むと「一週間に一度刈るのがよい」と書いてありますが、そんなことはできません。せいぜい月に1~2回です。
 きのう芝生を刈りました。その写真です。
               
 スッキリしました。芝生は「肥料食い」だそうですから雨の前に鶏糞を撒くことにします。

 この夏発見したことがあります。しばらく芝生を刈っていなくて5センチ以上伸びていたでしょうか。密生した芝生の上でムカデが死んでいました。
 裏山にはムカデがいっぱいいます。ムカデは食料であるムシを追って家のほうに寄ってきます。家に入ることもあります。
 あるムカデが芝生の森に迷い込んだ。いっぱいある足を一生懸命動かしても体が前に進まない。芝生で体が浮いてしまい、空しく足を動かしているうちに夏の太陽にあぶられてミイラになってしまった。
 足がいっぱいあり過ぎてもよくないもんですね。
 この芝生、ムカデの防波堤になっているのかも。

野菜くずを焼きながら耕運。はかどってます。

2016-10-24 01:26:17 | 日記
 畑では、サツマイモのツル/落花生の葉っぱ/土手を刈った草/黒枝豆の葉っぱや茎/カボチャのツル/などが山積みになっていましたが、この2日でほとんど焼いて、片付きました。
「少し乾いて燃えやすくなった。ゴミを焼こうか」と思う頃、雨にずっと降られていましたから、ゴミの山は下のほうが堆肥化しています。でも竹や古い材木を燃料にすると白い煙を出して「草木灰」になります。いい灰ができました。
 サツマイモや落花生を掘ったあとは耕運しました。タマネギの畝になる南瓜のあとも耕運しました。耕運して雨の降らない日がつづくと、田んぼも畑らしい土になります。
 このあとは大豆の刈取り・乾燥・脱穀、つづいて黒豆の刈取り・乾燥・脱穀。タマネギ植え。道子さんは「イチゴの本植え」と仕事がつづきます。土手の曼珠沙華植えは冬の仕事になりそうです。足/腰/膝/肩/と部品が痛んできましたが、それなりに畑に出られる健康に感謝して暮らします。

昭和18年の鳥取地震の思い出

2016-10-22 02:27:16 | 日記
 鳥取県中部で地震があり、ぼくが5歳のときに体験した「鳥取大地震」を思い出しました。
 昭和18年9月10日の夕方、鳥取市を中心に地震がありました。戦争中の日本は報道管制をしいていて全国報道をしませんでしたが、〈マグニチュード7,2/震度6〉の大地震で、1000人以上の人々が亡くなり、家屋の全壊率は80パーセントだったそうです。
 ぼくはあの地震をおぼえています。ぼくらはあのとき、母の実家・鳥取県東伯郡舎人村方地で暮らしていました。母は3人の幼児を連れて父の勤務する朝鮮に渡りましたが、現地で病気になり、治療のために子らを連れて一時帰国していました。
 秋の夕方、ぼくは玄関先で散髪してもらっていました。といっても散髪は祖母の役目。バリカンでなくジャッキという2本の柄を両手でもって刈る散髪です。ときどき髪を噛み込み、祖母はそのたびにネジをはずしてジャッキをバラバラにします。噛み込んだらもちろん痛い! そのとき地震。
 裏の畑の奥に竹藪があり、そこにむしろを敷いて避難しました。夕食は暗い竹藪でおにぎりを食べました。その晩は「竹藪で寝るか」と大人たちは相談しましたが、結局家に帰って箪笥を低くしてそばに置いて寝ました。屋根が落ちてきたとき支えるために。先年90歳超で亡くなった母の弟(ぼくの叔父さん)にはまだ召集令状が来てなくて、ぼくのそばで寝てくれました。
 半分だけ散髪した頭はその後どうなったか覚えてません。

 母の病気が治ったら朝鮮に戻るはずでしたが、戦況わるく、そのまま内地で終戦に。もし朝鮮に戻っていたら幼児のぼくらも母も彼の地で人生が終わっていたでしょう。父は8月15日を境に現地の人に襲われ、駐在所の巡査一家らと何日も山道を逃げてようやく北鮮から京城(ソウル)へ。毛布一枚をリュックに詰めて命からがら9月中頃に日本に還ってきました。

畑の作物収穫中!

2016-10-21 08:30:36 | 日記
 11月になると最低気温が10度以下になり、サツマイモは早めに掘ってしまうほうがいい。毎日掘っています。安納芋はあと数株、紅はるかと鳴門金時はあと20株ほど。10月中に掘れそうです。
 小芋はきのうで半分の18株掘りました。年内に掘るという目標は達成できそうです。
 大豆畑トラスト「むーな村」のメールを見ると、大豆を刈りとって干す作業にかかっています。ところがうちの大豆『タマニシキ』はまだ葉っぱが青々。10本余り混じっている『サチユタカ』は葉っぱが黄色くなって落葉しはじめています。
 7月に入ってから苗立てして移植したのと、タマニシキが晩生種なのかも。サヤはよく付いて順調に育っています。収穫は大丈夫でしょう。もう少し待ちます。
 落花生は半分ちょっと掘りました。フライパンで炒って食べるのは、おいしいけど手間がかかります。それにうちが植えた『オオマサリ』という品種は大粒で枝豆用。だから掘った落花生は全部枝豆として消費しました。掘って数日おくと固くなって枝豆になりませんし。
 黒豆は枝豆として半分食べ、残りの半分は12月の暮れに脱穀します。
 畑の土手の曼珠沙華ですが、家のまわりの曼珠沙華も根を掘り出して移植します。この10年に球根があちこちに増えて、球根の塊り(写真)をほぐしてみたら大小合わせて24個。
                
 掘り出した写真の塊りは今年一本も花が咲きませんでした。それでも「地中では球根がこんなに増えているのか」と驚いたり、感心したり。
 追伸 ……  イチゴのランナーからとる「宝交早生」の苗が余っています。10月中にもらってください。11月1日には刈ってしまいます。

読書は「歴史」がいいかな。

2016-10-20 04:03:17 | 日記
 この間から藤田宣永の『老猿』『異端の夏』とつづけて読んで面白かったので、『和解せず』を図書館で借りました。はじめの数十ページを読んで「またか …… 」と思い、読むのをやめました。
 5~60歳まわりの独身または離婚男が、女がいて、またはある程度女にもてて、お金もなんとかなって、あれこれするパターンが同じです。
「年寄りになるとテレビを見るか本を読むくらいしか《たのしみ》がないから、おもしろい作家を見つけて読んでみよう」と図書館で物色していますが、小説にそれをもとめるのは無理だと思いました。
 歴史の読み物がいいかな。ぼくの場合、第二次世界大戦関係の本が中心になるだろうけど。

 母がショートステイから戻りました。元気です。食もすすみます。8月末に数日入院しましたが、《生きる気力・体力》の確かな回復を感じます。
 食事は車イスに移って食べますがあとはベッドの上での生活。100歳までは「活字・本の虫」でしたがいまはテレビを見るともなく見ています。健康に不安はありません。もちろん何の薬も飲んでいません。
 母との長い付き合いの中で強烈に覚えているのは22歳のときの手紙です。あのとき母は体調を崩して医者にかかり、「肝硬変の疑いがある」といわれました。母は死を覚悟して「親として不甲斐なかったが家族の員数外になってしまった」と下宿に手紙を送ってきました。
 夕闇せまる秋の暮れでした。返事を書こうと机に向かい、一字も書けず、込みあげる思いに泣いてしまった。あれから57年。ぼくは79歳になり、母は103歳になり、元気です。
「寿命はわからんもんだ」とつくづく思います。

夜中に一人で『こころ旅』しました。

2016-10-18 05:15:11 | 日記
 NHKのBS放送で、火野正平が自転車で走る『こころ旅』という番組をやっています。
 視聴者のリクエストで全国の思い出の地をまわるのですが「子ども時代の思い出」が圧倒的に多い。今週は我が郷里・鳥取県。見逃してなるものかと待ち構えて見ています。
 今朝は、いつものように深夜に起き出して、グーグルの「ストリート・ビュー」でぼくの思い出の地を見ていました。
 ぼくの「子ども時代の思い出の地」はあちこちあるから時間がかかります。ぼくの記憶に残る地をあげてもかなり。生まれたところは鳥取市の宇部神社の前だそうですが、これは記憶がありません。
 父が朝鮮の小学校に赴任することになり、ぼくら(母と3人の幼児)も行ったのですが記憶はなし。母の病気で家族は昭和18年に内地に一時帰国しました。(病気が治っても、戦況がわるくなり、もう朝鮮に戻れませんでした)
 だから記憶に残る最初の思い出の地は鳥取県東伯郡舎人村方地です。この地で舎人国民学校にあがりました。
 日本は戦争に負けて父の引揚げ ⇒ 日野郡黒坂町久住の分校に赴任 ⇒ 家族も日野郡の山奥に行きました。
 小学校5年生になったとき、父が鳥取県東伯郡竹田村の木地山分校に赴任 ⇒ ぼくらは本校のある穴鴨の官舎に。
 小学校6年生の4月、敗戦後に生まれた妹・伸子が亡くなり、ぼくらは倉吉町に出ました。
 敗戦国日本は外地からの引揚げ者でふくれあがり、住宅難のときでまず三明寺の神社の裏家に住みました。次に余戸谷町の水道山のふもとに。中学3年生のとき葵町・賀茂神社のそばの市営住宅に。中学・高校とここで。その後山陰本線の上井駅近くに家を建てて移住。
 
「ストリート・ビュー」で見ると名残りの残っているところ、まったく変わってしまったところといろいろです。ぼくにとって「今どうなっているか」はどうでもいい。「記憶の手掛かり」を見て何ともいえない「甘酸っぱいような気持ち」にひたりました。

絶好の「黒豆狩り・芋掘り・落花生掘り日和」でした。

2016-10-17 05:41:21 | 日記
 きのうの日曜日は絶好の《黒豆刈り・芋掘り(サツマイモ・小芋)・落花生掘り》日和でした。お客さんがあり、畑の収穫をたのしんでもらいました。
 10月に入っても雨が降って畑(休耕田)がぬかるんでいましたが、きのうは泥に脚をとられませんでした。しばらく乾燥御注意報が出ていたお蔭です。でも夜中に雨。畑はまたぬかるみます。
 村の「山田錦」の稲刈りは、この少しの晴れ間にほとんど終わりました。よかったです。
 うちのサツマイモはまだかなり残っており、これからも掘りつづけます。

 きのう、芋掘りをするお客さんの備中鍬(びっちゅうぐわ)の振り下ろし方を見て「若い人は力強さがちがう」と思いました。
 ぼくだって30年前だったらあれくらいできた。60年前だったらもっと力があふれていた。あのパワーがよみがえれば仕事もグングンはかどる。
 すべてを手に入れた王様が最後まで叶えられなかったのが『不老長寿』でした。「力にあふれたあの若さがもう一度ほしいか」と問われたらぼくも「ハイ」と答えるでしょう。
「60年前の《体力》が戻るとすれば《こころ》も戻るよ。辿ってきた道も消えるよ。いいか」と問われたら何と答えるか。
「じゃー、このままでいい。いまの《こころ》は結構気に入ってるし」。

万作・萬斎の「狂言」を観ました。

2016-10-16 04:42:18 | 日記
 道子さんのリクエストで「狂言」のチケットをとっていたので、西宮の芸文センターに出掛けました。演ずるのは人気の《野村万作・野村萬斎》(親子)です。
 車は地下鉄の名谷駅に置いて、久しぶりに電車に乗りました。阪急電車で西宮北口に行くとき向かいの席に7人のお客さんが座って、6人がスマホをいじっていました。一人はおばあさんで目を閉じていました。
 こんなとき「ガラ携」を出していじるのは勇気がいるかも。ぼくらは「買い物のときお互いの居場所を確認する」程度なのでガラ携で不自由しませんが、世の中は圧倒的にスマホ時代。
 もし電波というものが一切通じなくなったら、スマホをいじっている人たちは「何を考えて何をするだろう」と向かいの席の人たちを眺めながら思いました。
 狂言は『月見座頭』と『吹取』(ふきとり)で、後の演目が面白かった。
 午前中3時間畑仕事をして、少し昼寝をして夕方の公演に出掛けたのですが、しんどかった。時間を欲張り過ぎました。
 農繁期で時間はいくらでもほしい。しかし、一日のメインテーマは一つにしよう。退職後〈大豆畑トラスト〉時代から20年つづけてきた野良仕事だけど、慣性の法則に引きずられて無理しないよう、足腰と対話しながらたのしもう。
「ボチボチでんな」っていい言葉ですね。
 
 

『癌だましい』の感想文ふたつ。

2016-10-15 05:14:06 | 日記
 図書館で『癌だましい』という本を借りて読みました。山内令南(1958年=昭和33年生れで2011年に亡くなった女性)が自分の食道癌について書いた作品です。
 ぼくはなぜか、むかしから(40歳くらいからか)「癌の闘病記」というと読みたくなって、図書館で借りて読んでいます。何十冊か百冊を超えるかというほど。これはすさまじい本ですが、ぼくの評はしばらく置きます。
 ただ「アマゾンのコメント」に寄せられた感想文を紹介します。5つ星と1つ星のコメントを。

 5つ星コメント
 頼れる人をみんな無くしても、職場で厄介者扱いされても、末期癌になっても。主人公は食うことの楽しみを何ものにも譲らなかった。末期癌は作者の「書く」という行為も奪えなかった。
 読み終わって震えた。だれにでも勧められる話ではないが、 (中略) 私はこの主人公にある種の格好よさを感じました。

 1つ星コメント   混迷する純文学界を象徴するような作品
 現役の食道癌患者が書いた「食道癌患者が独りぼっちでゲロまみれ涎まみれになって死んでいく」という作品。実際作者の女性は受賞10日後(文学界新人賞)に亡くなった。でもこれを認めると結局最後は不幸自慢になってしまうのではないか。あまり良いこともなく死んでいったおばさんを、最後は作家として逝かせてあげたことは、本人からすれば確かに幸せだったかも知れないが、それで読者から金と取ろうなんて下品だと僕は思う。

 ぼくは読むのを途中でやめました。
 癌で亡くなった作家の佐野洋子さんは、自分の病気についてもエッセイを書いています。「もし彼女がこの本を読んだら、どんなコメントをするだろう」と思いました。