goo blog サービス終了のお知らせ 

ROCK STAR

有名人を紹介します

遠藤賢司

2007年03月19日 | Weblog
遠藤賢司(KENJI ENDOU 1947年1月13日 - )

愛称は「エンケン」。

純音楽」をキーワードに、精力的に活動中。代表曲に、「外は雨だよ」「夜汽車のブルース」「満足できるかな」「カレーライス」「歓喜の歌」「踊ろよベイビー」「東京ワッショイ」「不滅の男」「輪島の瞳」「夢よ叫べ」などがある。

好きな食べ物はカレーライス。大の猫好きで知られ、歌詞中に猫の登場する楽曲も数多い。多彩な趣味を持ち、文学、映画、プロレス、サッカー、お笑いなどにも造詣が深い。

浦沢直樹の漫画『20世紀少年』の主人公「ケンヂ」のモデルは遠藤賢司であるとされている。

ズボニール・ボバン

2006年10月22日 | Weblog
ズボニミール・ボバン(Zvonimir Boban、1968年10月8日 - )

ユーゴスラビアの名門クラブ・ディナモ・ザグレブでプロデビューし、18歳にしてキャプテンを務める。1990年5月13日、クロアチアとセルビアの対立を背景にしたディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラードの試合で、セルビア側の警官隊に飛び蹴りを食らわし大乱闘を起こす。9ヶ月間の出場停止処分を受け、イタリアW杯を棒に振る。1991年、謹慎が解けるとセリエA・ACミランへ入団。1年間バーリへレンタル移籍した後、ACミランの主力選手として活躍し、冷静な戦術眼でチームを牽引した。旧ユーゴ代表では7試合に出場1得点。89年に行われた親善試合のブラジル戦では後半から途中出場して ストイコビッチ、サビチェビッチ、プロシネツキと夢の中盤を組み一緒にプレー。 ちなみに当時の旧ユーゴを代表するこの4人のトップテクニシャンが一堂に会したのはこの試合だけである。

ユーゴスラビアが解体し、クロアチア代表として臨んだEURO1996では褒賞金を孤児の教育費や戦火で荒廃した故郷の復興費にあてた。またワールドカップ初出場となった1998年のフランスW杯では日本と同じH組に入り、ベスト3入りに貢献した。

2001年、リーガ・エスパニョーラのセルタに移籍したがシーズン終了を待たずして現役を引退。2002年10月7日には引退試合が開かれ、多くのクロアチア国民が別れを惜しんだ。



ロイキーン

2006年06月17日 | Weblog
ロイキーン(Roy Keane、1971年8月10日生まれ)

アイルランドのサッカー選手。ポジションは守備的ミッドフィルダー。

名門マンチェスター・ユナイテッドの主将をつとめ、象徴だった。プレミアリーグ史上最高のキャプテンともいわれている。少年時代はアマチュアボクサーだった。1999年-2000年シーズンにイングランドの年間最優秀選手に選ばれている。1998年-1999年の三冠に大きく貢献した。「闘将」の言葉がもっとも似合う人物である。

しかし、激しすぎる闘争心は、しばしば周囲との衝突にも発展してしまうことがある。2002年のFIFAワールドカップでは、直前にサイパン島で行われた合宿中に、彼が行ったアイルランド・サッカー協会批判(サイパン島のグラウンドは非常にコンディションが悪く、練習中に怪我人を出してしまった)がマスメディアにセンセーショナルに掲載されたり、練習方法を巡ってコーチのパッキー・ボナーと対立したりした結果、兼ねてから折り合いが悪かった監督のミック・マッカーシーとの不仲が決定的となり、ワールドカップに参加しないまま帰国を命じられた。

キーンは後にブライアン・ケアー監督の指揮下のアイルランド代表に復帰し、2006年FIFAワールドカップドイツ大会の欧州予選ではチームの中心となって活躍したが、アイルランド代表の予選落ちが決定すると再び代表から退いた。

一方、クラブにおいては故障と戦いながらも主将として絶大な存在感を発揮し、2002-2003シーズンのプレミアシップ獲得、2003-2004シーズンのFAカップ優勝にも貢献したが、クラブがライバルであるアーセナルやチェルシーの後塵を拝することが多くなると、次第に若手選手の闘争心の欠如を批判する機会が増えていった。

このような流れの中、2005年11月18日、「MUTV」においてリオ・ファーディナンドを批判したとされる事件(結果的には放送されなかった)と、自身の故障がきっかけとなり、突如マンチェスター・ユナイテッドとの契約を解除。

2005年12月16日、スコティッシュ・プレミアリーグの名門で、アイルランド人のサポーターが極めて多いことで知られるグラスゴー・セルティックに入団した。この移籍劇の背景には、かねてから現役生活の最後はセルティックで終わりたいと発言してきたキーンの、セルティックへの思いもあったと推測される。

キーンのセルティックでのデビュー戦では、スタンドに巨大なアイルランド国旗が人文字で描かれ、キーンの絶大な人気をあらためて実感させた。

キーンは2006年3月、現役引退を示唆したが、ストラカン監督や主将のニール・レノンはキーンの慰留に動いているという。2006年5月9日にはオールド・トラッフォードでセルティックとマンチェスター・ユナイテッドによるテスティモニアル・マッチが開催され、前半はセルティック、後半はマンチェスター・ユナイテッドの選手として出場した。この試合は2万人以上のセルティック・サポーターを含む7万人弱の入場者を集め、200万ポンド以上の収益を出した。キーンはその大部分を慈善団体に寄付する意向を示した。

最近、正式に引退を表明した。

カートコバーン

2006年05月13日 | Weblog
カートコバーン
(Kurt Donald Cobain, 1967年2月20日 - 1994年4月5日)

伝説的グランジ/オルタナテティブバンド、ニルヴァーナ (Nirvana) でボーカルとリードギターを担当し、グランジの金字塔的アルバム『ネヴァーマインド-Nevermind』の成功で一躍ロック・スターの仲間入りを果たすものの、自身の本来の姿とロック・スター的イメージとのギャップに葛藤、ドラッグと精神病に悩まされた上、1994年自宅にてショットガンで頭を撃ち抜いて自殺する。享年27。

1975年に夫妻が離婚するまで幸せな少年時代を送る。両親の離婚は少年時代のカートに大きな衝撃を与え、音楽と美術を愛好する、引きこもりがちな少年となる。その後、メルヴィンズ-The Melvinsに衝撃を受け、パンク・ロックに興味を抱き、音楽を始める。最初のギターは14歳の時に叔父から貰ったもので、当初はレッド・ツェッペリンやAC/DCなどを演奏するハード・ロックバンドを組んでいたが、クリス・ノヴォセリック-Krist Novoselicとの出会いを契機にパンク・ロック寄りへと大きく舵を切る。これが後に伝説となるバンド、ニルヴァーナ-Nirvanaの誕生であった。

当初クリスはカートとバンドを組むことを渋ったが、カートの前バンドFecal Matterのデモ・テープを聴き、バンドを組むことを了承し、新バンド名は「ニルヴァーナ-Nirvana」(=涅槃)と決まった。ドラムにチャド・チャニング-Chad Channingを迎えて1989年、インディーズ1stアルバム『ブリーチ』がレコーディングされたが、カートはチャドのドラミングを気に入らず彼を解雇する。その後幾つかの変遷を経て、デイブ・グロール-Dave Grohlをドラマーに迎え、1991年にメジャー1stアルバム『ネヴァーマインド-Nevermind』が録音された

1stアルバムは大成功を収めたが、カートは『ネヴァーマインド』の成功に葛藤を感じていた。もともとアンダーグラウンドなシーンをルーツとするカートは、この大成功によって自身の信念を結果的に裏切ってしまったように感じていたし、メディアの伝える彼の姿と自分の本来の姿との乖離に大きな戸惑いを感じてもいた。また、カート自身『ネヴァー・マインド』製作の際、ある程度メジャー市場を意識して曲作りを行ったため、自分自身にも強い憤りを感じていた。そのため、アルバム『イン・ユーテロ』は前作のメジャー志向からアンダーグラウンド志向へと回帰したものとなったが、賛否両論のアルバムとなる。その後も自身のイメージや思い通りに曲が作れない苛立ち、また、少年時代からのうつ病、更にはドラッグ依存症と悪戦苦闘。1994年、自ら命を絶った。享年27であった。

アルバム『ネヴァーマインド』(1991)の成功後も音楽業界の商業主義やマスメディアの誇張報道などに反発し、社会に求められた偶像としてではなく、ありのままの自分を常に表現するスタンスを保ち続けた姿勢は、「グランジの精神」として後進に強い影響を与えた。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット (Smells Like Teen Spirit, 1991)」の爆発的ヒットによりバンドは一気に有名になり、1990年代以降のロックに絶大な影響を与え、しばしばオルタナティブ・ミュージックシーンにおいて『ニルヴァーナ以降』という言い方をされる。グランジのパイオニアとも言えるが、自身は双極性障害と薬物により苦しむ。また、ファッションでも後進に大きな影響を与えており、カートの死んだ後、彼が穿いていたボロボロになったジーンズに古着のネルシャツなどはグランジ(薄汚れた)と呼ばれる新しいファッションの定義として生まれた。彼の着ていた「グランジ イズ デッド」と書かれたTシャツは、彼が着ていたということで有名になる。


ジミヘンドリクス(James Marshall "Jimi" Hendrix)

2006年04月11日 | Weblog
ジミ・ヘンドリクス
(James Marshall "Jimi" Hendrix, 1942年11月27日 - 1970年9月18日)
アメリカワシントン州シアトル出身のギタリスト。通称「ジミヘン」。死後30年以上経った現在でも、「天才ギタリスト」としてギタリストはもちろんの事、多くのミュージシャンに大きな影響を与え続けている。ギターを歯で弾いたり、ギター自体に火を放ったり、破壊したりするパフォーマンスはあまりにも有名。

少年期はアマチュア・バンドで経験を積むが、17歳のときに陸軍に志願して入隊、精鋭部隊・第101空挺師団へと配属される。1962年7月、降下訓練中の骨折により負傷除隊(最終階級は三等軍曹)(2005年にアメリカ国内で公表された軍内部の記録によると、自慰行為と薬物、ギターにしか興味を示さない隊内部の劣等兵で、常に隊の規律を乱して問題視されていたが、ある日トイレの個室で自慰行為をしていた所を上官に目撃され、それが最後の一押しとなって除隊させられたという話である)。1966年7月、アニマルズのチャス・チャンドラーに見いだされ9月に渡英する。

ロンドンに於いてオーディションを行い、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)と共にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成。10月から活動を始める。エクスペリエンスとしての活動は1969年6月までである。ノエルが脱退し、ジミはミッチと、軍隊時代からの友人ビリー・コックスと共にジプシー・サンズ&レインボウズとして活動を開始、ウッドストック・フェスティバルに出演しトリを務め、音楽史に残る名演「The Star-Spangled Banner」(星条旗)を演奏する。(これは、当時ベトナム戦争が泥沼化してゆくアメリカ合衆国への痛烈な批判であった。)その後、バンドは長続きせず、10月にはビリー・コックス(ベース)、バディ・マイルス(ドラムス)というメンバーでバンド・オブ・ジプシーズを結成する。

数々のヒット曲を持つジミヘンだが、ビルボード最高位は20位止まりである(ホット100)。

重度の薬物依存者でもあったが、1970年9月18日、薬物の過剰摂取により他界した(正確には飲酒後に睡眠薬を服用し睡眠中、嘔吐物を喉に詰まらせ窒息した)。

一般的に、ギタリストとして語られることが多いが、常に新しいサウンドを模索しており、ギターに執着しているわけではなかった。 そこが、3大ギタリスト(ヤードバーズのギタリスト。エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ)達との違いだろう。
お勧めの曲は、Little Wingですね。

Little Wing

Well, she's walkin' through the clouds
With a circus mind, that's running wild.
Butterflies and zebras and moonbeams, and uh fairy tales.
That's all she ever thinks about.
Riding with the wind.
When I'm said, she comes to me
With a thousand smiles, she gives to me free
It's alright she says. It's alright
Take anything you want from me, anything. Anything

Fly on, Little Wing
Yeah yeah yeah