あるタカムラーの墓碑銘

高村薫さんの作品とキャラクターたちをとことん愛し、こよなく愛してくっちゃべります
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「鼻くそ丸めた仁丹」 (上巻p324)

2005-10-10 23:55:04 | 晴子情歌 再読日記
9月15日(木)の 『晴子情歌』 は、第二章 土場 上巻p298~p338まで読了。中途半端ですが、仕方ない。

彰之は、誠太郎から谷川巖の事を聞かされる。
今回の晴子さんの手紙では、鰊漁の詳細が綴られている。それがひと段落着いた後、晴子さんは巖に誘われ、幌で遊ぶというひとときを過ごす。その後、康夫さんたち兄弟と巖はカムチャッカへ発ち、晴子さんは土場へ戻る・・・。

上巻では、この辺りが読んでいて一番楽しかった♪ 晴子さんの初々しさとときめきと恥じらいに、読み手の私も一緒に同化したような感覚を味わいました。暴言吐くことが許されるなら、久しぶりに「乙女」になったような感じでした・・・(笑)

***

登場人物
今回はめぼしい人の登場は、なし。

登場した書籍や雑誌名 (作家名だけ出ているものは無視。登場ページの表記は略。すみません)
今回はめぼしい書籍の登場は、なし。作家名は出てますが、作品名が出てないので。

★☆★本日の名文・名台詞  からなのセレクト★☆★

★女も子どもも自然の惠みに胸躍らせて我先に濱に出、腹を滿たしたい一心であれ些細な贅澤の欲望であれ、それらは自らの身體の限界まで働くことゝ一つになつて、疲勞困憊も苦痛も経の麻痺もみな、或る獨特の穏やかな姿をしていたのは確かでした。尤も、鰊゛獲れさへすれば誰もが應分に潤ふ仕組みが目の前にあつたと云ふ意味で、誰一人不幸な者のゐない鰊場の漁撈はどこか麻薬のやうなところもあつたのかも。 (p313)
晴子さんのこの描写は、「労働の原点」という感じがしますね。

★まるで人間鰊。番屋に入つて來た彼らの姿に私は噴きだしてしまひ、さうしたら谷川巖がこちらを見てニッと笑ふのです。大漁だつたらほかにはもう何も要らないのだと云ひたげな、實に嬉しさうな顔は、齒ばかりがたゞ眞つ白い。それこそ漁師の顔と云ふものでありました。 (中略) しかし、目に焼きつかせた巖の笑み一つだけでも胸が熱くなるやうに感じましたから、當分はこれで燃料の補給が出來たと云ふもので、私はもう十分に仕合はせな氣分でした。それにしても、こんなふうに自在に軽やかに自分のこゝろを滿たしてしまへるのは少女の特技と云ふものです。 (p314)
「晴子さんの感じたこういう状態は、私にも確かにあった」・その6。私もふと、初恋の人と過ごした日々を振り返ってみますと(笑)、その人とひと言喋るだけでも嬉しかったり、クラス替えで分かれてしまって悲しかったり・・・と、ひと言ひと言、一挙手一投足を思い浮かべてしまいます。ほんわかとしたものが、心身を満たしていきます。私と同じ年齢になったとはいえ、今でも瞼に浮かぶのは、小学生・中学生の頃の人なのです。やっぱり女性にとって、「初恋」は特別なもの!

さて、今からの引用に関する私の戯言とツッコミは、寛容で寛大な心でもって、お読み下さいますようお願い申し上げます。

★あの巖青年が突然後ろに立つて「晴子さん」と私の名前を呼ぶのです。一間ほど離れたところにぼそりと突つ立つて、笑顔のずつと手前の初々しくこはゞつた顔をして眞つすぐ私を見てゐるのは、ほんたうに巖でせうか!
おそろしく眞面目な表情で次に巖が云つたのはかうでした。いまから羽幌へ遊びに行かうと思ふんだども、一緒に行かねえか――――。
 (p321)
きゃ~、デートのお誘いよ~♪

★かう云ふことが人生にはほんたうに起こるものだから、私はこの歳になつてもアンナ・カレーニナが驛で運命の人と出逢ふ場面が好きなのに違ひない。男女の間に起こることは後から考へるといつも唐突で、ぶつゝけ本番で、可笑しいくらいの流されやうで、何度思ひ返しても慣れてしまふと云ふことがありません。 (p321)
手紙を書いている時だからこれだけ冷静に分析している晴子さんですけどね・・・。
全くの余談ですが、「アンナ・カレーニナが驛で運命の人と出逢ふ場面」を私が初めて知ったのは、河惣益巳さんの 『ツーリング・エクスプレス』 で、ソ連を舞台にした、「ロシアン・エクスプレス」 というマンガからでした。・・・実はこの話のイメージ・アルバムも持ってます(笑) 「運命の舞台」というタイトルで、アンナ・カレーニナとヴロンスキーが駅で出会った時の名台詞入り(もちろんロシア語)という、非常に凝った作りの曲でした。

★片や私のはうは棒立ちのまゝ突然自分の身に起こつたことの整理がつかないでをりました。遠くから眺めてゐるだけのときは身體の中に自分ひとりで自由に飼つてゐたものが、突然聲も匂ひも質量もある男性と云ふかたちになつて出現してみると、私と相手の間に立ち現れたこの時空の全部が、實はまつたく未経験のことだつたと氣づかされます。 (p322)
ほーら晴子さん、やっぱり冷静じゃありませんね。

★そこへ巖が走り戻つてきて、マツさんにうんと云はせた、私の父の許しも貰つてきたと息を切らせて云ひ、初めて齒を覗かせて子どものやうに得意氣に笑ふ。あァやつぱり私はこの人が好きです。 (p323)
巖を好きだと、ついに認めました、晴子さん!

★巖はもうずつと大人のやうに働いてきたとは云へ、生來好奇心が強く、金魚でも藥でも知らないものでを覗き込んでゐる間は私のことを一寸忘れてしまふらしいのが、私には何か好ましくも感じられ、さうだわ、口數の少ないのがいゝのだわと勝手に思つたりするの。 (p324)
晴子さん、それはね、「あばたもえくぼ」というんですよ。(←外野の余計な声)

★私たちはどちらも時を忘れて何事か語り合ふやうな言葉を持たず、それでも少しも不足でなく、かと云つて一緒にゐるだけでいゝと云ふほど敍情的でもないこれは戀なのだらうかと、私のこゝろはなほもあいまいです。 (p325)
ああんもう、晴子さんのおバカさん! それを「恋」と言わずして、何と言うの!?

★しかし、ときどき巖の聲や匂ひにふいと針が振れるやうにして身體のはうが僅かに熱を持つてくる、その感じは自分がたしかに以前とは違ふ生き物になつたことゝ相等しく思はれ、さう云へば私はもう子どもを産めるのだと云ふ思ひと一つになつて、あるいし少女の夢想ではない、まさに康夫の云つた生物學的な秘の反應である戀に踏みださうとしてゐたのかも知れない。 (p325~326)
晴子さん、心の準備はOK! 一方の巖は?

★尤も、巖のはうは思ひどほりに行かず内心きつと苛立つてゐたか、當惑してゐたか。それなら一言好きだと云つてくれたらよいのに、それも云はないのが巖らしく、ならば私も默つてるわと思ひしばらくすると、今度は私のはうが可笑しくなつて噴きだしてしまひます。すると巖も笑ひ聲をかみころさうとして失敗するのでしたが、夕暮れの下でもその齒は鋭いばかりに白い。あァ私はやつぱりこの人が好きです。 (p326)
ああんもう、巖のおバカさん! 「好き」と言葉に出せないなら、行動で示しなさい! ぎゅっと抱き寄せるだけでいいのに~! あとは本能のなすがまま!(←ちょいとアンタ)

・・・今回はこの辺りを読みながら、私は内心でツッコミを入れつつジタバタしていたのでした・・・。
だってもう、じれったいんだもん! でも、そのじれったさが「初恋」の醍醐味でもあるわけで・・・。はふ~、疲れたけど楽しかった♪(笑)

***

※原文では、晴子さんの手紙は旧字体・旧仮名遣いを使用しています。どうしても変換できないものは、現代の字体・仮名遣いを使用しております。またOSやブラウザによっては、文字化けしていることもあります。その場合はお手数ですが、コメント欄を利用して申し添えて下さい。出来るだけ善処します。


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