牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

4月8日(月) 「栄えに満ちた喜び⑥」 D・M・ロイドジョンズ著

2013-04-08 10:59:16 | 日記

 本からの引用。「今日最大の緊急課題と私が思うのは、証しの力の必要性、私たちの人生におけるこの力の必要性である。聖霊のバプテスマの結果、初代教会はこの世をひっくり返したのだ。それなしでは私たちは単なる役立たずである。だから教会全体にとっても、個々のクリスチャンにとっても、聖霊のバプテスマは重要なのである。」

 「南アフリカのアンドリュー・マーレーの伝記にも、この素晴らしい描写がある。彼は牧会していた教会で祈祷会の司会をしていた。突然、雷鳴のような音を聞いた。それは使徒の働き2章の記述にあるペンテコステの日のエルサレムで起こったことに似たものだった。突然、御霊が彼らに下り、リバイバルが起こった。そして多くの回心者を教会内外で生み出した。これが20世紀に至るまでの、何世紀にもわたる教会の歴史であり、証しであった。私はあなたの前に、ただ歴史的事実を述べているだけである。」

 「聖霊のバプテスマとは、主イエス・キリストによるバプテスマである。、、、、聖霊のバプテスマは、主イエスの特権においてなされるものであり、主イエス・キリストによって授けられるバプテスマである。それは何よりもまず、聖霊ご自身の働きではなく、主イエスが我々に聖霊を注ぎ、あふれ出させ、この特別な方法で、聖霊を臨ませる行為なのである。私たちは、聖霊のバプテスマは主イエスの贈り物であるという認識から始めなければならない。私たちは「要求する」とか、「取る」ことについて話すべきではない。主は与え、私たちは受けるのである。」

 「この世のクリスチャンに可能とされる体験で、聖霊のバプテスマ以上のものはないことを私は示してきた。これを超えるものがたった一つある。それは栄光そのものである。ペテロがペテロの手紙第一1章8節で言うように、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」 これは永遠の栄光の感触である。聖霊のバプテスマ以上に、人をこれに近づけるものはない。これは、その体験をしたすべての人々の普遍的な証言である。御霊は体験を与え、力を与え、賜物を与えてくださる。しかし私が言おうとしていることは、御霊が与えてくださる賜物を第一に捜し求めるべきではない、ということである。では、何を捜し求めるべきなのか。私たちは、いつも主イエス・キリストご自身を捜し求めるべきである。主イエスを知り、主イエスの愛を知り、主イエスの証人となり、主イエスの栄光に仕えるためにである。」

 「あなたは神の愛を信じることができる。しかし、その満ち満ちた豊かさを感じるのは、聖霊のバプテスマを受けた時だけである。そして、それに引き続いて、あなたの内側からあなたの神への愛が湧き上がるようになるのである。これが新約聖書のキリスト教である! 新約聖書のキリスト教は、単に形式的で、上品で、礼儀正しい正統派信仰のようなものではない。そうではない。その特徴は、この愛と情熱という要素、この霊的な要素、このいのち、この力、この明け渡し、このほとばしりである。そしてこれが、かつてのリバイバルや覚醒の時代の教会生活を特徴づけてきた、と私は言おう。これが、私たちが捜し求めなければならないものである。」

 印象に残った箇所を引用した。私(たち)は今の状況に絶望し、聖霊のバプテスマを主イエス・キリストご自身を知ることを求めなければならない。今の状態に絶望すれば絶望するほど、聖霊のバプテスマを求めることになるだろう。今の状態に満足している人は聖霊のバプテスマを求めることはなく、神の栄光を見ることはできないだろう。そして以前と変わらずに形式的で上品な教会生活を送ることになるだろう。プログラムをこなすことしかしないので(決まりきったことしかしないので)、礼拝において混乱したことが何も起こらず、ある意味安全と言えるだろう。しかし、予期しないことは何も起こらない。起こったとしてもすべて想定内である。個人的にそのような聖霊の働きが何も起こらない礼拝や教会生活はつまらないと思う。せっかくイエス・キリストを信じたのだから、主イエス・キリストが与えてくださる最高のもの(聖霊のバプテスマと聖霊の油注ぎ、ペンテコステとリバイバル)を受け取りたいと私は願っている。