牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

4月7日(日) 「栄えに満ちた喜び⑤」 D・M・ロイドジョンズ著

2013-04-07 08:20:27 | 日記

 本からの引用。「私たちはこれまで、聖霊のバプテスマの偉大な目的とは、主イエス・キリストを通して神が与えてくださった素晴らしい救いの証しを私たちに可能にさせ、私たちをその証人にさせることであるという事実に焦点を当ててきた。すでに述べてきたように、私の大きな関心は、私たちは聖霊のバプテスマのこの教えの本質を理解するべきであるということだ。」

 著者はこのようにまとめた後、聖霊のバプテスマと聖化の関係について説明を始める。本からの引用。「聖霊のバプテスマと聖化とはどういう関係にあるのだろうか。私の第一の答えは、そこには直接的な関係はない、である。つまり聖霊のバプテスマの第一の目的と目当ては、聖化ではなく、前述したように力に関わるものであり、証人となる力、および証言の力なのである。」

 「聖霊のバプテスマについて、あなたは何もできない。それは「与えられる」ものであり、御霊の働きであり、活動である。それは完全に神のものである。それは私たちに起こることである。しかし、聖化の領域においては、それはいつも奨励のことばであり、すでに学んだことを適用するための私たちへの訴えなのである。、、、、どの人も神の御霊を内に持たない限り、自分を聖めることはできない。しかし、人が新生したと同時に、御霊は内住し、聖化の御業はすでに始まっているのである。クリスチャンで、それも立派なクリスチャンで、「主を知り、その恵みによって成長」し、聖化の面で進んでいても、いまだに聖霊のバプテスマを知らない場合もある。これは与えられるものであり、とてつもない体験である。そして別個のものである。一方で聖化は、連続的、継続的な過程である。これらの理由により、聖化と聖霊のバプテスマを同一視することは間違いであり、そこには直接的な関連性がないことを教えなければならない、と私は主張しているわけである。」


 続いて本からの引用。「私たちは、聖霊のバプテスマが必然的に聖化を保証する、と言うべきではない。しかし私はなおも、この両者の間には間接的な関連性があると言おう。それは何であろうか。このように言いたい。聖霊のバプテスマは、聖化への存在し得る最高の励ましであると。、、、、このように想像して欲しい。春である。人々が庭を掘り、種を蒔いていたとする。庭師は自分の仕事を終えていた。土を掘り起こし、砕き、種を蒔き、土をならした。さて、種にはいのちがあるが、天候の悪い春で寒く、日差しに恵まれず、雨が降らないかもしれない。数週間が過ぎ、哀れな庭師が庭を調べに行くと何もなかった。蒔いた種は本当に良い種だったのかどうかと、不安になり始める。何かが悪いので何も起こらない。庭師は少し落胆する。しかし長らくして、ついに種が発芽して土の上に現れ、一面が緑の絨毯になるのを見る。それから何日もそのままである。何も起こるように見えない。再び彼は絶望的になる。しばらくそのような状態が続く。しかし突然、素晴らしい天気になり、雨も降り、すべてが急に成長するのを見る。私には、これが聖霊のバプテスマと聖化の関係であるように思える。いのちはいつもずっとあり続けた。人はそれを見ることができなかったが、種の中にはいのちがあった。それは必ず芽を出すものである。しかし、その成長はとても遅く、かろうじて確認できるほどで、ほとんど気がつかないようなペースで進む。しかし太陽が照り、雨が降ると、すべてが刺激され、芽や葉を出す。そして、その成長を目で見ることができる。、、、、、言い換えれば、人が新生し、この聖い種、または聖い成分がその人の内に入った途端、わずかな成長速度ではあるが、いのちは始まっている。しかし、そのような人が、聖霊のバプテスマを受けると、聖霊の雨と日差しが降り注ぎ、神の愛がその心に注がれ溢れ出ると、活力と行動の人生が芽生えるのを見ることができるだろう。彼の聖化、彼の活力、行動のすべては、非常に驚くべきかたちで刺激を受ける。しかしそれは、間接的な関係であって、直接的ではなく、同じものでもない。」

 上述の著者の説明に私は賛成である。分かりやすい。その通りであると思う。すなわち聖霊のバプテスマ(聖霊の賜物)は力に属するものであり、特に宣教の働きのためのものである。もう一方は聖化(御霊の実)であり、これは品性に属するものであり、クリスチャン生活や人生に関するものである。両方が大切であり、バランスが必要である。プロテスタント教会の聖霊派サイドはどちらかと言えば聖霊のバプテスマを強調する傾向にあり、福音派サイドは聖化を強調する傾向にある。どちらか一方を強調するのは良いと思うが、もう一方を軽視すると聖書から逸れていく危険性がある。キリスト教の本質は愛と力にあると私は思う。すなわち十字架に現された神の愛と復活と聖霊降臨に現された神の力である。どちらか一方が欠けてしまっても不十分である。力(聖霊のバプテスマ)と愛(聖化)の両方が必要である。聖霊のバプテスマによって力強く宣教の働きをし、また継続的に聖化され続けることによって品性が備わってキリストの似姿に少しでも近づくことができたらどんなに素晴らしいことだろうか。