とりあえず80歳へ  『古希からの田舎暮らし』も10年目になろうとし、喜寿も過ぎてゆき、さて……。

定年後は田舎志向。69歳のとき三木市で「田舎暮らし」をはじめました。田舎にとけ込もうと心掛け、菜園をたのしむ日記です。

電気柵の電池を交換しました。 

2017-02-28 01:58:33 | 日記
 天気はいいし、土手に曼珠沙華の球根を植えようと、6日ぶりに畑に行きました。電気柵の電池をチェックしたら《OK》ランプが点きません。去年の12月3日に新しい電池を入れたのに、3ヵ月もちませんでした。夜だけ通電するようにしていますが、夜の時間が長いから消耗したのでしょう。単一電池を8本交換しました。3ヵ月ごとで年に4回。一回1000円として4000円かかります。
 バッテリーと太陽光パネルを組み合わせて通電したほうがいいかな。
 うちの畑に電気柵をつけて通電したのは2012年9月5日でした。(前の『古希からの田舎暮らし』ブログに書いていました)今年で足掛け5年目になります。この5年イノシシをシャットアウトできているのは電気柵のお蔭です。イノシシは用心深いから、うちの畑を敬遠してるんでしょう。しかし新顔のイノシシが「電池が切れてるぞ。大丈夫だ。行け!」と気付いたら、うちの畑は好物のミミズはいっぱいいるし、野菜や芋はうまいし、壊滅状態になるでしょう。そうなったらこの畑はあきらめます。家の庭だけで野菜をつくります。でもまだ1~2年は広い畑でやれそうなんだけど。

 この写真は畑の焼却炉です。家の前の空き地は背の高い笹でおおわれていました。その土地が売れて、買った三木のおじさんが根気強く笹を刈りました。その笹を「畑の野菜くずをもやす燃料にしてあげよう」と声をかけたら、思いのほかいっぱい。いま山積みになっています。少し燃やして減らさないと。きのう火を点けましたが風があるので途中でやめました。無風の日に少しずつ燃やします。

日本センチュリー交響楽団の『田園』(交響曲第6番)を聴きました。

2017-02-27 03:46:02 | 日記
 きのうは東条町の〈コスミック・ホール〉で、オーケストラの演奏会を聴きました。日本センチュリー交響楽団で、ベートーベンの『田園』交響曲(第6番)。松元宏康氏のメリハリの利いた若い指揮ぶり。見ていて気持ちがよかったです。
 プログラムの最後はコスミックホール合唱団とオーケストラで文部省唱歌『ふるさと』を合唱しましたが、その前に松元氏がこんなコメントを。「この町の人たちが想像する以上に、日本の人たちは⦅コスミック・ホール⦆を知っています。日本でも屈指の響きのいい(気持ちよく演奏できる)ホールだから」。この前はN響第一コンサートマスターの篠崎さんに「いいホールだ」とほめられたし、いいホールで音楽を聴けてうれしくなります。『新しい風 かとう』のお蔭で、コスミック・ホールでいろんな催しをたのしめて、感謝します。

『田園』交響曲は特に思い入れのある音楽です。ちょっと長くなりますが「思い」を書きます。
〇 いまから65年前=昭和27年の秋、ぼくは倉吉東高校(鳥取県)の一年生でした。学校の図書室でレコード鑑賞会があり、「大きな電蓄で音楽が聴ける」といわれて参加しました。『電蓄』とは「電気蓄音機」の略で、ステレオやトランジスタはまだありませんでした。家にはラジオ以外に音楽を聴く機械などない時代です。そのときは『田園』交響曲の第一楽章と第二楽章を聴きました。「これは音楽史上はじめての本格的な標題音楽です」と解説の人が話したのを覚えています。
〇 次のぼくのエピソードは22歳。西宮の中学校に勤めるようになり、宿直の晩に聴いた『田園』です。(勤めたころはまだ「宿直」があり、教師が交代で学校に泊まっていました)
『田園』は、第三楽章・第四楽章・第五楽章と切れ目なしに演奏されますが、第四楽章(雷雨 嵐)から第五楽章(牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち)に移るあの音楽を聴いたとき、電気に打たれたような、田舎の景色が目の前に広がり、田舎の空気がさっと肺に入ってきたような、なんともいえない、気持ちになりました。古い校舎のわびしい宿直室で、その晩LPレコードのそこだけを、何十回と繰り返し繰り返し聴きました。田舎から阪神間のような大都会(と思った)に出てきて、都会の華やかさを、田舎ののどかさを、ふるさとの祖母や親を、思いながら聴いた、あの感慨は、半世紀の時間をへだてても忘れません。
〇 家にステレオを持つ時代になってLPレコードを買い、繰り返し聴きました。レコードがCDになり、〈you tube〉でも聴くようになりました。この世の時間が残り少なくなっても、ぼくの『田園』愛は生涯不滅です。

全戸集会にちゃんと出席しました。

2017-02-26 05:02:18 | 日記
 カレンダーに「村の寄り合い・7時30分」と記入して、その日の朝意識しても、夕方にはすっかり忘れてしまい、夕食後寝て、夜中に起きて、全戸集会を思い出して後悔する。
 サボりたい気持ちは毛頭ありません。悪気は〈0,1ミリ〉もありません。出席率を100パーセントにしようと常に心掛けています。それなのに出席率は5割に達するか達しないか。
 きのうはちゃんと出席しました。ぼくは完全に忘れていましたが、道子さんが覚えていました。老後は二人三脚でやっと一人前ですね。
 裏山に植えた樹樹に「寒肥を施す」作業にきのうからやっと手をつけました。肥料はフジワラファームの鶏糞です。樹のまわりの土をぐるっと円形に掘って肥料を入れる。そんな手間のかかることはできません。樹のまわり3カ所に穴を掘って肥料を入れるだけ。
 そこへ久しぶりに大志くんが、お父さんとやってきました。今度6年生になる大志くんは、少年野球の練習があって、なかなか来られなくなりました。山仕事をしているおじいちゃんのところに来て、キウイの棚の柱についている金具を「これ何?」とききます。
 ハンモックを引っ掛ける金具です。小屋からハンモックを持ってきて張ってやりました。ひとしきりハンモックにのって、ゆらして遊んでいます。ハンモックの、あのすっぽり包まれる感じはなかなかいいですね。
 まだ寒いけど、山仕事/畑仕事は始動です。
 鹿児島紅梅が咲きだしました。そろそろウグイスの「初鳴き」が聞ける頃だな。たのしみに待ちます。
 

ラフターヨガをリードすることを目指して。

2017-02-25 04:31:49 | 日記
 22日・23日は朝から一日中ラフターヨガの講義と実習で、昼寝の時間はありませんでした。頑張ったお蔭で、修了証書をもらいました。一応ラフターヨガをリードできるわけです。でも世の中そんなに簡単なもんじゃない。練習しなければ、人は笑ってくれません。これから練習を積みます。
 おさるさんに記念撮影してもらった、うれしそうな修了証書を持った写真を流用させてもらい、アップします。
                
 そうそう、昨日は2日分を取り戻そうと、1時から5時までたっぷり昼寝をしました。4時間もの熟睡を「昼寝」と呼べるか疑問ですが、ぼくは二日分の昼寝を取り戻した気分です。

 さて習ったラフターヨガの〈リードの仕方〉ですが、すぐ忘れてしまいそうなので今日から復習します。
① ラフターヨガの説明
 どんなヨガなのか。5つの要点があります。自分なりに理解して、その要点を簡単なプリントにしようと思います。
② 進行にあたって気をつけること
 ラフターヨガで心得ておくことを自分なりに理解して、プリントにまとめて伝えます。
③ エクササイズの進め方を説明。
 実際に動作をしてもらいながら「エクササイズ」になれるように。
④ ラフターヨガ ⇒ リラクゼーション(クール・ダウン)

〈ラフターヨガ〉がリードできるように、練習を積みます。

2017-02-24 01:31:50 | 日記
 2月22日23日の〈インストラクター講習〉を受けて、ラフターヨガをリードする資格はいただきました。おさる(植田弘一)さんの気持ちの入った教えを受けて、ラフターヨガの進め方が見えてきました。しかし〈人〉を相手にするのですから自動車の運転免許のようにはいきません。これから道子さんとも練習を積んで〈リードする力〉を身につけます。うちの村の老人会でリードできるように。

 インストラクター講習で習ったことの一つに、自分一人でラフターヨガをするのがありました。
 面白いこと・おかしいことがあって、家で3分5分と声をあげて笑うのは無理です。漫才や落語でも「ドッ!」笑うのは3秒だそうです。「笑いは健康にいい」/「笑わせよう」と頑張っても、3秒ではどうしようもない。うそ笑いでいいから声をあげて5分笑う。一人暮らしの人がそれをするようになれば「世の中は変わる」。
 阪神淡路大地震の年にインドの公園ではじまり、またたく間に世界中に広がった「ラフターヨガ」の力を信じます。

朝、錦織圭が負けて、心おきなくラフターヨガに集中しました。

2017-02-23 00:27:32 | 日記
 まだ講師の〈おさる〉さんが到着するまえに、錦織圭は「リオ・オープン」の一回戦でコロッと負けました。
 このたびの「リオ・オープン」では、錦織圭が第一シードで、もちろん優勝候補の筆頭でした。錦織は、去年から優勝戦に勝ち進んだ大会で6度連続で負けてます。なんぼなんでも今度は勝つやろ。下位の選手ばっかりだし。
 それが「あーあ」。
 暗い老後にならんように、あんまり肩入れせんとこ。精神衛生によくない。
 ま、ラフターヨガのインストラクター講習に集中できるし、夜中の試合はもう見なくていいし、枕を高くして眠ります。

 さてラフターヨガの〈インストラクター講習〉ですが、「おもしろいことを言って集まった人たちを笑わせる」のでなく、〈笑う〉という〈運動〉をしてもらうのです。インストラクターだけの「空回り」にならないよう、上手にリードしなければなりません。練習が大事です。さいわい道子さんの友だちも加わってもらったので受講生が3人になり、練習が盛り上がりました。

 写真は「ヤッター ヤッター イエーイ!」を練習している場面です。(ぼくは写真を撮ってる)
 今日は村の老人会の人に練習台になってもらって、〈笑い〉という〈運動〉をリードする練習をします。
 うまくリードできるかな。

『ラフター・ヨガ』のインストラクター講習:はじまりはじまり!

2017-02-22 02:43:31 | 日記
「もののはずみ」というのはおかしなもので、「80歳」のすぐそばに来てからラフター・ヨガのインストラクター講習を、今日から2日間受けることになりました。ぼくのモチベーションは「村の老人会で、みんなが笑って元気に生きよう」という気持ちだけです。
 道子さんとそのお友だちと3人で講習を受けます。2日間どんなことを習うかわかりませんが、「村の老人会お仲間の方に練習台になってもらおう」と4人にお願いしてあります。
 おさるさん(講師の植田弘一さん)の話によれば、ラフター・ヨガは、NK細胞が活性化して「一日に5000個発生する」といわれるガン細胞をやっつけるだけでなく、「認知症にも効く」そうです。老人には申し分のない効能が期待できます。
 食物がよくなり、医療が行き届いて寿命が延びても、認知症が増えたら困ります。ラフターヨガや瞑想で体も心も頭も元気に生きる。そしてPPK。
 どんなことを習ったか、また現地よりレポートします。
 ご期待を乞う!

雨の中を〈伏見稲荷〉へ

2017-02-21 03:45:37 | 日記
 ホームセンターの企画した京都ツアーに応募して、きのう雨の中を〈伏見稲荷〉に行ってきました。

 伏見稲荷は最近外国人旅行者に人気があると聞くし、ぼくらは行ったことがないし「この機会に行ってみよう」と参加したのです。
 まず宇治の平等院を見学して、宇治川に浮かんだ船で昼食。午後雨のいちばん激しく降るときに、お稲荷さんの鳥居をくぐって歩きました。雨の中を、着物を着て、自撮り棒を持って写真を撮ってる人は、外国の方たちでしょう。いっぱい。
 赤い鳥居がすき間なくびっしり並び、雨の中を歩いていると、庶民の祈りのエネルギーが伝わってきます。「気候のいいときにまた訪ねてもいいな」と思いました。雨で、鳥居のトンネルを三分の一も歩かなかったので。
 それにしても平日の月曜日で雨が降るのに、人出の多さにびっくりしました。
 
 ところで錦織圭のテニスの試合ですが、アルゼンチンオープンで決勝戦まで勝ち進んで、また負けました。新聞に決勝戦では六回連続で負けていると書いてあります。その通りです。去年のスイス・バーゼルの決勝戦は、チリッチで錦織より下位だし、勝つと思った。でも負けた。今年になってからも1月のブリスベン決勝戦/そしてこのたびのアルゼンチン決勝戦で、下位の選手と当たるから大丈夫と思った。でも負けた。これは精神的な弱さです。
 で、なにが言いたいかというと、少し引いて応援することにします。つまり「テレビで見ない試合」をつくる。そうでないとめり込むから。〈行雲流水〉の心持ちで田舎暮らしをしようというのに、おじいさんがヤキモキするのは似合わん。
 こう宣言しておかないとまためり込みそうなので、書きました。

「今日は何もしなかった」から思うこと

2017-02-20 02:27:19 | 日記
 ある自己啓発セミナーを受けたときいわれました。

「今日は何もしなかった」と日記に書きますね。でもよく考えると、生きてたら何かしてる。息して、トイレに行って、食事をして、テレビを見て、新聞をチラッとでも見て、昼寝でもして、お茶飲んで …… 。

 夜中に起きて、パソコンに向かって「エー、今日は何したかなあ」と考えますが何も浮かびません。するべきこと/したほうがいいこと/は頭にいろいろ浮かびます。「しかし何もしなかった」。
 きのうは、そんな気のする一日でした。
 でもこまかく一日を振り返ってみると、まず娘夫婦が「味噌がなくなったから」ともらいに来ました。娘は道子さんと畑に行って太ネギや大根をもって帰りました。お昼まえには神戸の長田からもう22年も畑づくりに来ている方とデッキでお茶しました。
 夜は一寝入りしてから起きて、テレビで「もんじゅ廃炉」をめぐるドキュメントを見ました。まとまりませんがあれこれ日本の将来を考えました。
 そうそう、結婚して50年になるし、年2回の「蟹食い一泊旅」でなく、4、5泊の旅をしようと思い立ちました。この10年来2泊以上の旅をしたことがないので。
 お誂え向きにそんなツアーが新聞広告に載ったので申し込みました。南九州3泊4日温泉三昧ゆったり旅(60歳以上の夫婦限定)。早速申し込み、母のショートステイの日程を旅行日に合わせて決めてもらいました。新聞のツアー全面広告を壁に貼り、旅の気分を盛り上げていました。ところがぼくらの選んだ日は「最小催行人数に達しないので中止します」だって。
 またショートステイの日を調整して旅行日をスライドする気にならないし、やめて自前で旅を計画することにしました。パソコンで旅先を選び、駅探で電車とかさぐっています。
 こうして書きながら思います。
〈寝たきり〉になって、食べる・排せつする・ときどき施設で入浴させてもらう・だけの、ベッドの上だけの生活になったら、そんな〈あれこれ〉が全部消えてしまうんだなあ。〈介護する〉は大変だけど、介護される「人」はもっと大変なんだなあ。
 

映画『相棒』を見ました。

2017-02-19 01:55:07 | 日記
 きのうから母はショートステイ。迎えの車を見送るとホッとします。雨のあとで畑はまだ乾いてないし、山仕事をする気も起りません。「仕事をする気にならない」という〈自分の心の中の出来事〉を、まえは簡単にのり越えたように思うのですが、近ごろは〈やる気の空気が抜けた〉状態になり、「何か」をする力が出なくなりました。
 そんなときは映画でも見よう。と三田のイオンシネマに出かけました。『相棒』をやってたから。
 筋の混み入った、わかりにくい映画もありますが、このたびの『相棒』ははじめからおわりまでわかりやすく、意表を突く設定もあり、右京さんの冴えた推理もわかり、ちゃんとついていけました。「見た見た」という感じで満足。帰りに「よかたん」温泉に入ってきました。
 この〈息抜きタイム〉がありがたい。

 紙おむつがあり、体拭きのウエットティッシュがあり、ベッドや車イスを安く借りられ、デイサービスやショートステイで預かってもらえ、しかも介護保険のお蔭でなんとか費用をまかなえ、ほんとにありがたい時代です。
 長年介護に苦労した人の話をきくたびに「むかしは大変だったろうな。よく体力と〈こころ〉がもったな」と思うばかりです。
 
 

『ラフターヨガのインストラクター』講習を行います。

2017-02-17 03:49:32 | 日記
「ラフター・ヨガ」は20世紀の終りにインドの医師が提唱して、またたく間に世界中に広がりました。「笑い」の力がNK細胞を活性化して健康にしてくれる。ほんとにおかしくて「笑って」も「うそ笑い」でも、脳は区別しない。同じ効果が期待できる。ということで日本でもあちこちで「ラフターヨガ」の集いが行われるようになりました。テレビのニュースなんかで「ヤッターヤッター、イエーイ」と掛け声をかけてみんなで笑っている場面が出てきたら、あれが「ラフターヨガ」です。
 うちの村でも老人クラブで「ラフターヨガ」をやってみようと、2年前に明石の植田弘一さん(おさるさん)にお願いしました。あのときは、20人が公民館に集まり、大いに笑いました。でもあとが続きません。「笑い」は続けなければ効き目がうすい。
 集まるたびに「おさるさん」に来てもらうわけにもいかないし、「この際ぼくらが講習を受けてインストラクターになり、ラフターヨガをリードできるようにしよう」と道子さんと相談して植田さんにお願いし、我が家で講習をしてもらうことになりました。この機会に受けてみようと思われたら、どなたでも歓迎いたします。


    日時:    2月22日 ~ 23日  9時30分 ~ 5時30分 (両日とも)
    場所:    我が家  (コメントに連絡先を入れてもらえば場所を案内します)
    講師:    植田 弘一 氏 
          ※ 講師のホームページ『おさるの健康の里』を見てもらえばどんな人かわかります。
    受講料:   3万円  
    服装:    動きやすい服装 / タオル / 筆記具 

 
            

「生活が苦しいから、いっそ戦争でも起きればいいと思う」……北朝鮮市民への直通電話より

2017-02-16 03:10:25 | 日記
 吉行和子さんの〈お母さん看取り記〉を2日間引用しましたが、実は一年前の雑誌を図書館で借りたのは「北朝鮮特集」の見出しが目についたからです。
 ぼくが79歳まで生きてきた過程で〈北朝鮮のイメージ〉は、さまざまに変化してきました。
〇 ぼくは幼い頃に一家で朝鮮に渡りました。あの戦争中、日本が朝鮮を併合して、日本語を強制し、日本から教師や巡査を派遣していた時代です。4、5歳の頃ですからほとんど記憶はありませんが、母の言うには「うちで一番朝鮮語が話せた」そうです。父の赴任した学校は38度線の北(今の北朝鮮)にありました。
 母が病気になり、昭和18年には父を残して〈母と子ら〉は日本に一時帰国しました。病気が治っても戦況がわるく、もう朝鮮に渡る船(民間人を運ぶ)はありませんでした。もし朝鮮に戻っていたら敗戦のとき日本には生還できませんでした。父は単身だったので、敗戦の8月15日以後山の中を30里以上隠れ歩いて、京城(ケイジョウ=いまのソウル)にたどり着き、命からがら日本に還ってきました。
〇 組合の役員をしていたとき、朝鮮総連に人に「地上の楽園」=「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)と聞き、平壌の少年芸術団の公演を見たりして、「社会主義の、労働者の恵まれた、いい国」だろう、と思っていました。組合は朝鮮総連とも交流があり、「地上の楽園」を礼賛する本もあって、読んでいました。
〇 1997年(退職した年)に『北朝鮮 …… 秘密集会の夜』という本を読んで衝撃を受けました。著者は関西大学教授の李英和氏。日本から北朝鮮の大学に留学した人です。(なんと彼は日本からの留学生第一号。それまで一人もいなかったとは驚きです)この本を読んで「北朝鮮はトンデモナイ国だったんだ」と初めて知りました。その頃から北朝鮮の実態を暴露する本が次々と出て、片っ端から読み、自分の無知を思い知りました。
〇 『北朝鮮 凍土の共和国』いう本には胸が痛みました。あの国の人たちは「いまも食うや食わずの生活」をしています。公開処刑(銃殺)を無理に見せられる。反省会で自分と他人の反省を無理にさせられる。密告を強要される。未来は暗く、明日を生きるあてもない。
〇 携帯電話を渡して、直接市民の声をきいたら(10人に)「生活が苦しいから、いっそ戦争でも起きればいい」と複数の人が話した。 …… 文藝春秋(2016年4月号)に載っていました。
〇 1989年12月、ルーマニアの独裁者チャウセスク(大統領)が国民によって処刑されたとき、北朝鮮では一切報道されませんでした。しかしそのニュースは北朝鮮の国中に口から口へと伝わり、3日でゆきわたったそうです。このたびの金正男毒殺もそんな伝わり方をするでしょう。
 
 うわさにおびえ、寒さに震え、飢え、暗いトンネルを歩くように、辛うじて生きているあの国の人たちが、腹いっぱい食べて、あったかい服を着て、やわらかい布団に寝て、心から笑える日が来ますように。

「人には死にどきというものがあって …… 」 吉行和子さんの〈看取り記〉より

2017-02-15 01:51:10 | 日記
 きのうにつづいて吉行和子さんの『母・吉行あぐりの看取り記』より引用します。役者として演技に生きる人ですから、体裁をつくろわず、高齢で亡くなった母をまっすぐ見つめて、自分の気持ちを語っています。コメントのしようはありません。ぼくは黙って読むだけです。


 亡くなる二日前まで、母は自分の部屋で元気にお箸を使ってご飯を食べていました。
 それは突然のことでした。
 ちょっと咳が出るので、お医者さんに来ていただいたところ、「肺炎だろうから明日レントゲンを撮りましょう」とおっしゃいました。
……  お医者様が帰ってから「明日また来るね」と、私も自分の部屋に戻りました。それから1、2時間経ったころでしょうか、お手伝いの女性が「あぐりさん、また来ますね」と声をかけたところ、母はすでに息を引き取っていたのです。よく眠るように亡くなるといわれますが、まさにその通りの最期でした。
 母の部屋に飛んでいくと、今までと同じような顔で母は寝ています。体を触るとまだ温かかった。もう少しいてあげたら、旅立つところを見送れたのかなと少し残念に思うところもあります。
 これは、私の勝手な思いですが、骨折した頃に母が亡くなって、寝たきりの日々がなかったらよかったのに、と考えないこともありません。
 日に日に弱りながら、それでもなかなか死ぬことがかなわない母をみるのが可哀想でなりませんでした。あれだけ活発に動き回った人が、寝たきりになってしまい自分のしたいこともできない。さぞ無念だったでしょう。親しい友人には「一体いつ死ねるのかしら」「私、何かよっぽど悪いことをしたのかしら。こんなに長く生かされて」と愚痴をこぼしていたそうです。
 人には死にどきというものがあって、それを逃してしまうと死ぬのは難しい。少しでも長生きしてほしいけれど、生きることは簡単ではないのです。
 現代は医学も発達していますし、食べ物もいいですから、百歳を超えて生きることはそう難しくないでしょう。だからこそ死にどきとは何かを改めて考えさせられました。  ……
 私自身は長く生きることの良さと恐ろしさの両方を目の当たりにし過ぎてしまいました。自分の死に際についてもずいぶんと考えてしまいます。もう少し元気でいて、あるときスッと終われるのが理想ではありますが、果たしてどうなるのかは今は想像もできません。  ……
 

『吉行あぐり107歳の看取り記』(吉行和子・文)を読みました。

2017-02-14 03:03:31 | 日記
 東条の図書館で古い『文藝春秋』(2016年4月号)を借りて読んでいたら、吉行和子の文が載っていました。朝の連ドラ『あぐり』で有名になった〈彼女の母=吉行あぐり〉の看取り記です。読んでいると彼女(和子のほう)の気持ちがスーッと入ってきて「身につまされる」感じになります。引用してみます。  ※ 吉行和子は1935年生れ(ぼくより2歳年上)/あぐりは2015年1月107歳で死去。

 
 母が亡くなって、いつの間にか1年の月日が過ぎてしまいました。生きている頃は一日に何度か、同じマンションにある部屋を訪ね、様子をみることが私の生活の一部でした。100歳目前までは元気そのもの。こうやって年を取るのは素晴らしいことだな、と感じていました。
 しかし、寝たきりになってからは、不満一つ表に出さず我慢をしながら生きていました。それを見ているのはとても辛く、私にとって修行のような時間でした。母にしても、寝たきり状態で人に迷惑をかけながら生きていたくない、早く終わりいと思っていたはずです。昨年の1月5日に亡くなったとき、悲しさよりも何よりも「終わってよかったね」と、母に声をかけてあげたい気持ちになりました。

 吉行家は普通の人から見ると、おかしな家族だったと思います。私がもの心付く頃には、母は美容室で働いていましたから、世話をしてもらった記憶はほとんどありません。家庭のことはお手伝いさん任せで、みなさんが知ってるような温もりを知らなかったのです。その影響なのでしょうか。長じてから母と接するのに緊張してしまい、他人様の方が親しみを感じたくらいです。

※ 吉行あぐり 90歳のとき、 再婚相手が亡くなり、NHK朝の連ドラ『あぐり』が放映される。第二の人生がはじまり、吉行和子と外国旅行をするようになる。95歳からは国内旅行に。98歳で股関節骨折/手術/また転ぶ/入退院を繰り返し、100歳から寝たきりに。

 寝たきりになってから、お医者さまからは「施設はいくらでもありますから、このまま自宅には戻らずに入ってもらってはどうですか」と勧めていただきました。ところが、本人にはその気がありません。退院が近づくと「早く家へ帰りたい」ときっぱり。こうなると、私はなかなか施設のことを言い出せません。正直に言えば、2,3年頑張れば気分よく旅立ってくれるだろう、ぐらいの気持ちで一緒に家に帰ることにしたのです。それから自宅介護が始まりました。仕事を抱えながらの介護は、私の想像を越えるものでした。
 施設に入ってもらえば、負担は軽減されたと後悔したこともあります。そう思う度に、そろそろその時が来るだろうし、「あと少しだけだから」と思っていましたが気が付くと7年が経っていたのです。
 自宅では24時間体制で、2,3人のヘルパーさんに入ってもらいました。しかしさすがは我が母。一筋縄ではいきません。 …… 老いたといってもいかにも老人や病人といった扱いを嫌がっていました。
 ヘルパーさんのお世話になると、大きな問題は介護費用です。この頃の私の仕事のモチベーションは母の介護費用を稼がなければいけない、というものでした。

 へんな話ですが、妹(吉行理恵 …… 芥川賞作家で詩人 2006年没)が亡くなった時も母が亡くなった時も悲しくて仕方ありませんでしたが、私は泣きませんでした。 …… 母の時は、ホッとして「ああ、いなくなっちゃった。長い間ご苦労様でした」という気持ちが強かった。泣くという感情とは違いました。




冬は『ドボジョ』が活躍します。

2017-02-13 03:27:05 | 日記
 道子さんは〈野菜づくり〉で年中忙しいのですが、冬は少し手が空きます。そんなときは彼女の「ドボジョ面目躍如」です。
 裏の小屋は庭より少し低くて、雨水が流れ込んでいました。板で仕切ったり溝を掘ったりしてもうまく防げませんでした。そこで道子さんはホーム・センターでU字溝製品を見つけて、溝をつけることにしました。
 ツルハシで溝を掘り、バラスを敷き、セメントを流して底を固め、U字溝を設置したのです。畑との段差は板で調節し、通路は石で段をつけ、土の部分にはリュウノヒゲを植えて体裁よくして、この工事はほぼ完了しました。

 道子さんは土木仕事が好きです。裏山で、土にツルハシを打ち込んで竹の根を掘るのも好きで「大地の癌の手術をした気分」と掘り出した竹の根をかざします。彼女も後期高齢者になりましたが、そんなことではひるみません。今年も裏山で活躍するでしょう。
 農道を軽トラで走っていても、手頃な大きさの石が転がっていると「ちょっと待って!」と石を拾ってきます。裏山の花壇は集めた石で仕切っていましたが、いまは「芝生を増やして石は斜面に積む」ことを考えているようです。
 ところで〈『ドボジョ』という呼称は色気がないので『建設小町』と呼んでほしい〉という声が一時あがったようですが、ぼくはドボジョのほうが好きですね。力強い響きで、たくましい感じがいい。