アリゴサッキ
プロ経験の無い、元イタリア代表監督。
幼少期のサッキはイタリア人の多くがそうであるようにサッカーが大変好きだった。しかし彼が成長し、一人の自立した大人になってもジョカトーレになることはなかった。彼に選手としての才能があったかどうかすら問題ではなく、靴の製造会社を経営する父親がサッキの意思を頑なに拒否し続け、それが彼のプロ選手への道を閉ざしてしまった。結局、その父親の会社でセールスマンとして働きながらアマチュア5部ディレッタンティでプレーしたのが、彼の選手としてのキャリア全てである。
就職したことで彼のサッカーへの道は完全に閉ざされたかに思えたが、そのことがサッキのサッカーへの情熱を薄れさせるようなことはなかった。たゆまぬ努力により独学でサッカー理論を身につけると少年チームをコーチしながらコヴァルチャーノの監督コースを終了、 1977年で33歳で現在イタリアセリエC1のチェゼーナのユース監督に就任する。
彼の人生の大きな転機が訪れたのは、当時はまだ弱小チームであったセリエC1のパルマの監督に就任したときからである。就任1年目でパルマをいきなりセリエBに昇格されると、2年目から参加したコパ・イタリアで低迷の続いていたあの名門ACミランを2度も破って見せる。
「不調の強豪が格下相手にカップ戦で敗れる」このこと自体はサッカーでは別段珍しくもないことだ。しかしこの出来事に誰よりも強く衝撃を受けたのは、チーム強化を模索する後のイタリア首相、ミランのベルルスコーニ会長であった。サッキ監督率いるパルマが繰り広げる華麗でスペクタクルなサッカーに魅せられた彼は、どこの馬の骨とも知らない人物をいきなりミランのトップチームの監督に就任させるという大英断をすることになる。当然、マスコミからはサッキの監督経験の不足を指摘する声が上がり、シーズンの開幕前からベルルスコーニに批判が集中することになる。しかしサッキ率いる新生ミランは強豪相手に連勝したのを境に、彼の持ちこんだ現代的な戦術理論(ゾーンプレス)と選手の持つ潜在能力がマッチしだしチーム力が一気に開花していく。サッキは就任1年目のシーズンをわずか2敗、43得点14失点というこれ以上無い圧倒的な成績で終え、見事にスクデットを獲得したのだった。
87-88シーズンに圧倒的な力で優勝を飾ったサッキミランは、翌年から数年間にわたり欧州中のタイトルを総なめにすることになる。サッキミランが革新的なチームと言われる理由には、彼の持ち込んだ現代的なサッカーと欧州での国際的な活躍によるところが大きい。なぜならサッキ体制化でミランがスクデットを獲得することは無かったからだ。何故圧倒的な強さを持ちながらも国内タイトルを獲得することが出来なかったのか?理由はいくつかある。
まず、欧州でミランが勝ち上がれば勝ち上がるほど、ミランが日程との戦いを強いられることになったこと。二つ目は、まだ現代のようなターンオーバー制度が考案されていなかったことによりチーム力が安定しなかったこと。三つ目は、サッキミランのサッカーに対して国内のクラブは早々に対策を打ってきており、簡単に勝つことが難しくなっていた点などが挙げらる。
結局、国内での成績に恵まれることになかったことが、サッキのミランでのキャリアに暗い影を落とすことになる。何年か優勝の機会を逃したことで選手・ファン・マスコミなどの強烈なプレッシャーを受け続けたサッキは91年にミランを去る。低迷していたミランを見事復活に導いたサッキだったが、ここまでならば彼がこれほど有名になることもなかったかもしれない。皮肉なことだがサッキがミランを去った後、後任のカペッロ新監督はその戦術を糧として90年代のミランの黄金期を築き上げていったのだった。
追われるようにミランを去ったサッキに用意されていたのは、イタリア代表監督の椅子だった。そして迎えた94年のワールドカップアメリカ大会、イタリアはマイアミの猛烈な暑さのために怪我人を多数出しながらもサッキの采配がことごとく決まり、何とか決勝にまでチームを導く。しかし、メディア全盛時代のもたらした弊害でもある昼間・炎天下での連戦により、イタリアはもとより対戦相手のブラジルも満身創痍の状態で、試合の面白みはすっかりそぎ落とされてしまう。結局イタリアは0-0のPK戦に破れ、準優勝で大会を終える。
その後サッキはヨーロッパ選手権予選の敗退を理由に96年に退任すると、一度、ミランをシーズン途中ながらも指揮するが、チームがすぐにまとまるはずもなくよい成績は残せなかった。その後はスペインのA・マドリードを率いたがやはりここでも戦術がフィットせずその職を追われることになる。解説者やコーチ業を兼任するかたわら、現在はパルマのテクニカルディレクターとしてサッカーと関わっているが、しかし周囲の目がいつまでも「サッキついに復活か?」であることに変わりは無いのだろう。
サッキが用いた戦術は当時としては非常に特徴的かつ革新的なものであった。それまでのカルチョはカウンターを主体としたイタリア伝統の古い守りのサッカーが主体であったのに対し、サッキは彼独自のアプローチから非常に現代的で攻撃的なサッカーを築き上げた。
サッキの戦術を読み取るキーワードは
「プレッシング」
「4-4-2(4-2-4)」
「高いライン(オフサイドトラップ)」
の3つと言える。
戦術家としての側面が強い監督としてのサッキは、1970年代前半から出現したオランダのトータルフットボールの理論を研究し、それを現代でいかにして実践するかを考えていた。サッキが最初に試みたのが小さなエリア(スモールフィールド)を作り出すことだった。全てのエリアで相手にプレッシャーを与え、相手の逃げ道を塞ぐためにDFラインを高い位置設定した組織的なオフサイドトラップの戦術を併用することで効果を倍化させる。プレスをより効果的なものにするためにはプレーエリアを狭めるとともに全てのゾーンを効率よく生めながら、空いたスペースを隣のエリアの選手がカバーする必要があったのだが、そういったサッカーを行うにはライン数の少ない4-4-2のフラットな布陣を採用することになる。
トータルフットボールの再現がその根本にあるということは、サッキの狙いは試合全体を自分達のものとすることにある。基本的にはボール奪取と同時に中盤サイドの両WGに展開してからの非常に素早くシンプルなショートカウンターが主体であったが、そうでない場合、特にミランがボールをキープし続けるような試合しているときには4-4-2というよりは、むしろ4-2-4のような布陣で試合を展開しているシーンも見られるほどだった。
こうして攻守を一体化させたサッキミランのチーム戦術が機能したとき、相手にはもはや何の選択肢も残されてはいなかった。ボールが相手に渡った瞬間から全員で相手にプレッシャーをかけ囲い込んでしまと、相手はそれに戸惑うとともにプレーも直ぐにも消極的になり最終的にボールの保有権を自ら放棄する。
「ボールを持てば取られる・・・」当時のミランの対戦相手の心を支配していたのはプレーの喜びではなく、圧倒的な恐怖心だけだ。そうして試合終了のホイッスルと同時に彼らを肉体的・精神的なダメージが襲うこととなる。戦術家サッキは監督ならだれもが一度は夢見る破壊的でスペクタクルなチームを作り上げることに成功したのだ。
しかしこの圧倒的パフォーマンスを見せた戦術にも弱点はあった。この戦術はプレッシングが成功し、かつラインが高くフラットに保たれて初めてその真価を発揮するのである。つまりこの前提条件が崩れたときにその牙城は脆くも崩れさることになる。
具体的にはプレスのかかりが悪くなると中盤の選手の配置が隔たりスペースを生じる。しかしながらDFはラインの形成とその上げ下げに意識が行き、またラインを崩さないよう訓練されているためラインを飛び出して相手をチェックには行きにくいのだ。ラインの前方にできたスペースは裏を狙うFWへの格好の球出しの供給場所となってしまった。(当時の多くの映像で確認できるように)ミランの失点シーンはDF4人が”カカシ”のように立ったまま相手選手にGKと1対1の場面を作り出されている。このように失点シーンはみっともないが、だが失点自体は少なかったのは面白いところである。
こういった失点の最大の問題はプレスがかからない状況が起こってしまうことでDFには責任はなく、彼も認めていることだがDFラインとMFのスペースが離れることで起こっていた。(具体的にはこのときのミランは30mに全ての選手が入るように訓練されていた。)しかしシーズン中いついかなる相手に対してもプレスをかける必要がある戦術、しかもそうでなければその戦術が破綻してしまうというのはシーズン通じてのプレーを考える際にいささか無理がある。つまり選手に求められるのは第一に高いフィジカルコンディションであり、それをシーズン中繰り返し行う。この選手からの立場の視点を取り入れそこなったことこそ、その後繰り返されるサッキと選手の確執を生んでいる原因の一旦であろうことは容易に想像が出来る。
プロ経験の無い、元イタリア代表監督。
幼少期のサッキはイタリア人の多くがそうであるようにサッカーが大変好きだった。しかし彼が成長し、一人の自立した大人になってもジョカトーレになることはなかった。彼に選手としての才能があったかどうかすら問題ではなく、靴の製造会社を経営する父親がサッキの意思を頑なに拒否し続け、それが彼のプロ選手への道を閉ざしてしまった。結局、その父親の会社でセールスマンとして働きながらアマチュア5部ディレッタンティでプレーしたのが、彼の選手としてのキャリア全てである。
就職したことで彼のサッカーへの道は完全に閉ざされたかに思えたが、そのことがサッキのサッカーへの情熱を薄れさせるようなことはなかった。たゆまぬ努力により独学でサッカー理論を身につけると少年チームをコーチしながらコヴァルチャーノの監督コースを終了、 1977年で33歳で現在イタリアセリエC1のチェゼーナのユース監督に就任する。
彼の人生の大きな転機が訪れたのは、当時はまだ弱小チームであったセリエC1のパルマの監督に就任したときからである。就任1年目でパルマをいきなりセリエBに昇格されると、2年目から参加したコパ・イタリアで低迷の続いていたあの名門ACミランを2度も破って見せる。
「不調の強豪が格下相手にカップ戦で敗れる」このこと自体はサッカーでは別段珍しくもないことだ。しかしこの出来事に誰よりも強く衝撃を受けたのは、チーム強化を模索する後のイタリア首相、ミランのベルルスコーニ会長であった。サッキ監督率いるパルマが繰り広げる華麗でスペクタクルなサッカーに魅せられた彼は、どこの馬の骨とも知らない人物をいきなりミランのトップチームの監督に就任させるという大英断をすることになる。当然、マスコミからはサッキの監督経験の不足を指摘する声が上がり、シーズンの開幕前からベルルスコーニに批判が集中することになる。しかしサッキ率いる新生ミランは強豪相手に連勝したのを境に、彼の持ちこんだ現代的な戦術理論(ゾーンプレス)と選手の持つ潜在能力がマッチしだしチーム力が一気に開花していく。サッキは就任1年目のシーズンをわずか2敗、43得点14失点というこれ以上無い圧倒的な成績で終え、見事にスクデットを獲得したのだった。
87-88シーズンに圧倒的な力で優勝を飾ったサッキミランは、翌年から数年間にわたり欧州中のタイトルを総なめにすることになる。サッキミランが革新的なチームと言われる理由には、彼の持ち込んだ現代的なサッカーと欧州での国際的な活躍によるところが大きい。なぜならサッキ体制化でミランがスクデットを獲得することは無かったからだ。何故圧倒的な強さを持ちながらも国内タイトルを獲得することが出来なかったのか?理由はいくつかある。
まず、欧州でミランが勝ち上がれば勝ち上がるほど、ミランが日程との戦いを強いられることになったこと。二つ目は、まだ現代のようなターンオーバー制度が考案されていなかったことによりチーム力が安定しなかったこと。三つ目は、サッキミランのサッカーに対して国内のクラブは早々に対策を打ってきており、簡単に勝つことが難しくなっていた点などが挙げらる。
結局、国内での成績に恵まれることになかったことが、サッキのミランでのキャリアに暗い影を落とすことになる。何年か優勝の機会を逃したことで選手・ファン・マスコミなどの強烈なプレッシャーを受け続けたサッキは91年にミランを去る。低迷していたミランを見事復活に導いたサッキだったが、ここまでならば彼がこれほど有名になることもなかったかもしれない。皮肉なことだがサッキがミランを去った後、後任のカペッロ新監督はその戦術を糧として90年代のミランの黄金期を築き上げていったのだった。
追われるようにミランを去ったサッキに用意されていたのは、イタリア代表監督の椅子だった。そして迎えた94年のワールドカップアメリカ大会、イタリアはマイアミの猛烈な暑さのために怪我人を多数出しながらもサッキの采配がことごとく決まり、何とか決勝にまでチームを導く。しかし、メディア全盛時代のもたらした弊害でもある昼間・炎天下での連戦により、イタリアはもとより対戦相手のブラジルも満身創痍の状態で、試合の面白みはすっかりそぎ落とされてしまう。結局イタリアは0-0のPK戦に破れ、準優勝で大会を終える。
その後サッキはヨーロッパ選手権予選の敗退を理由に96年に退任すると、一度、ミランをシーズン途中ながらも指揮するが、チームがすぐにまとまるはずもなくよい成績は残せなかった。その後はスペインのA・マドリードを率いたがやはりここでも戦術がフィットせずその職を追われることになる。解説者やコーチ業を兼任するかたわら、現在はパルマのテクニカルディレクターとしてサッカーと関わっているが、しかし周囲の目がいつまでも「サッキついに復活か?」であることに変わりは無いのだろう。
サッキが用いた戦術は当時としては非常に特徴的かつ革新的なものであった。それまでのカルチョはカウンターを主体としたイタリア伝統の古い守りのサッカーが主体であったのに対し、サッキは彼独自のアプローチから非常に現代的で攻撃的なサッカーを築き上げた。
サッキの戦術を読み取るキーワードは
「プレッシング」
「4-4-2(4-2-4)」
「高いライン(オフサイドトラップ)」
の3つと言える。
戦術家としての側面が強い監督としてのサッキは、1970年代前半から出現したオランダのトータルフットボールの理論を研究し、それを現代でいかにして実践するかを考えていた。サッキが最初に試みたのが小さなエリア(スモールフィールド)を作り出すことだった。全てのエリアで相手にプレッシャーを与え、相手の逃げ道を塞ぐためにDFラインを高い位置設定した組織的なオフサイドトラップの戦術を併用することで効果を倍化させる。プレスをより効果的なものにするためにはプレーエリアを狭めるとともに全てのゾーンを効率よく生めながら、空いたスペースを隣のエリアの選手がカバーする必要があったのだが、そういったサッカーを行うにはライン数の少ない4-4-2のフラットな布陣を採用することになる。
トータルフットボールの再現がその根本にあるということは、サッキの狙いは試合全体を自分達のものとすることにある。基本的にはボール奪取と同時に中盤サイドの両WGに展開してからの非常に素早くシンプルなショートカウンターが主体であったが、そうでない場合、特にミランがボールをキープし続けるような試合しているときには4-4-2というよりは、むしろ4-2-4のような布陣で試合を展開しているシーンも見られるほどだった。
こうして攻守を一体化させたサッキミランのチーム戦術が機能したとき、相手にはもはや何の選択肢も残されてはいなかった。ボールが相手に渡った瞬間から全員で相手にプレッシャーをかけ囲い込んでしまと、相手はそれに戸惑うとともにプレーも直ぐにも消極的になり最終的にボールの保有権を自ら放棄する。
「ボールを持てば取られる・・・」当時のミランの対戦相手の心を支配していたのはプレーの喜びではなく、圧倒的な恐怖心だけだ。そうして試合終了のホイッスルと同時に彼らを肉体的・精神的なダメージが襲うこととなる。戦術家サッキは監督ならだれもが一度は夢見る破壊的でスペクタクルなチームを作り上げることに成功したのだ。
しかしこの圧倒的パフォーマンスを見せた戦術にも弱点はあった。この戦術はプレッシングが成功し、かつラインが高くフラットに保たれて初めてその真価を発揮するのである。つまりこの前提条件が崩れたときにその牙城は脆くも崩れさることになる。
具体的にはプレスのかかりが悪くなると中盤の選手の配置が隔たりスペースを生じる。しかしながらDFはラインの形成とその上げ下げに意識が行き、またラインを崩さないよう訓練されているためラインを飛び出して相手をチェックには行きにくいのだ。ラインの前方にできたスペースは裏を狙うFWへの格好の球出しの供給場所となってしまった。(当時の多くの映像で確認できるように)ミランの失点シーンはDF4人が”カカシ”のように立ったまま相手選手にGKと1対1の場面を作り出されている。このように失点シーンはみっともないが、だが失点自体は少なかったのは面白いところである。
こういった失点の最大の問題はプレスがかからない状況が起こってしまうことでDFには責任はなく、彼も認めていることだがDFラインとMFのスペースが離れることで起こっていた。(具体的にはこのときのミランは30mに全ての選手が入るように訓練されていた。)しかしシーズン中いついかなる相手に対してもプレスをかける必要がある戦術、しかもそうでなければその戦術が破綻してしまうというのはシーズン通じてのプレーを考える際にいささか無理がある。つまり選手に求められるのは第一に高いフィジカルコンディションであり、それをシーズン中繰り返し行う。この選手からの立場の視点を取り入れそこなったことこそ、その後繰り返されるサッキと選手の確執を生んでいる原因の一旦であろうことは容易に想像が出来る。