新聞記者になりたい人のための入門講座

新聞記者は、読者に何を伝えようとするのか。地球の危機や、庶民の喜怒哀楽かもしれません。新聞記者のABCを考えましょう。

新聞への思い 5(上)

2012年01月16日 | ジャーナリズム

 2012年正月、届いた年賀状を見ていて、知人の朝日新聞記者から「私も今年、定年です」とあるのに目が止まった。私はその朝日記者との出会いを思い出し、感極まってしまった。

 それは私が茨城県水戸支局から東京本社社会部に異動し、警視庁第四方面記者クラブ(新宿警察署)常駐のサツ回り記者をしていたときだった。今からちょうど40年前(1972)のことだ。高校時代に知り合った彼女(今のかみさん)と11月7日、母校の早稲田大・大隈会館で結婚式をあげてホテルに1泊後、2泊3日の予定で信州・木曽路への新婚旅行に出かけた。同年8月に本社に転勤し、社会部の登竜門ともいえるサツ回り記者として事件・事故、街の話題などで飛び回る毎日だったので、新婚旅行の最中は「ゆっくりできる」と気楽に構えていた。

 ところが温泉に1泊後、部屋で朝のテレビニュースを見ていると、早稲田大文学部の学生が内ゲバで殺され、東大構内で発見されたというではないか(川口大三郎事件)。この学生は学内を支配するセクトから対立するセクトに所属すると誤認され、激しいリンチを受けて死亡したらしかった。このため早大は騒然とし、学生たちの間でただならない空気が流れていることを知った。早大は私の母校であり、2日前には時計台のある大隈講堂わきの大隈会館で結婚式をあげたばかりだった。しかも…この「しかも」が決定的だった。

 私は4方面担当のサツ回り記者であり、当然のことながら早大も守備範囲に入っていた。ワセダの学生が内ゲバで殺されたのなら、なおさら先頭に立って取材しなければならなかった。多くの大学で学生運動が極度に高まり、その現場を受け持つ社会部もひどく緊張していた。私は当然のように社会部に電話し、指示を仰いだ。電話に出たデスクは「いいよ。新婚旅行を続けろよ」と言った。しかし、私はいても立ってもいられなかった。女房に有無を言わさず新婚旅行を切り上げ、国鉄中央線(当時)の新宿駅に着くと女房と別れ、すぐに早大の取材現場に駆け付けた。新居に落ち着く間もなく、結婚早々から激しい取材が始まり、記者クラブや本社に止まり込むのは当たり前、帰宅できても午前様の日々が始まった。

 早大のキャンパスでは、内ゲバをなくそうとする動きが高まりつつあった。事件を引き起こしたセクトは、対立するセクトの策謀と反撃したが、取材する側の目から見ると、一般学生による内ゲバ追放運動が大きなうねりになっているのは明らかだった。そのような学生の中に、被害者とクラスメイトのリーダーがいた。小柄だがひげを生やし、仲間内ではひげの○×君と呼ばれていた。後に朝日新聞記者となる「ひげのH君」との出会いは、私にとって一生のものとなった。(続く。写真:ポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡には、ナチス・ドイツがユダヤ人の遺体を焼いた焼却炉が残っていた))

 



最新の画像もっと見る