連合赤軍リンチ
いち早く「殺害12人」一覧表を掲載
日航機ハイジャック事件の後も、赤軍派は「M作戦」(資金調達)で金融機関を襲い、京浜安保共闘は猟銃を強奪するなど、危険な作戦を展開していた。武力革命を狙う両過激派は1972(昭和47)年春、「連合赤軍」として暴発、日本中を震撼させる。
2月19日、長野県・軽井沢の「浅間山荘」に連合赤軍の5人がたてこもり、管理人の妻を人質にとった。男らは接近した民間人を射殺するなど、記者も命がけだった。2月28日、激しい銃撃戦の末、警官隊は人質を救出、全員を逮捕したが、警官2人が射殺され、26人が重軽傷を負った。これが惨劇の序章とは、誰も考えもしなかった。
2月16日、群馬県警は妙義山中で連合赤軍のメンバーを発見、翌17日までに森恒夫、永田洋子両最高幹部らを逮捕していた。群馬県内のアジトから発見された遺留品や逮捕者の自供から、連合赤軍内部の凄惨なリンチ殺人が明らかになる。3月7日、最初の遺体が発見され、事件は陰惨な様相を見せ始めた。
当時、「内ゲバ殺人」といえば、対立する過激派間で起きていて、内部の同志を殺す行為は、想像できなかった。革命を志す若者が仲間を虐殺するなど、信じたくもなかった。だが、何人殺されたのかが焦点となった。
長野支局も、事件の解明に総力を挙げていた。県警担当記者が殺されたのは10人前後と聞き込み、県警幹部に確認すると「君のクビをかけてもいいよ」と暗に事実を認めた。だが、どうしても信じられず、10日付朝刊最終版、1面トップは「新たに5人殺害」を主見出しに、前文で「最悪の場合、10人前後をリンチしていた疑いも強まり…」の表現にとどまった。ライバル各紙は、「さらに3人?」「女2人男4人を虐殺」「さらに3人を自供」とバラバラだったが、一紙は「男6人女2人を殺害 さらに増える公算」と、毎日新聞と同様、大量殺人を強く暗示していた。
10日には、群馬県・迦葉山で、妊婦を含め3人の無残な遺体が見つかった。このころ、長野支局は計12人の遺体が群馬県内に埋められていることを突きとめ、9人の名前は自分たちで割り出した。長野県警担当だった中島健一郎記者(元毎日新聞常務)の回想によると、記者が残り3人の名前を聞き出そうと親しい県警幹部のところへ行くと、その幹部は黙って1枚の紙切れを机の上に置き、部屋を出て行った。紙には支局員が割り出した9人を含め、12人全員の名前が書かれていた。
10日の毎日新聞夕刊最終版の1面には、「12人」の大きな活字と、全員の名前が1人も間違いなく一覧表で掲載された。他紙はこの段階でも「10余人」「13人」「12人?」などさまざまな数字を掲げていた。被害者の一覧表はどこにもなく、毎日新聞だけが正確に報道していた。(2007年11月号から。写真:大量殺人を報じる毎日新聞の紙面)